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世界に花を、私にナイフを  作者: ササキノボル
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走れ、桜美林


  第三章


  「走れ、桜美林」


  ニュースサイト新聞社。

  その三階に位置する総合編集部門。記者という名の戦士らはフロアを埋め尽くし、乱雑に積み上げた書類が成す塹壕にこもって襲いかかってくる「締切 り」と勇敢な攻防戦を繰り広げていた。こっちは一刻も惜しむと言わんばかりに鍵盤を叩き、そっちは情報を得るために唾を飛ばし、あっちは言い争う二人が殴り合う寸前。甘ったるい正義感とモラルは一切通用しない、結果だけがモノを言うバトルフィールド。そこへ君臨する無二の女王、編集長ミナミ華子、彼女は一人一人のもとへ訪れ、戦況を伺っては適正な指令を下して回る。

  そんな中、疲労に負けたのか、一人の戦士はデスクに伏せて顔を埋め、雑音を物ともせずに眠っていた。彼の名は桜美林、ニュースサイト新聞社の切り込み隊長、素晴らしい嗅覚を持つやり手のニュースマン。

  「なにか困り事かい?」

  近くに来た編集長ミナミは彼に声をかけてやった。ハッと起き上がり、声がした方向に青アザだらけな顔を向ける桜美林。

  「いやだ!どうしたその顔、何があったの?」

  その痛ましい有り様にミナミは驚いだ。

  「夜道を歩いていたらいきなり物盗りに襲われたんだ」

桜美林は淡々と答える。

  「警察には届けた?」

  「あぁ!届けたよ、ってちょっと、おい、マジで痛いから指でつつくのやめてくれ」

  ミナミは面白半分で青アザを指でつつき、本気でいやがる桜美林はその手を払う。

  「でもよかったわ、これぐらい元気ならお医者さんもお休みもいらないわね」

  はぁ?信じられない!っと桜美林は眉間を強張らせ、物盗りに殴られた傷よりも深刻なダメージ、言葉の暴力というものを受けた気分。この女は人の皮を被った吸血鬼に違いないよ!生き血を最後の一滴まで吸い尽くそうとしている。

  「ああ!休みはいらないし、病院にもいかない!死ぬまで働きます!!」

  「冗談よ!」

  クスっと笑うミナミ。

  「そうカッカしないでよ」

   慰めの言葉をかけようとしたミナミだが、机の上にあるものが目に入ってきょとんとした。気づいた桜美林はゆっくりと手を伸ばして覆い隠そうとしたが、ミナミに制止された。それはカメラだった、乱暴に叩きつけられてボロボロに壊わされたカメラ、おまけにその側面には貼られた赤いステッカーにニュースサイト新聞社貸出用っと書いてあった。心なしか、編集長ミナミは怒りのあまり、スーパーサイヤ人にでも変身してしまいそう。固唾を呑む桜美林は慄くが、そうはさせんぞ!っとばかりに先手を制した。

  「ミナミ、ごめんなさい、本当にすみませんでした!」

  すかさず謝罪を続ける桜美林。

  「まったく予想外なことが起きたんだ!許してください!壊そうと思って壊したわけじゃないから!」

  何一言いわないミナミ、ただただ掌を握りしめ、一つ二つ三つっと桜美林に壊されたカメラの総数を数え始めた。

  「・・・おい、落ち着こう」

  「殺すぅ!!!」

  「待って!今回ばかりは大目に見てくれ!だってあのコトブキ町に行って来たんだから!」

  「コトブキ町?あの無法地帯に?」

  襲いかかる爪は正確無比に急所を捉えたが、間一髪に避けてみせた桜美林は冷や汗。普段は何かあればすぐ取っ組み合う二人、その日頃の鍛錬のおかげで、桜美林は辛うじて生きているようなもの、だから命乞いが唯一の逃げ道。

  「そうだよ!だから、カメラが壊れても不可抗力ってやつなんだよ!」

  「死ね!今すぐ死ねぇ!」

  「やめてぇ!苦しいって、言わせてぇ〜、そのわけをきけ」

  「遺言代わりに聞いてやるわ!」

  「ヘッドロックされてちゃ、話したくても話せないってば!」

  「カメラは弁償をしてもらうんだからね!全額弁償よ!今までの分全部よ!」

  「わかったから放してくれ、息ができない」

  「給料から天引きよ!」

  プロレスの決め技から解放され、新鮮な空気を貪る桜美林は目を剥く、このメスの霊長類はどの動物園から逃げ出してきたんだ!なぜ飼育員は牢のカギをしっかり閉めなかった?ただでさえか弱い給料袋にこれ以上の追い打ちなど殉職してしまう!

  「この写真のためだ!暴力を振るう前に少しでも話しを聞いたらどうなんだ!スクープのために命をはったんだぞ?むしろ褒めて欲しいぐらいだ!」

  桜美林は写真を一枚、突きつけた。

  「褒める?冗談じゃないわよ!会社のカメラを壊しやがって!」

  ミナミは写真を奪った。

  「・・・これは何?」

  撮影時刻が夜のせいもあり、被写体は少しばかり見づらいかった。ひどく汚れている衣服を身に纏った男が一人、無我夢中にゴミの山を漁っている時、背後から物音がして振り返った、これはそんな瞬間を納めた一枚の写真だった。

  「この人だれなの?」

  「我が社の売り上げにどれだけ貢献できるか、想像しただけで笑いが止まらないよ!年末のボーナスが楽しみなぐらいだよ!」

  ミナミは眉をひそめ、もう一度写真を見た。信じがたい話しではあるが、多少の興味も感じられないわけでもなかった。しかし、謎の男のボサボサなヘアースタイルは顔の半分も隠し、おまけにとても暗くて見ずらいものだった。

  「・・・んで、どこの誰なのよ!」

  「ならこれは?」

  勿体振る桜美林は二枚目の写真を突きつけ、今度はバッチリとフラッシュが入ったもの。改めて男の顔を見つめ直した後、ミナミは疑った。

  「うそよ!」

  「もしうそじゃなかったら?」

「……でも!」

  返す言葉もないミナミは眉間をきつく締め、桜美林はざまみろっと自慢げに微笑む。

  「世界も驚かせてみせたあの作家、相原ゆずるだよ」

   改めて言われなくとも、ミナミはもちろん知っている。史上最年少の世界文学賞の受賞者、相原ゆずる。知らない方がよっぽど不思議なほどの名人。十代後半の若さで怪奇小説「幾多な霊魂の話し声」で電撃デビューし、独特の描写力と摩訶不思議な世界観が読む者を魅了してやまず、文壇に霹靂をもたらした麒麟児。その後も世の中に素晴らしい作品を送り続け、狂熱的な文学ブームをも起こし、ありとあらゆる記録も軒並みに破った。それからは飛ぶ鳥を落とす勢いで史上最年少の国家文学賞を手に掴み、富と名誉を欲しいがままにするメガトン級作家。

  信じられない!

  文学の新しい天地を切り開いたと言っても決して過言ではないような大文豪、それなのに、どうしてこんなにも汚い格好をしているわけ?どうしてゴミの山をあさっているわけ?こんな 姿なんて、とても信じられない!著作権の使用料だけでも年間は数十億は転がり込んでくるはずなのに!どうして?

  「ありえないわ!顔がたまたま似てただけよ」

  「これがスクープだと思わないか?ミナミ、お前だったらどうする?逃げる相原ゆずるの後を追わないか?その行き先が例え、悪党どもが溢れかえるかのコトブキ町だからといって、物盗りに襲われるかもしれないからといって、カメラが壊されるかもしれないっといって帰りますか?」

  「間違いなく本人なわけ?」

  「間違いない!調査済みだ!」

  桜美林は答えた。

  「調査って、一線を越えるようなことはしていないよね?またこの前みたいに脅迫の容疑で連れて行かれたら、今度こそ誰も助けられないわ!」

  「わかってるよ!」

  「もう、貞治の時代は終わったのよ」

  貞治、かつでのボスの名前、今じゃ鉛玉のよう、桜美林の肩に重苦しくのしかかる存在。

  「ねぇ、掘り返すのやめにしない?」

  「念のためよ」

  「余計な御世話だ!」

  目元を強張らせ、不満を訴える桜美林。

  「そうね、確かに、これは国会議員がキャバ嬢とかけこむ写真よりは受けがいいかも、非常に素晴らしいネタなのは認めるわ、でも、相原ゆずる本人から話が本当を聞けるまで、当分の間は文面にはしないでね」

  「なんで?」

   「変な書き方でもして向こうに同情が集まったら、袋ただきにされるのはこっちよ、政治家のスキャンダルとはわけが違う、この子は特別だからデリケートに 扱ってね、天才はみんな変わった考え方をするし、孤独なのよ、理解されることもめったにないし、変に期待されるし、追い込まれた果てに自殺よ」

  「こいつが天才?きれいごとを並べる能しかないじゃん!」

  「それは嫉妬よ」

  ミナミはニヤリと笑い、写真を返した。

  「これからどうするの?」

  「ツェルに相談してみる、コトブキ町に潜入して探さなくちゃいけないから、警護が必要だ」

   コトブキ町、殺人や強盗、ドラッグやギャングの溜まり場。病気や貧困、注射器とアルコール中毒者の代名詞に使われるほど。有能な部下をそんなところに送り込むのは気が引くが、大学時代の親友でボクシング部出身で現役刑事のツェルと一緒なら大丈夫でしょうっとミナミは考えた。

  「くれぐれも安全第一でお願い!カメラはもう無理でしょうから、代わりにボイスレコーダーを支給するから大切に使って!」

  「うまく行ったら給料上げ上げだね!」

  離れて行くミナミは中指を立て、ふざけんな!のポーズ。彼女の後ろ姿を見送り、桜美林は気を取り直してデスクに向き直った。早速、大学時代の親友、ツェル宛てに電子メールを送り、それから出かける準備に取りかかった。

   それは、二枚の写真を仕舞おうとした時・・・偶然にも、写っていた大文豪相原ゆずるの姿が目に飛び込んだ。そして、昨晩のことを思い出した。取り決め た取材を終え、静かに一杯やれそうなバーを探しているうちに、いつしか薄暗い裏路地の中、まるで体が乗っ取られた感覚だった・・・これは強制じゃない、い やならいつでも引き返して構わない、だが、このまま進むなら覚悟を決めろっと。突き当たりにゴミの山、汚物の中から食べ物を漁る後ろ姿、シャッターを切る桜美林。眩いフラッシュに驚いて振り返った時が初めて、その人物がかの大文豪と知った。

  桜美林は写真を見つめた。

  なぜか今になって、大文豪相原ゆずるはひどく怯えているように見えた。そこにいるあんたよ、気をつけろ、おぞましい何かがやってくる、まだ見え隠れしているが、やつは壁という壁を見透して襲い掛かってくる、おれは危険を予知して逃げているのに対し、あんたは無防備すぎる。

  バカバカしい!

  っと桜美林は自分の想像力を嘲笑った。被害妄想もほどほどにしとけ!だから、桜美林は写真をカバンの中にしまうと、大学時代の親友、ツェルのところへ出かけた。

  


  ーーーーーーーーーー



  「だめだ、今回ばかりは付き合えないよ」

  ツェルは断った。長身のおまけに肉つきもいい、鋭い目つき、健康な焼け肌を加えれば敏腕刑事の出来上がり。今はオフィスへ押し掛けて来た親友、桜美林と立ち話をしているところだった。

  「お前の人探しに付き合う時間も、義務もないんだ!」

   ツェルはまる二日も徹夜で事件に当たっていたせいで、今は立ったままでも寝れるほど疲れている。それなのに親友の桜美林は何も気づかず、訳もわからん説 明を一方的に続けていた。ツェルはとりあえず我慢して、話しを最後まで聞いてみたけれど、結局は理不尽な要求に行き当たった。実に桜美林らしいやり方 だ!っと心の中で毒を吐いた。

  「どうしてそんなに冷たいんだよ、説明が足りなかったのか?もっかい説明するからちゃんと聞けよ」

  桜美林は眉を顰めるが、ツェルの方はもっと嫌な顔になった。

   「説明は十分だよ!相原ゆずるだって人だ、きっと何かあっていろいろと大変だったんだろう。仮にも、本当に助けが必要としても、救いの手を差し伸べたい 人はいくらでもいるんだろう?ファンクラブとか、友達とか、親族とか、会社の人間とか何かしらいるんだろ!なんならおれから電話して注意してやろうか?」

  「だめだ!絶対電話すんな!お前なんにもわかってないよ、いいか、これは機密情報なんだ、もっかい説明するからよく聞けって」

  「いいや、黙れ!もう何も聞きたくない!」

  ツェルは少し声を荒げた。いつもそうだった、こうもしない限り、桜美林の粘りのしつこさときたら悪夢のレベルだ。

  「おれは三日間も徹夜で事件を追ってきた、やっとまわって来た休憩が今から始まって、二時間後に終わるんだぞ?だから今は横になって少しでも寝たい、頼むからわかってくれ!」

  ツェルはオフェスのドアを開け、中へ入った。単調で飾り気のない個室、使い古した椅子と書き物机、書類が詰め込んだ棚、扇風機、隅っこに溜まったホコリ。倒れるように椅子にかけたツェル、ようやく察しがついた桜美林は心配な顔でたずねた。

  「顔色わるいぞ、何かあったのか?」

  ツェルは呆れ果てた、こんな友人を持ってしまったことにも後悔した。だからそんな質問を無視して、気持ち良く空気を吸い込んでは吐き出し、目を閉じ、睡魔に白旗を掲げた。

  「お前だって、人のこと言えないだろ」

  「この痣のことか?話せば長くなるけど、聞きたい?」

  「聞きたかないね」

  「っだと思った、どう?わたしって気が利くだろ?」

  部屋に入った桜美林はもう一つの椅子に腰を下ろした。

  「なぁツェル、おれたちって、何年の付き合いだ?」

  ツェルは目を閉じ、桜美林を無視した。

  「かれこれ二十年じゃない?なのに、頼みの一つや二つも聞いてくれないのかよ?」

  ツェルはため息を吐いた。

  「今はかなりやばい山を背負ってんだ!そういう茶番に付き合えるほど暇じゃない。そっちこそ、おれの親友ならこのまま寝かしてくれ!」

  「ほぉ〜、それってどれぐらいやばい山?」

  返事はない。

  「・・・おい?寝たのか?」

  寝てしまったみたい。

  「まぁ、警察ってのはみんな能無しだからなぁ、いたしかたないよ」

  それでも返事はない。

   「そういや、あの野々村ってレイプ犯、刑務所の中でうまくやっているのかな?すごいよね〜、苦労して捕まっといてさぁ、証拠も証人も無くしちゃって相手 側の弁護士にいじめられて、挙げ句に無罪放免まで勝ち取らせてしまったもんな。あれれ?警察ってのはあれか、ランチセットに付いてくるおまけなオモチャ か?あっても無くても差し支えないチップな感じ?」

  「うるせ」

「有罪だとわかっていても逮捕できない事実に変わりないだろ。わたしが野々村の裏で掻き回していなかったら、やつは今でも野放しのままだった、あと何人の被害者が出るかな?」

  「全部お前一人の手柄だって言いたいのか?」

「まさか、そうじゃないよ、ツェル、お前のその正義感あふれる考え方も、ポリシーも大好きだ。だから力になりたいんだよ。ルールとか、規則とか綺麗事だけじゃ守れないものもある、嫌でもわたしのような汚れ仕事をする人間が必要だ」

  「つまり何が言いたいんだ」

  「取引をしよう、ツェルは正面を突破する陽動で、わたしは敵の裏に回って虚をつく。二人で力を合わせてグレーテルとヘンゼルみたく、パン屑を手がかりにしてお菓子の屋敷を探そう!仕上げはツェルが犯罪者をとっ捕まえて、わたしはスクープをいただく!」

   その提案についてツェルは考えた。まず桜美林は信用できる、昔からの長い付き合いで、何度も共にピンチを乗り越えたかつでの戦友でもある。やつのずる賢 さは相当なもの、その上に型からはずれた思考力、味方につければどれだけ心強いか、ツェルは十分すぎるほどわかっている。

  「いいだろ、手伝ってくれるんなら大歓迎だ」

  「相原ゆずるを探してくれるのが条件だぞ?」

  「あぁ、オーケーだ」

  「よし、取引成立だね!」

  いやいやながらもツェルは重い腰を上げ、ふらつく足取りで外に出た。

  「どこに行くの?」

  「待ってろ!顔を洗ってこの眠気をどうにかしてくる」

   それからしばらくした後、資料を手にツェルは戻って来た。そして、抱えている事件の大まかを桜美林に説明した。だいたいなところは色んなニュース番組を 騒がしている例の連続殺人事件、殺された人間は四人、現場はそれぞれ自宅の浴室、暗い路地裏、高級マンションのベランダとひまわり畑。手口は至って簡単、 人気の少ないところを選んで素早くことを済ませて消える。いずれにも目撃者はなく、被害者たちは私的の繋がりもない、サイコキラーらしき要素もないから殺 しの動機も今のところは不明。

  「金銭絡みなら闇の金融機関にあたればいいし、異性絡みなら身辺、ギャング絡みならもっと簡単だ、自分を大物だ と思い込んでいるごろつきどもを片っ端から締め上げれば何かしらこぼれる。しかし、今回はそのどれにも当てはまらないから行き詰まっていた。それから振り 出しに戻って四人の被害者を洗い直した、すると面白いことが一つ浮かび上がった」

  ツェルは続けた。

  「十何年も前に起きた、あの大事故は覚えてる?」

  「あぁ、軍も絡んでいるからあやふやにされた事故でしょ?」

  「そうだ、連続殺人事件で殺された人たちはなんと全員があの時の生還者、これでようやく犯人の背中が見えたってところだ」

   ここから先の説明に、ツェルは現場の写真を使った。まず第一の被害者、彼女はセキュリティー付きの別荘に住んでいるにもかかわらず、浴室で締め殺された。残された足跡から、犯人は一般人では考えられないような険しい角度から壁を登って侵入したのがわかる。それからは第三の被害者、職業は金融関係の取り 立て屋、フリースタイルの格闘大会で賞を取れるほどのケンカのプロ、なのに自宅のベランダで発見された時は全身の骨を折られた上、殴り殺されていた。

  「以上のことを踏まえれば犯人は軍隊の特殊部隊出身に違いない、殺しの技術を完璧なまでに叩き込まれた人間凶器、だとしたらやつは誰かに雇われている可能性が大」

  眉をひそめて聞いていた桜美林は質問した。

  「なるほど、つまり、これは誰かに対する復讐、とか?」

  「そこはお前の出番だ」

  ツェルはパソコンから警察署のネットワークへアクセスし、この連続殺人事件に関するファイルを順に開いていた。そこから写真付きの個人情報を引き出し、モニターに指を突きつけた。

  「軍のお偉いさんはみな堅物ぞろいで、情報提供には一切応じない。だから桜美林、お前のやり方でこいつらの裏を調べてくれ、これがリストだ、プリントアウトして持ってても構わん」

  ところで、桜美林は驚いた目でパソコンのモニターをじっと睨みつけ、口もあんぐり開けたまま。

  「おい、桜美林、聞いてんのか?」

  「ツェル、犯人はこいつだ」

  ツェルは慌てて桜美林が指す先に従った。若者の顔写真、死んだ魚の目で酷く無様、脱力した顔つきから絶望感すら漂う。この若者ならツェルも知っていた、十何年も前の大事故の際に世論を鎮めるため、マスコミがでっち上げた悲しき少年。

  「いや、それはない。こいつには人を殺せないんだよ、知らないようだから」

  「車椅子だろ?知ってるさ!」

  桜美林はツェルの言葉を遮った。

  「だから?」

  「だかれって!車椅子に乗るような人間がどうやって人の首を絞めるんだ?腕力だけであんなにも高い壁を登れない、できるもんなら是非やり方を教えてもらいたいね!」

  「目を見ろ!」

  「はぁ?」

  「こいつの目を見ればわかる!」

  桜美林はモニターに映っている若者、旺文カケルの写真を睨み、その仮面の裏に隠れている野獣を探した。こいつがしたことを思い出すだけで強い怒りを覚え、拳を握った。

  「こいつがイザベラを殺した」

  「イザベラ?」

  「わたしの飼い犬だ、この変態野郎に誘拐されていじめ殺された、だから、人間だって平気で殺せるさ!」

 


  ーーーーーーーーーー

 


  太陽が沈みかけ、雲を紅色に染まった。

  腕時計に目をやり、時間を確認し、夕方。

  平凡な住宅街、その片隅にある一軒が旺文カケルの家、桜美林はそこだけを睨んでいる。ここに来たのはこれで二度目だった。最初は犬の仇をとるため、気性が荒そうな動物マニアをかき集めた。それから、旺文カケルがした悪事を暴露し、襲うよう唆した。

   だから、今回の連続殺人事件も、桜美林は真っ先に彼のことを疑った。そして、今こうして変態野郎旺文の自宅を目の前にしてみれば、当てずっぽうでもなさ そうな気がしてきた。まるで周囲を遠ざけるような、そんな高い壁に覆われている一軒家、梯子でも使わない限り中も覗けない。よっぽどプライバシーにうるさいなのか、他人に見られては困ることをやっているのかのどっちかだろう。桜美林は後者に賭けている。だから、ボイスレコーダーのスイッチをオンにすると敵陣へ乗り込んだ。

  殺風景な庭前を横切り、玄関先のインターホンに手を伸ばした。しかし、押しても鳴らなかった。もう一度試すが、やはり音は出ない、壊れているのだろうか。インターホンを諦め、木製のドアを手の甲で鳴らした。

  コンコンコン!

  「ごめんください、旺文カケルさん?」

  しばらく待つと、はい!っという返事が聞こえ、それから階段を降りてくる足音が響いた。年季入ったのせいか、音という音は筒抜け、その足音もすぐそこまで来ると急に静まった。ドアを隔てて、この向こうに人がいることを確かに感じられる。

  「こんばんは、ニュースサイト新聞社のものなんですけれど、少しだけのお時間をいただけないんでしょうか?よろしくお願いします」

  ドアを越して尋ねても返事はなかった。だから、桜美林はもう一度軽く、ドアを鳴らした。

  コンコン!

  「すみません・・・旺文カケルさん?」

  やっとのこと相手は答えた。

  「・・・記者さん、ですか?」

  驚いたことに、女の声だった。桜美林が知る限り、旺文カケルは男であることに間違はいない、母親は何年も前に他界した。ならこの女は誰?お友達か?それならこの用心深さも納得する、女の子にとって警戒心はどんなご時世にも通用する日常生活の必須品。

  「そうなんですよ、いきなり押しかけてすみません、うちの新聞はある特集を組んでいて、旺文カケルさんにも二三話を伺う必要があって参りました」

  女はドアを越して言った。

  「旺文ならいないよ」

  いない?

  「お出かけですか?」

  会話がこのまま途切らないよう質問をぶつけて、真偽を探った。しかし、ドアの向こう側はそれっきり沈黙してしまった。

  「・・・あの、もしもし?まだそこにいますか?」

   返事がない、門前払いのようだ。嫌われ役も初めてじゃない、他人の秘密を食い物にする職業だから、敬遠されてもしかたない。フィクション作品の中では正義探偵の役割も果たすがとんでもない、実のところは情報に付属してくる利益の大きさによってどっちにも付く。だから必要以上にモラルを問われる。つまるところ、文句は言えないってとことだ。

  「わたしの名刺をここに置いて行きますよ、気が変わったらいつでも電話をください、悪い話しじゃないんで、どうか信じてください」

  桜美林は平気な顔で嘘をついた。

  「これで失礼します・・・電話を待ってますんで、よろしくお願いします」

  名刺をドアの隙間に挟み込んだ。こんなんじゃまるで幽霊と話しているみたい、さよならの挨拶すらなかった。軽く舌打ちをする桜美林、近くで待ち伏せすることに決めた。

  「・・・ではまたの機会に」

  桜美林が去ろうとしたその時、ドアは開いた。

  「旺文は散歩に出かけたの、もう少ししたら、戻ってくるよ」

  若くてきれいな女性だった。年はせいぜい二十代半ば、単調な服装にカーディガンを羽織り、整った顔立ちにショートカット、読書用の太縁眼鏡から柔らかそうな垂れ目が射し込む。桜美林はすぐさま愛想の良い笑みで返事した。

  「ご信頼に感謝します、わたしはニュースサイト新聞社で専属記者をやらせていただいている、桜美林と言います」

  顔写真付きの記者証を見せ、新しい名刺ももう一枚渡し、身元を証明した。名刺を受け取った女はそこに書かれた文字を丁寧に読み、驚いた顔で言った。

  「あなたがあの桜美林?記事とか、コラムとかをいっぱい書いている、あの桜美林ですか?」

  桜美林も驚いた、まさか自分の名を知っている人と会えるなんて思いもしなかったから。

  「えぇ、はい、その桜美林です。他にもいろいろと書いたりするんですが、コラムや記事以外はあんまり人気が出なくて困っているぐらいですよ」

  女は笑顔で言った。

  「あなたの書く記事、よくパパやママから聞かされるの!二人ともあなたの大ファンなんですよ、本人にあったって言ったらきっと驚くわ!」

  「きみは?新聞とかは読まないんですか?」

  「わたしは、あんまり読まないかな、難しいことは嫌いだし、でも、物語は好きよ」

  鼻から落ちかかった太縁眼鏡を押し上げながらもやんわりと答えた。大丈夫ですよ、そんな風にはまったく見えない、知的な雰囲気でとても素敵ですよっと桜美林は言いたがった、でも、今は女を口説いている場合じゃない、だから軽く笑っただけで話題を変えた。

  「失礼ですが、旺文カケルさんとはどういうご関係ですか?」

  「わたしは旺文の妻です、シェリル数子と言います」

  「妻?ですか?」

  なんと、これはびっくりした!

   驚きを隠しきれず、それがまんまと顔に出てしまった。てっきりただのお手伝いさんか、ボランティアの人か、友達か何かだと思っていた。まさか、妻と名乗 る人に出くわすなんて、予想だにしなかったから。数子は驚いて口をあんぐり開けた反応を見て、ほくそ笑みながら付け加えた。

  「結婚はまだしてないけど、旺文はいろいろと大変だったじゃないですか、なので私たちは時間をかけてますの、ゆっくりと」

  これは失礼なことをしたっと気まずそうに桜美林は言った。

  「これはこれは失礼いたしました、こんなにも心のやさしい女性と巡り会えるだなんて、旺文さんは幸せものです」

  「もしよかったら、中で待ちません?」

  桜美林はまた意表を突かれてしまった。

  「え?でも、いいんですか?」

  「旺文を訪ねてくる人なんて滅多にいないから、どうぞいっぱいお話ししてください、旺文もきっと喜ぶと思うわ、最近はなぜか元気がないの、なのでよろしくお願いします」

  心の中でガッツポーズを取った桜美林。

  「そうですか、でしたらお言葉に甘えて」

  


  ーーーーーーーーーー

 


   客人をお茶の間へ案内し、飲み物を持ってくるっとだけ言い残し、数子は台所に入ったきり。一人にされた桜美林は座ったまま、周囲をまず目で物色した。家 具らしきものが極端に少ないせいか、とても広く感じた室内、まるで昨日引っ越したばかりのようだった。四人掛けのテーブル、近くに見窄らしいテレビ台とブ ラウン管テレビ、使われた痕跡がなく、薄い埃がかぶっていた。

  数子は戻ってこない。

  桜美林が立ち上がると、台所に立つ彼女の後ろ姿を覗いた。今は水を湧かしているところ、コンロの上に座るやかんは何の気配もなく、まだかなりの時間を要するでしょう。それを待つ数子はあれやこれやといろんなものを準備していた。

  本当にごめんなさい。

   心の中で謝りながらも、桜美林はそっとお茶の間から抜け、家の中を徘徊した。やはり、この家自体がまるで巨大な脱け殻のようで、生活感を微塵も感じさせ ない、自分なら逃げ出したくなるっと桜美林は思った。有利に働く情報を物色していくうち、一階の奥にある書斎までたどり着いた。最初に飛び込んできたもの は椅子なしの机、おそらく旺文の所有物でしょ、それと低めの書棚、あふれ出るほどたくさんの本、入りきれないものは床一面に散らかしていた。部屋の中に 入った桜美林、書棚に目を向けた。そこにはいろんなジャンルの書物があった。探偵物のエンターテインメント小説から人体解剖学、古代火器組立図などの工学 類まで、おまけに漢方薬大図鑑、自然科学まで揃えてやがる。旺文カケルはてっきり小動物を虐待する頭でっかちだっとばかり思い込み、まさか読書家の一面も あるなんて、桜美林は不意にも感心してしまった。違った場所、違った出会い方をしていたら、意気投合の友達になれたのかもしれない。

  懐かしさ のあまり、桜美林は「チャーリング・クロス駅」というタイトルの本を書棚から抜き取った。学生の時に読んだ小説で、青春時代のバイブルとも言えるほど大好 きな一冊。孤児院出身の主人公は見知らぬ人たちと旅へ出て、北部の山頂で大雪に遭い、足止めを食らってしまう、とてつもない大きな屋敷へ逃げ込む一行、猟 奇な殺人事件は次々と襲いかかる。頭脳鮮明な主人公はわずかな手がかりと孤児院のファーザーの教えを頼りに解決へ導くストーリー。犯人を追いつめる頭脳バ トルと鮮やかな推理は今だに鮮明に覚えている。そして、見るともなくページをめぐっていくと、桜美林はおもしろいものを発見した。

  「チャーリ ング・クロス駅」に登場する台詞や場面に、誰かがペンを使ってアンダーラインを引いたことだった。……いいや、何も残らない、透明なマニキュアを塗ればい い……。一つを読んで吟味した。これは確か、主人公が犯行を推理している場面だった。違うページのも見ると……刃物を底に隠してものを拾うと、どうしても 変な格好になってしまう……。もやもやな気持ちにさせられ、チャーリング・クロス駅を元に戻した。今度は「甜茶に味はない」というタイトルの本に手に取っ た。開いてみるとやはりさっきと同じ、思いもよらない奇怪なトリックだけが抜き取られた。

  どういうつもりだ?

  使い古した書物机に 注意を戻すと、鍵のかかった引き出しが一つだけあった。何も知らないならいざ知らず、本の中に隠された秘密を発見してしまった以上、もはや見過ごすわけに はいかなくなった。この鍵のかかった引き出しにもきっと何かが隠されたはず。しゃがんで鍵穴を覗いた、閂と連動する旧式のシリンダー錠だった、うまい具合 に力を加えれば外れる。そして、桜美林は中からクリップできれいに綴った紙の束を見つけ、手を伸ばして中から取り出した。これは何だ?っと興味半分でめ ぐっていくうちに、そこに書かれたものに驚愕され、大きく目を瞠った。

  何なんだよこれは!

  特殊な薬草の生息地、青酸カリの調剤方法、人体の動脈や心臓などの位置を正しく記した絵画、さらには死体に現る特性と骨の融解方法、古代の遊牧民族から現代競技まで使われた弓の進化の文献、遠距離に物体を飛ばす簡易力学、犯罪心理分析学の論文。

  顔が強張った桜美林、引き出しの中からさらに物騒なものを見つけた。

   それは例の連続殺人事件があった場所の平面図だった。恐ろしいことに、ツェルのオフィスで見た図面とほど同じもので、双方にもしも違いがあるとしたら、 それは複雑に入り組んだ路地裏左右の道幅、十メートル毎に徒歩と疾走のタイムラグ、交通機関の監視カメラの視角を計算しているかどうかだ!ちくしょ、万が 一目撃されてしまった場合に備え、横顔の角度まで計算していやがる。

  それも、一枚じゃない。

  引き出しの奥から何枚も出て来た。半数はツェルに見せてもらった現場写真と一致していた。それなら残った半分はなんだ?血の気が引いた桜美林は後ずさる。まだ実行に移せていない殺人計画に決まってんだろうが!いや、ちょっと待って、いったん落ち着こう!

  早まる心拍を抑え、ここがどこで、自分はいったい何をしているのかを整理した。深呼吸を繰り返し、この姿も形もない緊迫感から逃れようとするが無理だった。

  「・・・何をしているんですか?」

  背後から数子の声が響いた。刹那、雷にでも打たれたような桜美林は体を強張らせ、心臓も止まりかけてしまった。大量なあぶら汗が毛穴という毛穴から滲み、瞬く間に滴り落ちる。その声に感情はなく、冷たくも暖かくないことがかえって恐ろしかった。

  「桜美林さん?・・・大丈夫?」

  「す、すごいです!」

  「え?」

  桜美林は手にしているものを引き出しに戻し、書棚を指して言った。

  「旺文カケルさんは読書家ですね!こんなにもたくさん揃ってるなんて、びっくりしたよ……。ところで、数子さんはいつからそこに居たんですか?」

  足音は聞こえなかった!

  「お茶を淹れたわ、冷めないうちに飲んでくださいよ」

   それだけ言うと数子は行ってしまった。今度は足音をちゃんと立てて行った。まったく不気味な女だ!っと桜美林も全てを元通りに戻すと、書斎を出てお茶の 間に戻った。そして、数子が湯のみに熱いお茶を注いでいるところ。やわらかな緑色の液体からは湯気が立ち昇り、二人分のお菓子まで用意されてあった。

  「会社から呼び出しのメールが来て、戻らないといけなくなりまして」

  桜美林はでたらめを言った。

  「そう、なら、玄関まで送るわ」

  数子は淡々と答えた。それから、ゆっくりと急須を置いて桜美林の方に目を向けた。太縁眼鏡を押し上げてはじっと何かを見つめた。まるで、推し量っているかのような眼差しに、空唾を飲み込む桜美林、思わず身を構えてしまった。

  「・・・お茶まで用意させといて、本当にすみません」

  数子は表情を崩さない。

  「仕事だもの、しかたないわよ」

 


  ーーーーーーーーーー

   


  「お茶が飲めなくて本当に残念でした」

  玄関まで送ってもらった桜美林は言った。

  「気が向いたらまた来てください」

  数子は頭を軽く下げた。

  「はい、わたしはこれで失礼します」

  桜美林も頭をさげると、殺風景な庭前を横切った。心の中では一目散に逃げたい衝動にかられるが、今は落ち着かなければならなかった、少なくともはツェルに電話して保護してもらうまでの間は。桜美林はそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと歩を進めていた。

  「だれですか?」

   殺風景な庭から出た途端、行く手を塞ぐ形に現れた車椅子、貧素な男が一人、低い位置から敵意に満ちた目で見上げ、問い詰めてきた。一瞬、釘にでも打ち付けられたような桜美林は固まり、うろたえて心臓も鷲づかみにされた気分。目の前にいるこの男がまさしく、旺文カケル。まさか、やつにバレたのか?いいや、それなら何か手を打つはず、探るようなマネはしない。

  「初めまして、こういうところで働いている者です」

  桜美林が名刺を差し出すと、旺文はそれを受け取って見た。よし、これで確信した、旺文はまだ何も知らない、桜美林は少し胸をなでおろした。

  「旺文?おかえりなさい、こちらは桜美林さんよ、あなたのことをコラムにしたいってわざわざ来てくださった記者さんよ」

  玄関先に立っていた数子が来て、この不穏な空気を和ませようと割り込んだ。

  「お前は黙ってろぉ!」

  旺文はいきなり怒鳴り散らした。

  「コラムなんか死ぬほどどうでもいい!ぼくはただ静かに暮らしたいだけ、悪いが帰ってくれ!」

  願っても無いことだ。

  「わかった、本当に申し訳ない!だからもう帰ります、そんなに気を悪くしないてくれ、本当にすみませんでした!」

   それだけ言い残すと桜美林は速い足取りで離れ、旺文も車椅子を回して家に戻った。よし!後はこの危険地帯から離脱するだけ!そこから先は全部ツェルに任せればいい、旺文カケル、てめぇもこれで百年目だ!っと桜美林はニヤリと微笑み、ポケットに手を忍ばせた。そして、桜美林の指が携帯電話と触れたその一瞬、第六感が危険信号をキャッチし、神経を揺さぶって訴えかけてきた。単なる思い違いじゃない、原因も突き止めなくては!っと一旦携帯電話を戻し、桜美林は振り返った。

  車椅子の旺文カケルがそこにいた。

  家に帰ったと見せかけ、庭先に戻ってきた。不審者が離れていくところをじっと睨みつけ、動向を監視していた。一瞬、血の気が引いた桜美林が凍りついた。旺文の険しい目はまるで語っていた、お前の全てを見抜いた!ふざけたマネしやがって!絶対に許さない!

  怯む桜美林は一刻も早く逃げ出したいばかりに左足を持ち上げ、走り出そうとした。それはちょうど、忍び寄るライオンに気づき、反射神経に頼って爆走するインパラのよう。幸い、桜美林は動物じゃない、自制心が体を穿つ神経の流れを断ち、ゆっくりと踏み込んだ。冷や汗を掌いっぱい握りしめながらも、咄嗟の判断が正しかったことに感謝した。走ったらだめだ、見てはいけないものを見てしまったっとを言ってるようなもんだ!向こうは車椅子、追ってこられない。

  曲がり角を通った桜美林は旺文の視線から逃れ、さらにしばらく歩いたところ、もう一度携帯を取り出して電話にかけるが、圏外のマークが通信を妨害した。

  「はぁ?くそ!」

   より一層の恐怖に襲われ、上がりっぱなしの心拍は大量なアドレナリンを送り、五感も研ぎ澄ました。そして、桜美林は確かに聞こえた。靴を鳴らして追いかけてくる殺し屋の足音を、その吐息でさえ肌に伝わるほど。使い物にならない携帯電話をしまうと、周囲を警戒した目で見渡し、あやしい人影を探した。車椅子の旺文は殺人の計画をし、それを実行に移す人間がもう一人いる。ひょっとして携帯電話が使えなくなったのも、そいつが妨害電波を出しているからかもしれなかった。だとしたら、自分はいつ死んでもおかしくない。

  緊迫に窒息する寸前な桜美林の前に、黒ずくめのキャデラックリムジンが一台を現れ、ゆっくりとブレーキをかけて停車した。それから、車窓は下ろされ、ホワイトスーツを身に包んだ初老の男が一人、白げなオールバックで大きなサングラスをかけ、愛想のいい笑顔で桜美林に尋ねてきた。

  「突然ですんませんがぁ、わたくしぃこの辺りが初めてでしてぇねぇ、高速に行きたいんですけれどぉ、道案内ぃを頼んでもぉよろしいぃでしょうかぁ?」

  すると今度は桜美林にしか聞こえない小声で続いた。

  「ご安心くだせぇ、わたくしが殺し屋ならぁ〜、あんたさまはとっくに死んでますぅ」

  「そうか!」

   桜美林が素早くリムジンの後部座席へ飛び込むと、車のエンジンは心地よい唸りを上げ、着実にスピードをあげ、走り出していた。革張りのシートに横たわる桜美林。早まる心拍に思考がようやく追いついたところ、体を少しだけ起こして窓越しに自分がついさっきまで立っていた場所を覗いた。そこにはパーカーのフードを目深くにかぶった人がいて、去るリムジンを睨んで拳を握り締めた。

  


  ーーーーーーーーーー

   


  「助けてくれて本当にありがとう」

  後部座席にいる桜美林は感謝を述べた。

  「気にぃしないてくださいぃ〜、困っている時はぁ、あ、お互い様ですからぁ〜」

  車を運転席する初老の男は答えた。

  「それにぃ、お恥ずかしいながらぁ、カケルが犯した過ちについて、このわたくしにも責任ってものがぁあるんですよぉ〜」

  「はい?」

  「おおっとぉ!これはぁ、あ、失礼いたしまぁしたぁ。わたくし、カンジアゴ松本と申しますぅ〜、お見知り置きをぉ」

  カンジアゴ?どこかで聞いたことある名前だ。けど、あまりにも漠然すぎていて、桜美林はパッと思い出せずにいた。朦朧としたイメージだけ浮かんでくるが、どこかに引っかかったまま引き出せない。だから、桜美林も曖昧な会釈しか返せなかった。

  「すみません、さっき旺文がどうこうって言ってましたよね?彼のことを知っているんですか?」

   まるで、何かが重くのしかかったようにカンジアゴは深く息を吸い込み、一気に吐き出した。それからしばらくの沈黙が続いた。でも、カンジアゴは旺文について触れたくないから黙り込んだのではなく、単にどこから話せば良いのかわからないからだっと桜美林は受け取った。だから、桜美林は切り出した。

  「旺文カケルとの関係を聞いてもいいですか?」

  カンジアゴは答えてくれた。

  「・・・カケルは、わたくしの大切なぁ、あ、戦友の息子でしてぇねぇ〜・・・彼の父とわたくしと共に戦場で戦いぃ、共に生き残れたぁ仲、わたくしは何度もぉ彼の父に命を救われたぁ〜、何度もだぁ!だから、カケルはぁわたくしの息子も当然な存在ぃ・・・」

  桜美林は黙って話しの続きを待った。

  「・・・わたくしはカケルを託されたぁ、その時ぃはまだ生まれたての赤ん坊だった、とても可愛かったぁ」

  カンジアゴは優しい微笑みを浮かべた。

  「しかしぃ、わたくしは運命に罰せられ、カケルの成長をぉ間近で見守ることがぁできなかったぁのぉ〜!その矢先にぃ、あの悲惨な事故がぁカケルを襲ったぁ!」

  過去の記憶に浸るカンジアゴ、悲しみのあまりに声も震えた。

  「・・・こんな不幸、あんまりだぁ!自分を犠牲にしてぇ、たくさんの人を救ったというのにぃ、なぜこんなひどい目に遭わなければならない」

  「その気持ちはよくわかりますが、旺文カケルのことについてカンジアゴさんはどのぐらい把握しているんですか?」

  「全部でさぁ!」

  「全部?」

  桜美林は思わず聞き返してしまった。犬を虐待していることだけか?それとも、旺文は殺人に加担していることも知っているのか?そんな桜美林の心を見透かしたかのよう、カンジアゴは答えた。

  「そうぉ!人命にも関わっているぅその全部」

   旺文には共犯者がいる、カンジアゴにだってその可能性はある、口封じに殺されてしまう!無意識のうちに桜美林は車の扉にロックはかかっているかどうかを確認した。しかし、どうも考えすぎた、扉はロックされていないし、いつ飛び出しても大した怪我を負わないような速度。

  「安心してぇください〜、わたくしはぁただ知っているぅだけでぇ、関与はしていません」

  「それならなんで全部だと言い切れるんだ?」

  「カケルは、あの子は秘密を部屋に隠したんでさぁ〜!」

  「自分の家に?」

  桜美林はあの書斎、使い古した書物机の引き出しを思い出した。

  「いいえ、そこじゃありませんよぉ、もっと特別でぇ、とても思いがけはしなぁい、神秘で、不思議なところでさぁ〜!」

  カンジアゴはバックミラー越しに、桜美林を見つめた。

  「もちろぉん、その人間にぁ資格ぅがあればぁ、誰でも行けるようなところでさぁ〜」

  神秘で不思議?資格も必要?それは一体どんなところだろう?

  「あ、ともかくぅ!旺文カケルぅは自分のぉ秘密を全部ぅ、そこに隠したぁ。そして、その部屋のカギがたまたまぁ、わたくしが持っておりましてねぇ〜、桜美林さんは行ってみたくはありませんがねぇ〜?」

  「どこにあるんですか?」

  「リールムートンホテルをぉ、ご存知でぇしょうかぁ?」

  「リールムートンホテル?・・・って、あのリールムートンホテル?」

  晴天の霹靂に桜美林は口をあんぐりと開けてしまった。リールムートンホテル、カンジアゴ松本、世界一有名なコンビネーション。なぜ今まで思い出せなかったんだろう、救いようもない認知症にでも患った気分。

  「お願いします!」

  「御意ぃ」

  カンジアゴはニヤリと笑うが、すっかり興奮して舞い上がった桜美林にはそれがわからない。

 


  ーーーーーーーーーー


  

   カンジアゴに連れられ、桜美林はリールムートンホテルの豪華なエレベーターに乗り込んだ。心地いい上昇感を覚え、心を恍惚させる何かが降り注ぎ、軽やかな足取りで忍び寄っては不思議な言霊を吹きかけた。そして、エレベーターの扉が再び開いたとき、絨毯に敷かれたきれいな廊下に出た時、ローズの香りがまるで媚薬のように桜美林の神経を麻痺した。

  何か変。

  ここがどこで、自分は誰かもわからなくなりそう。先頭を行くカンジアゴに操られ、桜美林は歩を進めた。まるでコカインを入れた注射器を拒絶できない薬物中毒者、体が言うことを聞いてくれない。踊る堕天使に誘われるがまま、一歩また一歩。

  やめられないよ。

  「こちらぁで、ございますぅ」

   長い廊下を歩き、カンジアゴはとあるドアの前で止まり、振り返って言った。目的地に着いたようだった。おぼつかない目つきでドアを見つめる桜美林。とても華やかなだ、凄腕な美術チームが何日もかけ、ファンタスティックな映画に登場するような美しい装飾を施しされていた。取手にエメラルドグリーン、上と下とはそれぞれ幾何学の模様。一方、カンジアゴはカギ束を取り出し、数ある選択の中から正しい一つを選び、ドアノブに差し込んで回した。

カチャン!

軽やかな音とともに錠が外れた。カンジアゴは一歩後退すると、桜美林に譲った。

  「・・・ありがとう」

  礼を言うと桜美林は前一歩進み出て、ゆっくりと麗しいドアノブに手を伸ばす。本人が望むと望むまいと関係なく。しかし、思いかけない雑音が一瞬にして全てを台無しにした。

  ユーガットテール!

  ユーガットテール!

  ユーガットテール!

  機械的機会仕掛けな音声メッセージが鳴り響いて止まず、ローズの香りがする廊下に何度も何度も何度もしつこいなほどに反響し、急かす。

  ユーガットテール!

  ユーガットテール!

  携帯電話の着信音だった。

  ユーガットテール!

  桜美林は慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、小さなモニターにツェルの名前と電話番号が表示されていた。ボタンを押して耳に当てた。繋がった途端にツェルの怒鳴り声が飛んできた。

  「どこで!何をやってたんだ!このバカ者!」

  「やあ・・・ツェルか?元気にしてる?」

  桜美林はうまく話そうと努力しても、おぼつかない脳みそが頑張って絞り出したのはそれだけだった。

  「はぁ?元気なわけないだろ!おれはずっとお前の電話を待ってたんだぞ!旺文に会ったら電話くれるって言ったじゃないか!どこで油を売ってんだよ!携帯の電源も切りやがって!」

  何の事だ?電源は切ってない。しかし、今はそんなことより、ツェルの声がこんなにもありがたいと思ったことは、以前にもあっただろうか?

  「すまないツェル、いろいろあったもんで・・・でももう大丈夫だから、今帰るところだ」

「はぁ?どうしたんだ?すぐ帰るってどういうことだよ?いまどこにいるんだ?旺文はどうなったんだ?」

  「帰ったら話す、それとお願いが一つある」

  「なんだ?」

  「このまま電話を切らないでくれ、頼む。このままにしてくれ、お願い」

  「はぁ?」

  桜美林は携帯電話を耳から離し、振り返った。後ろに控えていたカンジアゴ、やつは満面な笑顔を浮かべ、この予想外の出来事も黙って見守っていた。

  「あの、ここまで来て言うのもなんだが、ちょっと用事ができた」

  申し訳なさそうな桜美林は続けた。

  「だから、この部屋はまた今度にしてもいいかな?」

  「えぇ!もぉちろん!全てがぁ、おおせのままにぃ」

  カンジアゴは畏まって答えた。桜美林はすぐさま踵を返し、来た道から引き返していった。振り返らず、繋がれたままの携帯電話を耳に当ててひたすら歩いた。受話器の向こうから聞こえてくる人の声も、だんだん遠く離れた。



三人の物語はつながりました、つづく!

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