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それが俺にできる恩返し

作者: 水郷 美六

 はぁはぁ、と荒い息を吐きながら歩く。

 足取りはおぼつかず、視界も霞んできている。意識は大分前からはっきりとはしていない。彼は思う。今どこにいるのか、どこから来のか……そんなことも分からないくらい、長く歩き続けてきたのだ。そう、分かっているのは、彼の身体(からだ)はもう限界に近いということくらいである。


 深い闇の中、白い雪がゆらゆらと降る夜道、彼の身体から流れ出た血の跡だけが白い道を赤色のアクセントでつらつらとなぞっているのが分かる。脚は変な方向に曲がり力が入らず、耳も付け根から半分ほど裂けている。頬を伝い、口の中には血の味が広がる。彼は、案外血の味ってのは不味くないんだな、と確認するように舌を動かして見せる。


 朦朧とする中、彼のわずかな視界の端にオレンジ色の光が入り込む。少し見上げるくらいの高さのその光。誰かが居るのかもしれない、と彼はなおも身震いした。だが進路を変える体力すらもう今はない、今は真っ直ぐ歩くことくらいしか――


 でももう、彼は限界だった。


 光の真下に来た辺りで彼は身体を地面に預ける。

 雪が身体に掛かってこない、ここは建物の下――

 

 彼の意識はそこで途絶えた。



***



 パチパチと音が聞こえる。それに寒くない、さっきまで凍える寒さだったのに、むしろ暖かい。そしてこの匂い……間違い無い、ここは人家だ。いつの間にか横たわる自分の身体に気づきながら、彼は確信する。


 おそるおそる目を開ける。暖炉で火が燃えている。薪が弾け、先ほどのパチパチという音を立てている。


(どういうことだ、確か俺はあの時光の下で――)


 彼の身体の下には柔らかい毛布が何重にも敷かれており、ふわふわとして心地良い。辺りを見渡す。暖炉周りだけがレンガ造り、あとは木造。天井には優しく包み込むような光を放つシャンデリア風のペンダントライトが下がっている。


(痛っ――)


 不意に身体中が痛み、思わず身体を燻らせる。あれだけの傷を負っていたのだから痛くないわけがない。

 そんなとき、背後から人の声がした。


「おお、気が付いたか! 母さん、母さん! 目が覚めたぞ!」

「まあ、本当ですか!」


 確かに彼の耳に届いた二人分の人の声。一人は男で老体、ずっと老けている声。もう一人は少し遠い声で女。はっきりと聞き取れなかったが、同じくそんなに若くはないと彼は感じた。


(憎き声、禍々しさすら感じる、人間の声だ)


 背後を振り向こうとするが、何やら身体がおかしい。上手く動けないしバランスが取れない。自分の身体をよく確認する。


(なんだ、一本ずつ腕も脚も白い変なのでガチガチに固められてやがる。視界もなんだか変だと思ったら、片目しか見えてないじゃねえか)


 彼はわなわなと震え、怒りの感情を胸に集める。


(やはり人間、どこまでも俺を、俺の身体を弄ぶつもりなのか!)


 振り向けない代わりに、彼は身体の痛みに耐えながら、声にもならない声で威嚇する。


「おやおや、あんまり無理をしちゃいかんぞ。せっかくのギプスも包帯も、取れたら大変だ」

「本当、可哀想に。このワンちゃん、よっぽど怯えていますよ。誰がこんな酷いことを……」


(誰が、だと? お前たち人間だろう、現に今だって俺の身体の自由を奪ってる……そりゃあ怖いさ。どんなに足掻いても、頭も良い、力もあって器用なお前たち人間に勝てるなんて思えないからな。でも――俺にはこうするしか出来ないんだよ!)


 力の許す限り、彼は唸って吠えてを繰り返す。

 ジタバタしながらようやく振り向いた先にいたのは、白髪に白いあご髭をたっぷりと蓄えた老人と、同じく白髪でゆったりとした佇まいの老婆だった。


(今まで見た人間のどれとも違う、いかにも弱そうな人間二人。こいつらなら……手負いの俺でも勝てるかもしれない)


「苦しかったろうに、辛かったろうになぁ」


 老人が手を彼にゆっくりと伸ばす。彼はチャンス、と言わんばかりにその無防備なそれに思い切りがぶりと噛み付いた。


(触るな! これ以上俺に何かしようものなら、お前の手を食いちぎってやる!)


 しかし身体の痛みや無理なバランスで思うように力が入らない。一瞬顔をしかめる老人。多少なりともダメージは与えているようだ。だが致命傷にはほど遠い。

 その後ろで老婆が両手を口元に当てて肩を竦み上げる。「義信(よしのぶ)さん!」と小さな悲鳴が響く。


(くそっ、俺はこんな抵抗しか出来ないのか!)


 義信、と呼ばれた老人は手を噛まれながらも、それでも場にそぐわない笑みを浮かべ、もう一方の手を彼の背中に伸ばす。これまでか、と思った彼は触れられた瞬間に身体をびくっと跳ね上げた。


 しかし義信の取った行動は、彼にとって理解しがたいものだった。


 義信はただただ彼の背中を強すぎない力で撫で上げる。何度も、何度も撫で上げる。あまりに奇妙なそれに彼は混乱した。気付かないうちに噛み付いた手を放すほどに。


「怖がらせたなぁ、でももう大丈夫。お前はもう安心して良いんだ。すぐじゃなくて良い、ゆっくり、ゆっくり休むんだ」


 繰り返される行動に、胸の奥から込み上げる知らない感情に彼は耐えきれず、何とか義信の手を振りほどくようにもがいてみせる。「おやおや」と義信は笑っている。

 それでも彼は警戒を緩めず唸り、威嚇する。


「義信さん、手をケガして……」

「なぁに、こいつの受けた痛みに比べれば安いもんだ」


(こいつは……ヨシノブは何を言ってるんだ?)


 人間は本当に意味の分からない行動ばかりする。彼は構えながら、理解の出来ない二人の動向に注目した。


「こいつが人を信じるにはまだまだ時間が必要だろう、それまでは俺たちがこいつを信じてやろうじゃないか。なあ多恵(たえ)

「それは分かりますけど……こちらも心配でなりませんわ」


 多恵、と呼ばれた老婆はせっせと義信の手の血を拭き取り、消毒液を患部に使い、白い包帯を巻いて手当をする。


(あの液体や白い布は……まさか、ケガを治しているのか? じゃあ俺の身体に巻かれたこれらは――)


 まさか、人間がそんなことをするはずがない。俺たち犬のことをただの『標的』にしか思わないようなあいつらが……俺を手当するなんて、これは何かの罠だ。

 彼はそう疑った、むしろそうあって欲しかった。込み上げてくる感情の正体が分からないから、あいつらが、悪じゃないなんて――決して思いたくなかったのだ。


 義信は唸る彼を前に両手を広げ、大きく言い放った。



「ここはもう、お前の家だ!」



 こうして彼は義信家、もとい越後谷家の一員にさせられた。とりあえず危害は加えてくることはなさそうだし、俺の身体も自由が利かない。一時休戦にするとしようと、警戒は緩めることなく身体を再び毛布に預けた。



 そして、いつの間にか眠りについた。



***



 目が覚めると銀皿に用意された牛乳。それには何かしらの悪意が詰まっていると信じて疑わない彼は、口にしようとはしなかった。


(これは飲んだことがあるから知っている。しかし、安全とも限らない)


「困ったものですねぇ、きっと何も食べてないでしょうに」

「仕方ないさ、信じてくれるまで諦めるな。それが今彼に出来る優しさだよ」


(優しさ? なぜ人間が犬の俺に優しさを売る? なんの得があってそんなことを――)


 彼の謎は深まるばかり。今まで人間から傷つけられることだけを学んだ彼にとって、義信や多恵の行為は不可解という他ないのである。



 来る日も来る日も、二人は牛乳や食べ物を与え続けた。しかし、彼はその一切を確実な悪意をもって拒否するという形で応え続けた。


 そんなある日、衰弱した彼は現状に疑問を持ち始めていた。

 なにもしてこない人間、ただ自分に暖かく柔らかな場所を提供し続ける人間。なによりも、決して傷つけようとしないこの二人に、自分の剥き出しの敵意はもしや的はずれなのでは、と。


(そろそろ腹も減りすぎている、なにかを口にしなければ、俺は限界をまた迎えるかもしれない。そしたら俺は――どうなるんだ)


「そうだ!」


 義信は閃きの声を上げ、彼を嬉々として見つめる。彼は包帯で巻かれていない耳をぴくん、と動かし反応を見せる。


「こいつに名前を付けてやろう、なぁ多恵、良いと思わんか」

「あら、それは素敵ですね。いつまでもこいつ、では可哀想ですものね」


 二人はああでもないこうでもないと楽しそうにはしゃぐ。その姿を怪訝な想いで見る彼。


(名前、だと? そんなの、犬の俺にはいらないもんだ。本当にこいつらは分からない――でも)


 少しずつ、心の中の凝固した憎しみの塊が……溶け出していることに、彼はうっすら気付いていた。


(なんだか、あったかくて……良いな、こういうのも)


 少しだけ、彼の薄茶色の尻尾が数度、横に振れる。


「お、お前も嬉しいのか! じゃあ早速、そうだなぁ……」

「あなたの名前から取って『ノブ』というのはどうでしょう?」

「ノブ、か。悪くはないが……いや、そうだ!」


 義信がまた閃いて、彼ににかっと白い歯を見せた満面の笑顔を向けた。


「お前の名前は『アラタ』だ! ここから始まる新しい人生だから、『新』しいの一文字を取ってアラタ。どうだ多恵」

「ええ、とっても素敵ですよ。犬なのに『人生』とは変ですけどね」

「そ、そんなことはいい。アラタだ、アラタ!」


(アラタ、だって。なんだか良くわかんねぇけど、アラタって言うんだってよ俺)


 無意識に、彼はのっそりと身体を起こし、銀皿の牛乳をペロリと舐めた。確かめるように、恐る恐る舐めるそれに恐怖感を無くし、二度、三度と舐める。


「おお、アラタがやっとミルクを飲んだぞ!」

「本当!」


 すごいぞ、と声を掛けながらアラタの背中を強く擦る義信。身体を揺らされても、食事を邪魔されても、もうアラタは義信に牙を向けることはなかった。


(ああ、美味い。今までで一番美味い。本当に――こいつらは、不思議な人間だ)


 それはアラタが越後谷家の一員となって五日目のことだった。



***



 アラタはすっかり元気になり、二人から多くの愛情を注がれた。


 特に義信はアラタに首ったけで、片時もアラタから離れようとせず、アラタが時折迷惑してるんじゃないかと多恵が思うほどだった。自宅は郊外の一軒家。周囲は広い庭のようなもので、元気になったアラタは義信に様々な遊びを教えてもらった。

 アラタの脚のケガは完治することはなく、後遺症が残りひょこひょこと歩く。それでも、アラタも義信にべったりで、義信の行く先々に付いていく始末であった。

 そんな仲睦まじい二人を、ほんの少しだけずるいなぁと思いながらも微笑ましく多恵は常に一歩引いて見守っていた。


「よし、アラタ。このフリスビーを投げるからな、戻ってきたらお前の口でキャッチするんだ」


(ふりすびー?その手に持ってる派手な赤い板か?)


 理解しているのかどうかも分からないアラタに構わず、義信はフリスビーをそれ! と宙に投げる。宙に飛び出しては不思議な弧を描く円盤にアラタは好奇心をくすぐられ、ついついひょこひょこ脚で追いかける。やがてそれはアラタの近くに不時着し、アラタがそれを咥えて義信のもとへと持っていく。


(これすげーな、飛んだと思ったら戻ってきた! でもなんだかヨシノブはあんまり嬉しそうじゃないぞ?)


「よしよし、持ってきてくれたのか、偉いぞアラタ。でもちょっと違うなぁ」


 アラタの頭をぐしぐしと撫でながら義信は言う。今度はフリスビーをぽん、と少しだけ上に投げ、自らの口で咥える仕草をしてみせた。


「どうだアラタ、こうだ。こうやってキャッチするんだぞ。よし、もう一回」


 それっと再びフリスビーを投げる。アラタはそれにつられてひょこひょこ走り出す。やがてアラタに向かって戻ってきたフリスビーを少しだけジャンプして咥えてキャッチする。


「おお! すごい、すごいぞアラタ!」


 義信は大はしゃぎだ。八十も近い老人の姿はどこにもなく、まるで幼い子供のようだった。


(やった、ヨシノブがまた嬉しそうに喜んでるぞ。俺、ヨシノブのシワだらけの顔がくしゃっとなって笑うの、好きなんだよなぁ)


 アラタもまた、尻尾をぶんぶんと左右に振りながら義信の顔を何度も舐めた。



 ある日の晩、義信がどこにも居なかった。

 アラタはとても不安になり、おんおんと吠える。多恵は家におり、アラタをなだめるも全然落ち着かない。


「アラタ、ほら落ち着いて。あの人はもうすぐ帰りますから」

(ヨシノブ、どこにいるんだ! 俺を置いて居なくなったのか! 俺はまた、独りになんか……もう嫌だぞ!)


 外からカシャンと軽い金属音がする。義信の自転車がスタンドを上げる音だ。耳の良いアラタはすぐに気付き、両の耳をピーンと立て、背筋をしゃっきりと伸ばしたかと思うと、急いで玄関へと向かい、玄関マットの上でちょこんと座って義信を迎える準備を整えた。嬉しい気持ちを隠しきれないアラタの尻尾はすっすっと床を何度も擦りながら往復する。


「ほんと……義信さんにメロメロねぇ。相思相愛というのかしら、嫉妬しちゃいますよ、私より出来た奥さんみたい」


 パタパタとアラタの後を追う多恵。やがてがちゃりとドアが開き「ただいまー」と義信が入ってくる。義信の姿を確認するやいなやアラタは(かまち)を飛び降り、義信の脚に飛び付き、高く、どこか甘えた声で吠える。

 遅くなってすまん、と義信もアラタの頭を何度もポンポンと優しく叩く。反対の手には白い紙袋を下げていた。


 中に入ってしばらくすると二人とアラタはソファに座り、義信がテーブルの上に先程の紙袋から小さな箱を取り出した。その箱を多恵が綺麗に開封し、中から現れたのは犬用に作られたホールケーキだった。


(なんだこれ、甘い匂い……美味しそう! これ食べても良いのか!?)


「アラタ、誕生日おめでとう! 今日はお前がうちの家に来て一年目の日だ。だから今日はお前の誕生日だ!」

「おめでとう、アラタ。ほら、お食べなさい」


(なんだか良く分からないけど、二人とも嬉しそうだ。これは俺へのご褒美みたいだ、なんでだろ?)


 自分の誕生日というのも他所に、アラタはホールケーキの匂いを嗅いで一口、また一口と食べていく。義信と多恵はその光景を嬉しそうに眺める。


 この日は、あの凄惨な日からちょうど一年が経った日だった。


「あの日、アラタが家の玄関の前で倒れていた時は本当に何事かと思いましたね。でもあの日から、私たちの世界が見違えるように変わりましたものねぇ」


 多恵が涙ながらにそう話す。義信もまた目に涙を浮かべる。


「ああそうだな。何故かは分からんが、あの時俺はこいつを助けないといけない。そんな使命感を覚えたんだ。あの宣告の日から、何もかもを見失ったあの時から、最後の新しい希望がやってきたってな」

「義信さん……」


 義信の身体は病に蝕まれていた。アラタがやって来る一ヶ月前に医師から宣告された。もって一、二年だと。それからの二人の生活は実に暗く、会話もほとんどないほどであった。二人は子供にも恵まれず、ずっと二人きりでやってきたからこそ、のしかかるものは相当のものであったに違いない。


「今はアラタに本当に感謝してる。もちろんお前は一番にだ、多恵。四十年もの間、ありがとう。俺になんかあった時には、アラタを――頼んだぞ」

「そんな縁起でもない……私は今も昔も変わらず幸せですよ、でもアラタがやって来てからのあなたは――今までで一番輝いているようでしたよ」

「やめろよ、恥ずかしいじゃないか」


 涙を拭きながらアラタを撫でる多恵。アラタはケーキをたいらげ、満足そうに口回りのクリームを上手に舐めとる。


(なんだか哀しい話してるのか? でも俺もこの家に来てシアワセだぞ、今まで生きてきて、今が一番にシアワセだ!俺はヨシノブが大好きだ、それにタエも)


 二人をよそに尾を振るアラタ。幸せを噛み締めるアラタ。希望に溢れるアラタ。


 そんなアラタの想いと裏腹に、二人の想いは予定通りに、時間は終着駅へと義信を運んでいった。



 義信が倒れて救急車に運ばれたのは、アラタの誕生日会から三ヶ月後の桜がまだ花開かない春の始めだった。


 ただならぬ気配に、アラタも落ち着いてはいられなかった。いつもいるはず、出掛けていても数時間で戻ってくるはずの義信が待てど暮らせど帰ってこない。多恵も出掛けることが多くなり、帰ってきてもすっかりしょげてしまっている。


(タエ、ヨシノブはどうしたんだ、なんでいつもいないんだ。俺は……寂しい、どうかしてしまいそうだ!)


(きっとジジョーがあるんだな、きっとそうだ。でなきゃあんなに優しいヨシノブが、俺とタエを放っておく訳がない)


(タエ、元気が無いのか? 人間は決まって辛そうなときにうつむいて、そうやって小さく声を出しながら、目をたくさん拭くんだ。タエもヨシノブがいなくて哀しいのか?)


(ヨシノブがいない間は俺がこの家を守ってやる、だからタエも元気出せ! 俺がいる、安心しろ。ヨシノブは必ず元気にまた帰ってくる!)


 家の中の空気はすっかり変わった。だがアラタは多恵を必死に励まそうと、手を沢山舐めたり、義信と遊んだボールやフリスビーを多恵の元に持っていったり。アラタなりに思い付く励ましの限りを尽くした。


「アラタ、ありがとう。あなたはとてもお利口ね、あなたのおかげで今私はとっても救われてるわ……でも、さよならは必ずやってくるのよ」


(さよなら? さよならは、もう会えないってことなのか? 誰にでもやってくることなのか?)


 やがて延命治療の限りを尽くして義信が家に戻って来たのは、一ヶ月後の桜が咲き誇る頃だった。



***



 帰ってきた義信は痩せ細り、あの生命力に満ち溢れた以前の面影はどこにもなかった。風前の灯、それでもアラタと多恵に向ける笑顔は、前より一層しわが増えてはいたが優しさに満ちていた。


 ベッドに入ったまま満足に動けない義信。隣で手を握り続けて涙を流す多恵。きっちりおすわりをしながらも、小さな悲鳴にも似た声を上げるアラタ。


「世話かけたなぁ、多恵……俺は幸せだったぞ、今でも胸張って……言える。あっちに行っても、俺はお前しか愛せないって、なぁ」

「はい、私もですよ……義信さん」


 強く、強く。しわだらけでも白くてすっとした多恵の手が、義信の手を握りしめる。


「ずっと、愛してる。ずっと、俺たちはまた……一緒になるんだから、なぁ。アラタも」


 アラタ、と言われぴくんと背を伸ばし、義信の側へと駆け寄る。ベッドにつかまり立ちをして義信の顔を必死に舐める。


(ヨシノブ、もう起きられないのか? これがタエが言ってたさよならってことなのか? 俺があんたに助けられたあのときのように、今度は俺が助けるから、だから――起きてくれよ!)


 アラタの鳴き声がより大きくなる。義信はにっかりと笑い、震える手でアラタの頭を撫でる。


「アラタ、お前は俺たちの、生きる希望だった。あの時、俺はお前を助けた。今度は……お前が、多恵を、助けてやってくれ」

「義信さん――」


 握り合う手に、多恵の涙がいくつも零れる。


「さよなら、だ。アラタ、さよならの理由は、俺が死ぬことじゃあ、ないんだぞ。お前が、多恵の生きる希望になったってこと……だからな」


(希望……俺はヨシノブに、生きる希望を与えてもらった――分かったよ、今度は俺がヨシノブの一番大切な人の、生きる希望になる。それが――俺に出来る、あんたへの恩返しだ!)


 ワン! と高らかに鳴く。義信はまたにかっと白い歯を見せて、ゆっくりと目を閉じる。


「二人とも、ありがとう――」


 呼吸が止まる。力が抜ける。心音が――止む。すべてを悟った多恵は、声にもならない声を押し殺し、そっと義信の顔を撫でる。


「お疲れさまでした、あなた」


(さよなら、ヨシノブ。ありがとう、ヨシノブ)


 アラタが鳴く。長い長い声で。それはヨシノブを弔い、送り出す儀式のように。

 哀しみと宣誓を混じえた、力強い声だった。



 桜色に染まる春、それぞれの哀しみと共に花びらは天高々へと舞っていた。





~完~


お読みいただきましてありがとうございました。


今後もよろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] アラタが徐々に心を開いていく様を巧く描写していたと思います。 図らずも、ラストはうるっとしてしまいました。 [一言] 素敵な物語をありがとうございました!
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