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世界に花を、私にナイフを  作者: ササキノボル
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旺文?グルヌイユ!

  <物語のあらすじ>


  旺文カケル。見ず知らずの他人を助けたせいで、二度と立てられない体になってしまった彼、心の傷も癒えぬまま大人へ成長したある日、リールムートン・ホテルの支配人、カンジアゴ松本と名乗る男が一人、車椅子に乗る旺文の前に現れ、彼を世にも不思議な場所へと連れていった。

  相原ゆずる。世界にその名を轟かせた大物作家、しかし、近頃は何もかもがうまくいかず、家も、財産も、プライドも捨て、高架橋で暮らす物乞いに成り下がってしまった。そんな名人が物乞いに成り下がる少し前のある日、カンジアゴ松本と名乗る男が一人、相原ゆずるのもとへ訪れた。

  桜美林。一人前のジャーナリストとして、おいしい特ダネを追究するあまり、連続殺人事件に巻き込まれてしまった。危険な情報を掴み、脱出を図る矢先に魔の手も彼の背中へ襲いかかった。そんな危機一髪にカンジアゴ松本と名乗る男が一人、彼を窮地から救い出した。

  これから始まろうとするお話しは、そんな三人と一人の物語。




  第一章


  

  「旺文か?グルヌイユ!」

 



  旺文カケル、彼は今、鉄の棒を握りしめていた。その棒は野球で使われるものと似ている、もしかしたら、二つの違いは打つものがボールか、そうじゃないかなだけかもしれない。殺風景な庭の中、鉄の棒で地面に転がっている布の包みを殴っていた。包みの内側から滲み出る液体に、表面のほとんどが赤黒く染められている。そして、ついさっきまでは痛ましい悲鳴を上げ、のたうち回っていたのに、今じゃ呻くのも面倒になってビクともしなくなった。

  おい!この怠けもの!全然面白くないんだよ!っと旺文カケルは鉄の棒を強く振り下ろし、鈍い衝突音だけが響いて消えた。お前を買うのにいくら使ったかわかってんのか?もっと楽しませろ!っと旺文はまた鉄の棒を高く持ち上げては、また振り下ろした。しかし、だとしても赤黒い包みは微動だにしない。

もう、ダメみたい。

車椅子というものはとても不便だ。旺文カケルはそれに乗って、これから人生を過さなくてはならない体。だから、スコップを使って穴を掘り、息絶えた包みを埋めるのは難しい。かといってこのまま腐敗させるわけにもいかない。幸い、人には火を扱う能力を持っている。だから、旺文は車輪のロックをはずし、殺風景な庭を横切って倉庫から必要な物を集めた。

  ガソリンをたっぷりかけた後、マッチ棒を一本取り出して擦り、赤黒い包みに火をつけた。すると、魂を無くした包みは徐々に焼かれ、自然へ帰っていた。一方、旺文カケルは乱暴を振るった時の元気を失い、狭苦しい車椅子の上に縮こまったまま、呆然と見つめているだけ。まるで心が引っこ抜かれ、体が石に変えられてしまったようで、近寄ってみないと呼吸していることすら感じられないほど。

  さらにどれぐらいの時間が経過しただろう、旺文カケルは股間から立ち上る臭いに気づいた。手で触ってみると、思わずため息が出た。巻いてあったオムツがとうに限界を超え、糞尿を漏らしてしまったんだ。はぁ……便器の前に立って、用を足したのがいったいどれぐらい昔のことだろうっと旺文カケルは過去の記憶へ飛び込んだ。

 


  ーーーーーーーーーー

 


  遡ること十数年。

  思いもよらぬ大事故に巻き込まれ、背骨に甚大なダメージ負ってしまった若い時の旺文カケル、救急車に病院まで搬送され、何時間にも及ぶ手術でようやく一命を取り留められた。そして、今頃は病室で待ち伏せしていた大人たちにカメラを向けられ、写真を撮られているところ。

  「旺文くん!きみがしたことはみんなが見習うべき素晴らしき美徳!わたしは今日、多忙な市長のかわりに表彰状を届けに来た、みんなに自慢して回ってもいいぐらいな名誉だ!」

   寝たっきりの旺文に、なぜか軍服姿の人が先陣に立ち、褒めてくれた。その金ピカな肩書きや胸にある勲章が乗り越えた修羅場の数と等価であれば、目を瞠るほどのすばらしい履歴を男は持っているんだろう。ところが、人に褒められて喜ぶよりも、旺文カケルは痛かった。業火に焼かれているような錯覚が腰の部分から全身へ伝い、魂にまで響く凄まじい痛覚、搬送途中に何度も気絶させられたほど。

そんなことなどお構いなしに肩書きの偉い人は続けた。

  「少年よ、きみのその勇気はどこから来ているんだ?わたしに教えてはくれないか?」

   その声は力にみなぎり、聞く人を拒絶させない何かがあった。だから、手術を終えたばかりの若い旺文でも、力を絞って乾いた口を開いた。わかりません、ただ、あの人たちを助けなきゃって思ったんです、っと若い旺文は答えた。しかし、蚊が鳴くほどの声だった。身をかがんで耳を近づけた肩書きの偉い人さえ聞き取れず、困ったような顔をした。だから、旺文はもう一度言おうと口を開いた。その時、肩書きの偉い人は振り返って言った。

  「とても危険なのはわかっていた、しかし!それでもあの人たちを助けなきゃ!って心からそんな声を聞こえたそうだ、すると体が自然と走り出していた!」

  病室をひしめく記者たちはその言葉に感動し、みなが大きく頷き、寝たっきりの十四歳の少年に敬意を示した。彼の勇気と優しさに満ち溢れた行いを褒め称えた。本当の言葉とは少し違ったけれども、みんなが喜んでいるならこれはこれでいいっと旺文は黙った。

  肩書きの偉い人は続ける。

  「勇敢な少年よ!もしも、いたずらな運命がもう一度、今回のような選択をさせたら、君はどうする?見ず知らずの人を助けられるか?自分自身の安否を投げ打っててもか?」

  役人特有な回りくどい言い方に眉をひそめ、若い旺文は意味がわからないっと頭を振った。仕方なく、肩書きの偉い人はそっと寄り、小声でわかりやすく説明した。

  「つまり同じことをもう一回できるかどうかって意味だよ」

   それから満面の笑みを浮かべ、左手を若い旺文の肩にそっと置いて、返事を待った。そう問われた若い旺文は考えた、真剣に。生と死の狭間で彷徨うあの苦痛、二度と歩けないだろうっと医者の言葉を聞いた時の絶望感。だから、若い旺文は答えた。わかりません、多分できない。やはり喉がカラカラな上、ほとんどが回りの雑音にかき消されてしまった。聞こえる人間がもしもいるとしたら、一番近くにいる肩書きの偉い人だけ。

  「なんて勇敢な少年だ!」

  肩書きの偉い人は感動し、大きな声で言った。

  「きっと同じ事をするって!」

   なんと、記者たちの中の一人がカメラを首にかけ、掌を打ち鳴らした。そして、彼に続けっと言わんばかりにこの病室に集った大人たち全員が加わり、たちまち大きな拍手喝采となった。言うまでもないことだが、この名誉はたった一人の人間へ送られるもの。悲惨な事故に遭遇した時、娯楽代わりに遠目で楽しむではなく、わが身の危険さえ顧みずに火の海へ飛び込んでたくさんの人命を救った若き英雄、旺文カケルへ送られるもの。

  肩書きの偉い人はタイミングを見計い、彼の小さな掌を握り、肩にも腕を回して抱き込む形で親しさを演出した。顔もカメラに向け、バッチリとした笑顔で応えた。それから記者たちも拍手をやめて、カメラを持ち直して シャッターを押した。間もおかずに病室は再びフラッシュの光で充満した。

  「今の社会は若き勇気が必要としている、みんなで、旺文カケルくんのこの素晴らしい心を広め、この功績を讃え、大いに報道しようではないか!」

  若い旺文はこんなにもたくさんの称賛と注目をひとり占めするのは初めてのこと、言葉では到底表現しきれないほどの歓喜が踊ると、味わったこともない全能感に酔い痴れ、いつしか痛みよりも早いリズムを刻んで快感を燻る。それが故に、若い旺文は信じて疑わなかった、みんなはぼくのことが大好き!

  ぼくはみんなのヒーロー!

  そんな気分上々な若い旺文は不意にも病室の隅っこ、舞台の袖に立つ母の存在に気づいた。両目は真っ赤、手で口を押さえて必死に我慢していた。もつれ合 い、溢れ出そうな何かを耐えていた。写真を撮ることに夢中な大人たちとは明らかに一線を画し、とても、とても悲しそうだった。そして、若い旺文は戸惑いを覚えた。どうして母さんは悲しむだろう?ぼくはみんなに褒められるような素晴らしいことをしたのに、どうして母さんだけが喜んでくれないんだろう?どうして笑ってくれないんだろう?

  この時の旺文はまだ若い、だから知らない。近い将来、この記憶に苦しめられることになるとは……。どうしてあんな残酷なことを母さんに求めた!褒めてほしんだって?ふざけんなこのバカヤロが!勝手に歩けない体になりやがって!この不孝息子め!踏台に使われたことも知らずに!ヘラヘラ笑いやがって!貴様は母さんの一人息子だったんだぞ!唯一の生き甲斐だったんだ!

 


  ーーーーーーーーーー

   


  昼下がり。

  車椅子の旺文は家の近所、森林公園まで散歩しにやってきた。

  人の少ない時間帯を選んでいるから、辺りはすごく静かだった。とても広い公園の片隅で、車椅子を止めた旺文、警戒した目線を辺りに配らせる。少し離れた 向こうのベンチに、気鋭なオールバックを決めた初老な男が一人、座っている。大きいサングラスをかけているせいで、どこを見つめているのかはわからなかった。変なおっさんだが、ぼくの邪魔はしないだろうっと旺文は考えた。だから、ビニール袋の中から例の物を取り出した。それは食べやすいようサイコロ状に捌いた生肉だった、スパイス代わりに小さな画鋲を混ぜ込んだ危険なおやつ。旺文はこれを公園の草むらにばらまくつもりだ。生肉の匂いに引き寄せられ、丸呑みする野良犬や猫の姿を想像しただけで嬉しくてたまらない。

  「命がもがき苦しむ姿から快感を得る」

  突然に話しかけられ、旺文は驚いて急いで生肉をビニール袋に戻した。恐る恐る見上げると、向こう側のベンチに座っていたサングラスの初老の男、いつの間にか近くまで来た。思わぬ事態にひるむ旺文、いやでも前に遭ったことを思い出させた。その時は動物愛護団体と名乗る男たちに囲まれてボコボコに殴られ、おまけに車椅子までもが使えなくされてしまった。

  けれど、おびえる旺文を横目に、初老の男はお構いなく続けた。

  「またはぁ、虐待のような破壊性が伴う行動を通じ、心に詰まる怨念を解消する!まぁ、どちらにせよ、我が身の苦痛を弱い被害者にぃ転嫁し、自分は強い加害者になりきって暴力を振るうことによって満足感を得るぅ!ところで、わたくしが正しければぁ……まぁ、正しいだろうが、旺文カケル様ですよねぇ?」

  「人違いだ!」

  逃げ出した旺文。けれど車椅子の取手がやつに捕らえられてしまった。

  「人違いだ!放してくれ!」

  「わたくしの名はカンジアゴ・マツモォト!どうぞぉ、お見知りおきを!危害は加えませぇんからぁ!どうかぁ、落ち着いてくださせぇ〜」

  カンジアゴは名刺を一枚差し出した。とてもシンプルなデザインだった、もっとも目立つ場所にカンジアゴ松本っと書いてあった。さらに後ろへ続く文字がリールムートンホテル総支配人。

  「……リールムートンホテル、総支配人?」

   旺文はその部分を読み、カンジアゴを改めて下から見上げた。ピカピカに磨いたブラックローファー、真っ白なスーツに蝶ネクタイ、目の周りを覆う大きなサングラス、白髪混じりのオールバック。動物愛護団体と名乗る安っぽいオヤジ連中とは明らかに一線を画したような風貌。でも、だからといって気を許してもいい相手でもない。

  「見窄らしい宿屋ぁを切り盛りしてましてねぇ〜!」

  カンジアゴは手を差し出して握手を求めたが、旺文はそれに応えない。

  「ハァハァハァ、こう見てもわたくしは決して怪しい者どもではございませしぇん!えぇ、まぁ、確かに怪しい者どもは決して自分のことを怪しい者どとはぁ言わないんですぅけれども。わたくしにぃ限ってはそんなことがありえましぇんから!」

  このジジめ!ふざけたいだけなのか?

  「もう帰りたいんで、その手を離してくれ!」

  「この方なんですけれど!」

  カンジアゴは一枚の写真を突きつけた。

  「この人はわたくしの友人です、一週間ばかり前にあの世へ旅立ちました」

  軍服を着こなす男が一人、写真に映っていた。そして、その男を目にした途端、心を掻き立てていた不安がたちまち怒りへと変わってしまった。跳ね上がりすぎた心拍のせいで、一旦目を逸らさなくてはならないほど、いきなり虚を突かれた旺文カケルは平静心を失った。

  「……見たこともない顔だ!」

  旺文は真っ赤な嘘をついた。かつで、病床で寝たっきりの自分を踏み台に使って軽く一儲けした男。そして、若い旺文はそうだとも知らず、笑顔で元気よく手を振ってバイバイした。

  「友人が旅立つ間際にぃ、どうしても旺文カケル様にお伝えしなくてはならないぃ、大切なメッセージをわたくしめに託しましてねぇ〜。なのでぇ、折り入ってぇお願いしますが、わたくしめの仕事場、リールムートンホテルまでご足労を願えませんか?」

  「ぼくにメッセージ?」

  あの名刺を思い返した、具体的な住所は何一つ書いていなかった。リールムートンホテルっか?どこかで一度は聞いたことある名だ、確か、すごく有名なホテルだった、いいや、そういう問題じゃない、ぼくが行かなければならない理由なんてどこにもないじゃないか!

  不愉快そうに眉をひそめてしまった旺文、カンジアゴはさらに畳み掛けていた。

  「わたくしの友人はぁどうしてもぉ、旺文カケル様に謝りたい!っと言っていました」

  「何も悪いことはされてない!」

  「いいえぇ、彼は申し訳ないぃ事をした!」

  「申し訳ないもなにも!そんな人、ぼくは知らない!」

   そうだ、人を助けたばかりに歩けない体になっちまったぼくを、あいつはあたかも英雄のように宣伝して、ひと儲けしただけのこと!彼から直接悪さをされたわけではない。むしろ彼のおかげで、一時的とはいえたくさんの人から援助をもらえたんだから。しかし、それもほんのわずかな間のこと、飽きっぽい世間はすぐにぼくの存在をもみ消した。

  「わたくしの友人はぁ手紙を残したぁ、それを読んでいただければぁ〜。あの日、あの事故について多少なりぃとお分かりになられましょぅ」

  「……えっ?」

  ハッと驚いた旺文、思わず聞き返してしまった。

  「あの事故って……何のことだ?」

   まるでここぞっと待っていたかのように、カンジアゴはゆっくりとしゃがみ込んだ。掌をそっと旺文の膝の上に乗せ、泣く子供を慰める親のような慈しさを込めて。大きなサングラスのせいで目が見えなくとも、その額を強張らせたものが感傷に違いなかった。まるで、この不幸を分かち合おうっとでも言いたげなカンジアゴ、声は震えていた。

  「まさかぁ、お忘れになられたぁのですかぁ?旺文カケル様がぁ自分を犠牲にしてぇ、火の海からたくさんの命を救い出したぁあの日、あの事故のことですよぉ?」

  心の壁が砕け散る音を、旺文は確かに感じ取った。そうだ、覚えている、何を忘れてもこれだけは忘れない、そして思い返す度に顎を噛み締めるほど後悔する。他人に善くしたばかりに自分を傷つけ、両足を無くして二度と立てない体になってしまったんだ!

  物事の頃合いをうまく見計らっていたのか、カンジアゴはそっと車椅子に力をかけ、硬直してしまった旺文の耳元にそっと語りかけた。

  「さぁ旺文カケル様〜、こちらへどうぞ、近くに車を待ぁたせてありますぅ」

  


  ーーーーーーーーーー

  


   旺文とカンジアゴを乗せた黒ずくめなギャデラックリムジンは長い間、山を越え、森の中を走行し続けた。窓の外には過ぎ去っていく並木を眺めながら、リールムートンホテルとはどんな場所だろうっと旺文は考えた。新緑な木の葉を透かす光、車のタイヤから伝わる振動、心中に芽吹いた不安、もう少し慎重に考えるべきだ、だってカンジアゴは見ず知らずの他人だぞ?

  今更だが、口車にうまく乗せられてしまったような気分だった。

  「見ず知らずのぉ人にこんなぁ山の奥深くまで連れてくるとぉ〜、あ、誘拐された気分にぃなったりしませんがねぇ〜?」

  横に座るカンジアゴ、不敵な微笑みを浮かべている。

  「わたくしもぉ、最初はそうでした、アッハァハァハァ!でもぉ、その時は自動車なんてなくて、馬車だったにゃのよぉ?」

  「馬車?」

  旺文は思わず聞き返してしまった。

  「アッハァハァハァ!まさか、ただのジョークなぁ〜のよぉ!」

   こいつめ!っと舌打ちする旺文。やがては並木も途切れ、車窓の向こう側に新しい風景が見えた。少しばかり遠いところに宮殿のような華麗な建造物がいきなり現れた。黒ずくめなギャデラックリムジンがさらに前進するにつれ、その建造物の巨大さと壮観さに圧倒された旺文は息を呑むばかり。

  「ようこそぉ〜、リールムートン・ホテルへ!」

  カンジアゴは言った。

  「これがホテルだって?」

   ホテルにしてはあまりにも豪華すぎている。華やかなゴールドカラーと純潔のホワイトカラーを交互に編み込んだ外装、超が付くような富豪が所有する宮殿と間違われても仕方ないほど。ったく!田舎に構える見窄らしい宿屋とか言いやがって!これのどこが見窄らしいんだ?っと旺文はカンジアゴに問い詰めてやりたかった。そんな輝かしい建物に言葉を詰まらせる間にも、黒ずくめなギャデラックリムジンはホテルの敷地内へ入った。古代の神々をモチーフにした噴水彫刻、 咲き乱れるフラワーガーデンを通り抜け、車は建物の入り口に止まった。待機してあった使用人は手際よく旺文を車椅子に乗せてくれた。容易周到なサービスに感心する間もなく、カンジアゴを先頭に、一行はホテルの中へ入っていた。誰一人いないロビーを横切り、華麗なエレベーターに乗り込むと、カンジアゴが六階のボタンに指をかけ、緩やかな上昇感に包まれた。

  不思議だ。

  車にのせられた時の不安があたかもうそのように消し飛び、旺文は今の 居心地の良さに驚いた。そればかりか、どんな悩み事も苦しみも、ここでなら忘れられる、うまく説明できないけどそんな気がする。エレベーターが上昇するに つれ、心の奥深くに幸福感が芽生え、目にも留まらぬ速さで成長した。エレベーターの扉が再び開き、淡いローズの香りがする廊下に一行が降り立った頃、旺文 の心はすでにリールムートンホテルを愛してやまなくなっていた。

  ここに来られたことは生涯の誇りだ!

  虚ろな目をまばたかせる旺 文、されるがままに進んでいく。淡いローズの香りがする廊下、立ち並ぶ無数に思わせるほどの数のドアから、カンジアゴは使い古した一つが選んだ。それから カギ束を取り出すと、正しいものをドアノブへ差し込み、回した。使い古したドアが開くと、空っぽな部屋が目の前に広がった。どうして何もないだろう?っと 車椅子の旺文は覗いて、訝しげに思った。使用人の仕事はここまで、カンジアゴが代わりに車椅子を押して部屋の中に入り、ドアを閉めた。すると、旺文は気づ いた。違うぞ!ここは空っぽなんかじゃないんだ!壁際には紫色のカーテンで覆われている大きなものがある。

  「……あの紫色のカーテン、後ろに何があるんだ?」

   それが気になって仕方ない、何が何でも見たい、知りたいっと旺文は思った。薬を切らし、発狂寸前の病人に如く、さもなくば魔法が消えて元の姿へ戻され ちゃう、もはや身に降りかかった全ての不幸も災いも何もかもが取るに足らない、あの紫色のカーテンの後ろだけがぼくの人生!

  「さぁあ〜、どうでしょうねぇ〜、わたくしはわかりません」

  カンジアゴは答えた。

  「……とても、大切なもの……だってそうでしょ?」

  旺文は無我夢中に車椅子を回し、前進する。

  「申し訳ございません、わたくしはわかりません〜」

  「見てもいいか?」

  カンジアゴは笑みを浮かべた。

  「ええ、もちろん!すべてがぁ、おおせぇのままにぃ〜」

   旺文は「それ」のすぐ手前まで行って、紫色のカーテンを手で退かした。すると驚いたことに、そこには部屋がもう一つあった。同じ車椅子、同じ格好、同じ 訝しげに目を瞠るの人間がもう一人、紫色のカーテンのこっち側にいる旺文を見つめていた。脱力したような目元も、人を寄せ付けないダサい格好も、何から何 までも不思議なほど似ている。理由は簡単、そこにあるは大きな鏡だからだ、車椅子の旺文とにらめっこをしている人も、彼自身の投射にすぎない。

  いいや!

  違う!

  これはただの鏡なんかじゃない!っと旺文の両目は脳に強く訴えかけた。ただの鏡なんかじゃない!光の投影なんかでもないんだ!そこにいるもう一人のぼくは生きている!その鼻息も確かに感じられる!

   すると次の一瞬、紫色のカーテンの後ろ、大きな鏡の奥側にいる旺文は車椅子から立ち上がった。何の前触れもなかった、まるでこれこそが真実で、二度と立 てないだろうっと医者に断言された言葉は人の目を欺くためのフェイント。激しい情緒の高波が心の土手を攻め、虚ろな旺文は満たされた。

  お願い!

  これは本当だと!

  そうだと言ってくれ!

   願いが届いたのか、紫色のカーテンの後ろ、鏡の奥側にいる旺文が歩いた。この上ない歓喜に包まれ、すっかり酔い痴れた旺文、すでにこの現実離れした今に 取り憑かれ、夢に見る自分の姿に無我夢中に手を伸ばした。ぼくは立っている!両足で地面を踏みしめている!そうだ!ぼくは車椅子なんていらない!役に立た ない表彰状も名誉もいらない!ぼくが助けた人たちも一人残らずあの世へ行けばいい!

  いつしか一筋の涙が流れ落ち、旺文は泣いた。

  お願い!

  もっとこっちへ寄ってくれ!

  旺文は腕を伸ばし、心の中でひらすらとそう繰り返した。そして、一歩また一歩と近づいて来る自分に手を握り締められ、話しられた。

  「……どうして、車椅子なんかに乗っているんだ?」

   紛れも無い、ぼくの声!応じなくては!っと旺文は口を開くが声は出なかった。高ぶる情緒がとうに限界を越え、咽頭を痙攣させ、両目からも大粒の涙が泉の 如くに溢れ出る。助けてくれ!っと旺文は言いたかった。あなたが何者でもいい、ぼくを救ってくれるならなんだっていい!

  「立ってもいいんだぞ?」

   そう言われた旺文はただただ頷くことしかできなかった。紫色のカーテンの後ろ、鏡の奥側にいる自分自身に必死にしがみついて、ひたすらと大きな声で泣き 叫び、まるで心に降り積もったすべてが何もかもが涙に変わって流れ落ちてくるようだ。そして、この世にも不思議な光景を、カンジアゴは一歩下がったところ で、静かに見守っていた。



  ーーーーーーーーーー 




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