幕間 名は復讐
名は復讐
ぴちゃりと、水が跳ねる。
ぴちゃりと、水が跳ねる。
ぴちゃりと、水が跳ねる。
こつりと、足音がする。
ぴちゃりと、水が跳ねる。
こつりと、足音がする。
ぴちゃりと、水が跳ねる。
ぱしゃりと、水が飛沫を上げる。
薄暗い路地裏で、物音が響いた。
男が、歩いていた。
揃えられていない髭、加齢と疲労でこくなったしわ。
誰が見ても、浮浪者か何かだろうと予想する、みすぼらしい身なり。
男は、今先程刑務所を脱獄してきたばかりだった。
全ては、失った。
自分の権威も、会社も、味方も、手下も、情報網も、総てを失った。
全てを失って、彼はここで復讐の権化と化す。
何もかもの全てを人から奪い、そして人に奪われた。
これまで、彼は一度たりとも不自由を感じたことがなかった。
奪われて、失って、初めて知ったのだ。この世界は、不自由で満ちている。本来なら不自由のなかったこの世界に、何者かが不自由を招き入れたのだ、と。
彼の思考は、独善的かつ高慢。
自分以外に対する興味を持たず、自身の利益の為だけにすべてを行動する。
だからこそ、総てを奪うことが出来、総てを奪われたのだ。
―――不自由の使者に、破滅を
―――不自由の使者に、決別を
―――不自由の使者に、復讐を
―――不自由の使者に、崩壊を
―――不自由の使者に、忘却を
ここで、彼は自らをヴェンガンザと名乗った。
スペイン語における、復讐を意味する言葉。
彼は、総てを失った今から、総てを始める。
「―――アレキサンドラ殿、でよろしいですか」
ふと、声を掛けられた。
茶の混じった黒髪を短くそろえ、妖しげな双眸を揺らして―――成人を迎えたばかりであろう、青年がやってきた。
老人はしわの刻まれた皮膚で囲われた瞳をぎょろりと動かして青年を見る。
子供が見れば、悲鳴を上げて逃げ去っていただろうに、青年はその瞳に刻まれた復讐の焔を見て何なら恍惚の表情を見せた。
「それでこそ、それでこそです!! 嗚呼、貴方こそ、私が従うべき人だ!!!」
狂ったように、青年は大振りの手振りで喜びを体現し、老人の前に膝をつく。
老人は、ゆらりと揺れる双眸を青年に向けた。
この様子を、彼は知っている。
この青年が誰なのかは知らない。
それでも、知っている。
この時、何をすればよいのか。
自分がどうあるべきなのか。
自分は知っている。
「名前は」
しゃがれた声で、老人が問う。
「エネミーゴ……エネミーゴ・ミラモンテス・トマスです」
青年が答えた。
「私の配下と成れ、エネミーゴ」
しゃがれた声で、老人が言う。
「はい、喜んで」
青年が答えた。
「私は、アレキサンドラだ―――アレキサンドラ・アルバレス・バジェステロスだ」
しゃがれた声で、老人が名乗る。
「存じております」
青年が答えた。
「そして今からは、私はヴェンガンザだ」
しゃがれた声で、老人が言う。
「理解しております」
青年が答えた。
ヴェンガンザとエネミーゴ―――二人のいびつな復讐劇が、今に始まろうとしていた。
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