57.サンチェスと駒 壱
サンチェスと駒
サンチェスが足を踏み入れたのは、長谷川警部の故郷であり、警察人生の多くを過ごした静岡県だった。長谷川警部に挑戦状めいた予告状を残して来日したサンチェスが最初に訪れた場所である。
わざわざ長谷川警部に地の利があるこの場所を選んだのは勿論、それだけの余裕ぶりを演出するためだ。
「怪盗を名乗るなら、これだけは譲れない――」
自分の不利な状況を逆転して勝つ、という展開はね、と呟きを続けながら、サンチェスは長谷川警部が到着するまでの少しの間、日本の情趣を楽しんだ。
「どういうことですか! いたずら電話は困ります」
サンチェスが到着したころの静岡県警では軽い騒ぎが起きていた。
突然にフランスからスペインの怪盗が日本に向かっている、という電話を受け取っても、簡単に呑み込むのが難しいのも然りだ。
いたずら電話だと勘違いされても仕方ないと言えば仕方がない。
しかし、フランスから電話している長谷川警部としては信じてもらわないことには困る。
出来るならば出来るだけ早くからサンチェス対策を講じておいてほしいのだ。
それでなお逮捕するに至るかは不確かだが、それでも幾らかの対抗策を持っているか否かでは大きく違う。事件が起こった時の対応も、体裁も――。
「私の名前は長谷川だ。聞いたことがある刑事はいないのか?」
出来るだけ早く、サンチェスを追ってフランスを出国せねばならないというのに、今このようにして時間をとられている暇はないというのに、という焦りが長谷川警部の脳内に生じる。
静岡県警で警察人生の大部分を過ごした長谷川警部としては、静岡県警とは人生の中で一つの変えるべきところのような存在だった。
しかし、長谷川警部がICPOでの職務を経験し、警視庁捜査三課として働いている間に、静岡県警の中での長谷川警部の存在とは既に風化しきったものなのだろう。
「長谷川警部ですね、少しお調べしますので……」
「そんな暇はない! 誰か、捜査三課の刑事はいないのか?」
長谷川警部の焦りが最高潮に達しようとしていた時、電話に応対していた刑事があっ、と声を上げる。
「佐々木警部、ちょうどよかった――」
「佐々木……警部だと?」
少しの間電話から音が消え、先ほどの刑事とは別の人物がデスクに雑に置かれていた受話器をとった。
「静岡県警捜査三課・警部の佐々木です。何か御用ですか?」
滑らかに相手の口から出てきた役職名を静かに脳内で反芻しながら、長谷川警部は小さく溜息をつく。
「警視庁捜査三課の長谷川だ。長谷川 雅だ。今はフランスから電話をかけている。」
「ん? その声、マジで長谷川か?」
やはり、聞き覚えがある声を聞きながら、長谷川警部は頬を引き攣らせる。
「ああ、そうだ。だが今はそんなことを話している暇はない。怪盗サンチェスがそちらに向かっている。可能な限り対策をしろ。〝警部〟なんだもんな」
「任された」
佐々木警部はそれだけ一言残すと受話器を置いた。
ガチャリ、と音を立てて通話が切れる。
「お知り合いだったんですか?」
長谷川警部の電話中、傍で会話を聞いていたレオパルドが尋ねる。
「ええ、腐れ縁のようなものです。というより、レオパルドさんは日本語がお分かりになるんですか」
凄いですね、と続けながら長谷川警部はフランス出国の準備のため動き始める。
「ええ、少しだけですが、日本語も嗜んでおります」
突如としてレオパルドの口から流れた清流の如き流暢な日本語を聞いて、長谷川警部の動きが止まる。そこまで綺麗な発音で少しだけ、と言われるとどうも反応に困ってしまう。
静岡県警では佐々木警部が動き出したことで、刑事たちが一斉にサンチェス対策のために動き出していた。
「何とも、変なところで偶然の再会だな」
佐々木警部は刑事たちへの指示を一頻り出し終え、自分のデスクに腰かけながら呟いた。
長谷川警部と佐々木警部は本当に腐れ縁だ。
子供のころから関わりがあり、そのつながりはどれだけ切ろうとしても切れないだろう。
まあ、それだけ繋がりが強くなったのは警察学校での――。
「佐々木警部、本日15時ごろ、長谷川警部が日本に到着される予定です」
長くなりそうな回想を遮ったのは刑事の報告だった。
昨日の夜、その日の書類整理を終わらせて帰宅しようと準備をしていた佐々木警部にフランスから電話がかかってきてから今で約10時間。15時まではあと大体3時間だから、妥当だろう。
フランスから日本には13時間ほどかかる。そう考えると、長谷川警部もあれから急いで準備を終わらせたものだ。
あと3時間が佐々木警部に与えられた猶予というわけだ。
長谷川警部は佐々木警部相手なら対策の穴などは容赦なく指摘してくるだろう。
佐々木警部としても、長谷川警部にダメ出しをされるというのは避けたいところだ。3時間のうちに対策の確認を終わらせておかなければならない。
幸いにも、長谷川警部との電話の後に送られてきた資料によるとサンチェスは予告状めいたものを送り付けてきてからでなければ事件は起こさないということだ。
その予告状が来ていない今、安心には至らずとも、必要以上に警戒することもないだろう。
怪盗とは、定まらないものだ。だから、予告状を出してなければ云々のことは信じがたいことでもある。
しかし、それでも長谷川警部からの情報だと検閲なしに呑み込んでしまう。
この矛盾が佐々木警部にとっては何とも歯痒く感じられた。
「よし、サンチェスが向かいそうな宿泊施設を洗いなおす。スペイン人が訪れた形跡のある宿泊施設を重点的に洗いなおせ!」
佐々木警部の一声に、「はい!」という刑事の喊声にも似た返事が返ってくる。
長谷川警部の読みでは、サンチェスはある程度の期間、日本に滞在するつもりだろうということだった。ならば、宿泊施設は必要になる。
元々、スペイン人で見つかりやすいというのに、野宿をするなんてバレやすい行動に出るわけもない。そのような考えから、宿泊施設の捜査が行われていた。
「はい、ホテル・フレッサでございます。当ホテルではお電話でのご予約は……あ、これは失礼致しました。警察の方でしたか――」
ホテルマンが電話の応対をしている横で、中年の日本人男性がチェックインをしていた。
チャリン、という音と共に306の番号が記された鍵を受け取り、男性はカーペットの敷かれた階段を上っていった。
「300~310」の看板を見つけ、そちらの方に向かいながら鍵を指にかけてくるくると回す。
部屋番号の書かれたキーホルダーと共についている2つの鍵――1つは部屋のキー、もう1つは部屋に常備されている金庫の鍵だ――がぶつかり合って金属音を鳴らす。
306の番号が指先ほどのガラス窓の上に書かれているのを見つけて、男性は鍵を使って中に入った。
中は高級ホテルだけあって華美なデザインだった。
絢爛豪華とまでは行かないが、上品で落ち着いたクリーム色を基調とした部屋のデザインは目にも刺激が少なく、過ごしやすい雰囲気を纏っている。
男性は満足したように一つ頷いて、手に持っていた荷物をベッドのそばに下ろした。
荷物の中でも大きなキャリーバッグのファスナーを開けると、中には衣服や生活用品とその予備が詰め込まれている。
「いやぁ、やはり外国人という立場は役立つもんだ」
男性はそう呟やくと、バッグの中のウェットティッシュを取り出した。
1枚取り出し、軽く顔を撫でる。すると、薄橙色だった肌は茶色っ気を帯びた色に変わった。
ウェットティッシュを持った手と反対の手で取りだしたビニール袋にティッシュを捨てると、もう1枚を取り出して顔を撫でる。そのような動作を何度か繰り返すと、その肌は完全にスペイン人のものだった。
最後に自らの黒髪をつまむとそのウィッグを持ち上げる。こちらもまた、茶髪がしたから顔を出した。
そうして、変装を解いたサンチェスはカーテンが閉ざされていることを確認し、立ち上がる。
「警察も、流暢な日本語を話して日本人の肌と頭髪を持った人物がスペイン人の怪盗だとは思うまい。何とも、易いものだった」
サンチェスの呟きは鍵を鍵掛にかけたときの金属音にかき消された。