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パンプスと青服

作者: けら をばな

パンプスが嫌なら、青服着て安全靴履きやがれってんだ。


スウェーデン大使館が「私達の仕事場では好きな靴を履いて仕事ができます」と自慢する中、私の足の指先は、ミドリ安全さんの技術で百キログラムを超す鉄の塊から守られる。

私が好きなゆるふわ〜な服を着て仕事をしないのは、コンベアに挟まれ骨や内臓や脳をすり潰されたくないため。肩まで伸びる髪の毛は仕事中ヘルメットの中へしまわれていて、つまらない怪我をしないためにも爪はきちんと切っている。


「仕事のできるできないに格好なんて関係ない」? スーツで仕事できる奴らがどれだけ恵まれているか、考えたこともないのだろう。

「同じ格好して死んだ目をして電車に乗ってるサラリーマンなんかになりたくない」だって? 朝八時半、東名古屋港にいらっしゃいな。ジーパン姿の勤め人が嫌でも拝める。


なんて被害者ぶれるほど、劣悪な環境で働いてはいない。基本的に残業は45を超えないし、(クセの強いのは多いが)上司に意見を言える雰囲気はあり、ボーナスの面談では強めに要求を言える(さりとて必ず応えられるわけではないが)。


さて。三軸加工と五軸加工をいまいち理解できていない新人に若干の苛立ちを覚えながらも、午後七時に退社して、七時四十五分には家へついた。


恵まれていようが仕事はつかれる。「ただいま」と玄関に入ると、彼氏が「おかえり」と迎え入れてくれる。連絡はしたので、夕飯は既に用意されている。

よろしい。

しかも私の好きな台湾焼きそばじゃないか。

どうした?

金曜でもないのに。頭に浮かんでいたはずのルールドサーフェスの説明の仕方が吹き飛んでしまった。


彼はポスドクである。二つ年下だ。日夜大学へ通い、非線形力学を工学へ応用しようとそれなりに頑張っている。


そんな彼氏が、いつもなら居間で待っているだけなのだが、今日に限って私を出迎えた。

そして、


「あのー、食事の前にお話があるんですが……」


と、申し訳無さそうに言ってきた。


……何?


分からない。心当たりなし。別れ話じゃないだろう。それなら私の好きな料理を用意するはずはないし、別れて困るのは残念ながら彼の方である。

金の無心か? コンビニのおにぎりをおごられるのさえ嫌いなコイツがそれをするだろうか。それなら多分、私より先に親を頼るだろう。コイツの母親とは実母よりも仲良くしているのだが、そんな話聞かない。


料理を前に向かい合う。冷める前に食べたいのだが。

彼はやや躊躇しながらも話を切り出す。


「えーっとですね……ぼくも、まあ、足りないながらに、ぼくなりにがんばっているとは思うんだ」


「え? ああ、うん、頑張ってると思うよ。家事やってくれて助かるし、仕事じゃ周りの状況に左右される中、熱心に研究してさ。全部わかってるわけじゃないけどさ、頑張ってんだよなってのは分かるよ」


「え? あ、ありがと! うん。でも君も頑張ってるよ。いつもお疲れさまです」


褒められたのが嬉しいのか、ニヤニヤしながら私を褒め返す。

いやいや違うだろ。言いたいことがあるんじゃないのか。こんな、私の好きなもの用意しときながら。

私の思いが通じたのか、彼はすぐに表情を正す。


「それでさ、頑張ってはいるけど、なかなか、ほら、将来のことが分からないっていうか、展望が見えない状況でさ」


「それは仕方ないよ」と口を挟む。「あんたのがんばりだけでどうにかできるもんじゃないでしょう? そんくらい分かってるからさ、あんまり気にしないでよ」


「え? あ、うん……」


彼は戸惑ったように、再び黙る。


あまり気負わないでほしい。本音である。

彼の今の立場が社会的に評価されないというのは、彼自身が一番悩んでいるはずだ。できるならば、そんなこと気にせず精一杯研究に励んでほしい……のだが……しかしまさか、研究者としての道を諦めるとか、そういうことだろうか? どこか安定した一般企業へ就職するとか?

うーん。

そう言われたらどうすべきか。その選択はけっして悪いことではない。

今の仕事を続けてほしいと思いつつも、評価されない現状に嫌気が差すのもわかる。将来の不安を抱えてたまま過ごすのは苦痛だろう。分かる。尊重したい。

でも……。


とりあえず話を聞かなければ。とりあえず前へ進めよう。彼がどんな気持ちでどうしたいと思っているのか。

何かしら言ってやりたいこともあったが、私は黙る。私の沈黙を察したのか、彼が決心したように私の目を見る。

そして彼の口から出た言葉に、私の頭から、あらゆる思考が吹き飛んだ。


「あのさ、あのね、結婚しない?」


……理解が追いつかない。しばらく黙る。彼が戸惑う。


「あれ? えっと、結婚をね。しようかなって。えっと、あれ?」


「ああ、うん、聞こえた聞こえた。大丈夫。急に話が飛んだからびっくりしただけ」


話下手か。


「あー、そうだよね。うん、ごめんごめん。話の持って行き方が悪かったな。……本当は、何かしら肩書を持つか、研究のできる企業に就職してから申し込もうって……思ったんだけど……でもね……いや、もちろん、それを諦めてるわけじゃなくて……結婚するためにも頑張っていたんだけどさ……」


たどたどしい。

うん、これで良い。私は待つ。


「あのね、結婚してから頑張るんじゃ駄目なのかなーって。そこらへんは、分けて考えていいのかなーって。なんていうか……」


次に続いた言葉は、きちんとはっきりと私に届いた。


「一方的に、ぼくの理由だけで君を待たせるなんて、あまりに君に不誠実だ」


「誠実さ」。あらゆる言葉が飛び交う今の世にあって、一番必要なものだと思う。私は彼のこの一点に惹かれていると言ってもいい。


「成程。じゃあ、結婚しようか」


私は答えた。彼は、また戸惑った。

まったく、自分から申し込んでおいて情けないやつだ。


「えっと、うん。お願いします。……あ、あのね、夕飯の食材買ってるときに思いついたから、指輪用意してなくって」


「思いつきか」


「あーうん。申し訳ない」


「それで良いよ」


私は笑う。彼も笑う。楽しい。今この瞬間が未来過去含め私の人生で一番楽しいんじゃないか? と思うくらいに。


サボテンが黄色い花をつけていた。

明日はまた、今の気持ちと似つかわしくない、昨日と然程変わらない一日となるだろう。

劇的な変化があるとは思えない。結婚に関する様々な手続きや反応を細々考えるとむしろ気が滅入る。


結婚が幸せなことだとは思わない。それは現在の先進国共通の認識だ。

だからといってこの気持ちに嘘をつく理由にはならない。


今日は何も考えず、美味しいご飯を食べて寝よう。なんてったって今日の夕飯は、私の大好物なのだから。

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