彼女との最後
最後の一日というものは、あまりにもあっけなく終わる。
「ねえ、折角の長期休暇なんだから、どこか旅行にでも行こうよ」
クーラーの効いた室内。僕らはアイスキャンディーを手にしてテレビを見ていた時だった。
隣にいた彼女がそう言ったのは、テレビ画面に映された花火大会を目にしたからだろうか。僕らの住んでいる地域からは少し遠い場所の花火は綺麗に咲いていた。
「例えば?」
アイスが溶け落ちてしまう前に食べきらねば。一口齧って彼女に訊ねた。
「沖縄!」
口の中に広がる涼しさを堪能する暇なく、彼女に自分のアイスを向けられた。どんな味なのか気になるから頂いてしまおうか。
「絶対暑い。絶対暑いからパス」
しかし、その前に自分の分だ。彼女の手を戻してやった。
彼女は戻ってきたアイスには口を付けず、うーん、と唸った。首を僅かに傾げるのに合わせて揺れた髪。
「じゃあ北海道?」
シャリ、シャリ、とアイスを噛む度に歯が冷えた。口の中に広がるシロップの味は少々濃い気がするような。
「北海道のどこだ?」
アイスキャンディーを横に持ち、落ちないように心がけながら咥えていった。
「え、ええと……雪山?」
アイスと空いた手で山を作る彼女。
アイスを食べきり、ただの棒となったそれを彼女の額にぶつけた。
「今は夏ですよ、お嬢さん」
「もー、じゃああなたは何がいいのよ」
おでこをさすり、アイスついてた方でやったらべとべとするじゃん、と口がヘの字に曲がったのを眺める。君とならどこに行っても楽しいから構わない、とは素直に言えなかった。
「箱根とか近くで良い」
木でできた棒をティッシュでくるんで捨ててから、彼女の額をウェットティッシュで拭った。ごめんごめん、と言いながらやると彼女の頬が赤く色付いていたような気がする。
「むう……じゃあじゃあ! あなたの家でお泊りしよう!」
床を叩いてここだと主張された。こらこら、下に他の人が住んでいるからやめなさい。
僕の家なら一人くらいなら増えてもスペース的な問題は無し、幸いと言っていいのか一人暮らしだし、悪くはないだろう。でも、
「……旅行じゃないだろ、それ」
今気付いた、と言わんばかりの表情で彼女がこちらを見てきた。
「これは悩ましいねえ……どうしよう……」
腕を組んで、悩んでいます、と分かりやすいポーズを取ってくれた。別に無理して悩んでまで旅行する必要はないと思うけど。
彼女を眺めていると、食べかけのアイスが棒から離れようとしていたのが目に付いた。こりゃどうしようもない。彼女の手を掴んでアイスを口にすることで床への落下を防いだ。
「あ! 私のアイス!」
「君が早く食べないから」
そうだけど、と口答えする彼女に近づいてその口を指で拭う。僅かについた汁を舐めるとアイスの甘い味がした。
下に向けていた視線を持ち上げると、彼女の顔が間近にあった。僕を見上げてくる瞳は潤み、朱に染まった頬は滑らかそうだ。唇は仄かに隙間を開いており、そこから出てくる吐息は温かい。
片手を彼女の頭へ添えた。ふさふさと生えそろっている睫が伏せられる。顔を近づけていくと、二人の吐息が混じっていった。伝わってくる震えから、彼女の緊張が分かった。
唇と唇が触れ合う。彼女の柔らかい唇は優しく僕の唇を受け入れ、止めることなく離れていった。
何度も何度も重ね合わせ、その隙間に――
突然、スクリーンが消えたような感覚が起きた。否、実際に俺の目の前にあったパソコンの画面は暗くなっている。
「はい、ここまで」
隣にいた友人Bくらいのやつの仕業だ。強制シャットダウンするというパソコンへのいじめを行うとは何とも残酷な奴なんだ!
「おい待ってくれよ! ここから良いとこだったろう!」
ああ……CDプレイヤーからゲームのディスクが抜かれていく……俺、いや僕と彼女の夏休みが……。
「今日までしか貸せないっていっただろ? それをわざわざこんなギリギリまで貸してやった俺に感謝してほしいくらいだ」
友人B――いや、今俺の中では友人Eに変わった――から借りていたエロゲはソフトをコピーしていても、ディスクが無いとゲームができないというものだ。だから俺はディスクを借りてプレイしていたというわけなんだが。
「今日泊まっていっていいから! 頼む! 彼女ともう一夜過ごしたい!」
椅子から滑り落ち、友人Fの足を掴みながら床に頭をこすりつける。大好きな作家が書いている作品なんだ、一字一句丸暗記するまでどうにか借りたい。しかし、この世は無情なり。
「ダメだつってんだろ! そもそも俺今日は泊まれねえし!」
掴んでいた足を盛大に振られ手を離される。乱暴はダメって彼女ちゃんもいうだろ!?
「大体、いつもなら『あ、今日泊まるから』って居座るくせに今日はダメとか絶対これやらせねえためじゃねえか!? あと少しで五週終わるとこだったから頼むよ!」
両手を拳に変えて床をドンドンと叩く。しかし、目の前の野郎はため息をつくだけでディスクを渡してくれる気配はない。代わりに下の階にいる母の怒声が聞こえたので床を傷つけることはやめた。
「十分読みこんでるじゃねえか……つか、あの中盤イベントからエンディングまであと少しじゃないのお前も分かるだろ」
立ち上がろうとしたところで、多分奴の手で頭を押し付けられて顔を上げられない。顔が床に触れないギリギリをキープする俺と奴の戦いが繰り広げられる――!!
「一日って二十四時間もあるじゃろ」
両の腕で床を押していたが、俺はなんとか片腕だけに変更した。床と戦っていない方の人差し指をぴんと立て、くっくっくっと笑ってみせるためだ。
「ふざけんな、借りる時間一日増やす気か!」
しかし、頭を押す強さが増しただけだった。俺の首そのうち折れない? こうなったら力をいなすしかないな。
俯せになりかけていた体を寝転がし、仰向けとなることで俺は床とのキッスを避けたのだ。
「せめてキリのいいとこまでいきたいじゃん!」
そのまま奴の顔に向かってびしっと指をさした。しかし、その手は掴まれたかと思いきや床に投げつけられそうになる。待って、腕折れたらどうすんの。
「エンディング以外にもキリがいいとこあるよな? とりあえず、また今度貸すから一旦返せ」
負け犬のように腹を見せて転がる俺の額にデコピンがやってきた。容赦なさすぎて痛い。貴様は悪魔か。
「くぅ……お前がそのゲーム持ってたのもう少し早く知ってたら……」
手を悪魔の足に何度も叩きつける。悪魔は気にすることなくディスクケースを自分のカバンへ仕舞っていった。
「……この悪魔」
「悪魔でもなんでも結構」
何故だ、精神攻撃も通じないのか。
上半身を起こして座り直す。改めて、悪魔ことババァ(仮)に向き合い、コホンとわざとらしく咳きこんだ。
「ババァ」
「なんで性別変わってんだよ」
ジジィだと未来の自分へのブーメランになるからだよ。どうせ皆将来的には良くも悪くもジジィババァになる。
「鬼」
「おう」
なんて軽やかな返事だ!? 自分が鬼のように無慈悲で残虐だと自覚しているってことか……こうなったら最後の手札を使うしかない!
「お前のカーチャンでべそ!」
「……うん、懐かしいな」
最後の悪口に至っては懐かしいだと……!? くっ、俺はでべそくんに屈しないといけないというのか!
燃え尽きたボクサーよろしく四つん這いになる俺。
帰る準備が終わったのだろう、俺のことは無視して部屋を出ていく友人。
ああ、最後の一日というものは、時間に攫われる儚いものだった。