猫と子猫のすれ違い
虎は基本、夜行性である。
寝台の上は、きちんと掛布が整えられたまま、使われた形跡がなかった。ここ十日ほど、連日で同じ状態だった。エルデュアとて、帰宅できたのはとうに夜中を過ぎた今なのだから、リィの不在を責めることはできない。忙殺されているのは、お互い様だ。
冷たいままのシーツに指を添える。
しかし。
一体、どこで何をしているのか、まったくわからないままとは、どういうことだろうか。
無言のうちに、記憶をたどっていた。
おそらく発端は、十日ほど前にさかのぼる。
『魔鉱石、ですか』
『ええ。魔力を秘めた石として産出される物をそう呼びます。魔道具に用いられるのですが』
『それを、城内で不正利用しているものがいると?』
『ええ。正規ルートでない闇市で手に入れて、正規品に交じって使用されているようです』
エルデュアを悩ませる、今最も頭の痛い問題だった。なぜそんなものが、よりにもよって城内で広まっているのか、だれがどんな目的で広めたのか、見当もついていない。
さして興味のある様子はなかった。ちょっと目をそらし、そうですか、と呟いたきり。後はいつも通り、淡々と、そして黙々と食事を終えた。ちなみに、夕食であってもリィの食事量は変わらない。せいぜいサラダと、主菜を三口ほど。パンとスープに口を付けるかつけないか。それだけだ。
好き嫌いはなさそうだが、辛いものは食べられないのか、辛子のきいた料理にだけは一瞥すらくれない。また、手を付ける前にじっと観察するのは、変わらなかった。
それらを考慮して、今では少なめの小品料理を、数多く並べるようにしていた。昼食の時と同じで、リィの食事風景が面白いからだ。ただし、作り手はエルデュアの家に仕える料理人だ。
だがそんな会話をした日の翌日から、リィはエルデュアのもとに寄り付かなくなった。執事に言わせれば、朝方には必ず帰ってきていると言う。使用人たちが起き出したあたりで姿を現し、小一時間ほど部屋にこもる。その後エルデュアが起床するかしないか、という時間になると消えている。
そんな日が、今日で十日。
まともに会話する時間など皆無だ。リィは中庭にさえも来ないのだから。
それなのに――と、エルデュアは昼間を思い出して、苦虫をかみつぶした顔になった。
気まぐれな子猫は……全く読めないことをしてくれているのだ。
今日の昼前に、エルデュアは軍部の方へ出向いた。
書類のやり取りを何度しても柳に風、糠に釘と流される、とある「将軍」に会うためだ。
普通なら、会議なり集会なりを開けばいいのだが……彼はそれすらも無視することがある。これはもう、腹をくくって自ら行くしかない、と決めたのだ。
一応は身分上、立場はやや相手のが上だ。しかしながら、あらゆる意味で「有名」なエルデュアが動けば、周囲を巻き込んで否応なく「変わる」だろうと、そう踏んでいた。
読みは見事に当たり、将軍の執務室だけでなく軍部庁舎全体が騒然となった。
ただし――
「不在?」
「え、は……はい! 将軍はただ今、練兵場に新兵たちの訓練に当たられているかと」
青くなりながら、そう報告した副官に、「逃げたな」というひどく物騒な呟きがもたらされた。ひい、と慄くものの、根性で後ずさったりはしなかった。
奇襲をかけたに近いエルデュアだったが、相手は百戦錬磨の将軍である。負け戦には即時戦略的撤退を図ったようだ。だが。そこで諦めていては――諦めるようでは――副宰相は、ここまで恐れられはしない。
「どこです?」
「は?」
「その逃亡先はどこです」
「ええと……」
無表情に尋ねると、言いよどんだ相手は……本当に行かれるんですか? と間の抜けた質問をしたせいで、今度こそ死にそうな顔で後退する羽目になった。触れれば切れそうな、氷の双眸に射抜かれてたせいだ。その声もまた、温かみは欠片もなかった。
「行かなければ訊きませんし、絶対に行く必要があるのです。四の五言わずに案内なさい」
無言の首振り人形と化した副官は、迅速かつ最短で、練兵場へ向かった。
そこでようやく、件の将軍を捕まえるのに成功し、ねばられようがごねられようが、とにかく口を使い手を使い、最終的には書類で思い切りはたいたうえで案件を承諾させ、全面勝利を収めた。
浅黒い肌と鍛え上げた身体を持つ偉丈夫な将軍は、備え付けの机にぐったりと付していたが、エルデュアだけは涼しい顔でサインをもらった書類の最終確認をしていた。ちなみにその周りには事務所のようになった一角だけに、書類仕事をする武官たちが数名いたが、かの有名な副宰相の辣腕ぶりに恐れをなして、全員がぎこちなくなって固まっていた。
不備も問題もなく、「結構です」の一言ののちに、その場を去ろうとしたのだが。
顔を上げたその先、練兵場を見渡せる窓の向こうに。
子猫が、いた。
それも、楽しそうに笑う兵士の一人に、がっちりと肩を組まれた状態で。振り払う様子も、嫌がることもない。いつも通りの無表情だ。さらに後ろから、細面でおよそ軍人とは程遠いほど整った顔立ちの男に声をかけられる。気のないままに振り返り、言葉を交わしていた。その間も、回された腕が解かれることはない。
釘付けになった視線を、どう解釈したのか、かの将軍が振り返って……ああ、と呟いた。
「変なのがいるだろ?」
妙な言い方に、内心で首をひねりながら視線を戻す。
「女の軍人は珍しい上に、ちんまいからな。目立つんだろ」
「……知られているのですか? それほど優秀だと?」
「名前を知らない奴はいないだろう。リィ・ウォン……あのウォン家の人間だが……優秀ってのは、違うな」
なんとも言えない、中途半端な顔つきで将軍の目が歩き去った背中を追う。
「訓練で目立つこたぁ、はっきり言ってない。さっきも一戦打ち合ってきたが、どうも闘志とかやる気にかけてんだよな。その代わり、索敵能力は図抜けて高い。追跡能力もな。いわば半魔術師みてえな立場なんだが……魔力酔いもしねえし」
「魔力酔い?」
「ああ。大勢がそれぞれ魔力使うと、時々いるんだよ。他人の『気』にあてられるってやつが。要は向き不向きってことだ。立ちくらみとか、悪いとそのまま卒倒する。大抵新人は一度や二度はそうやって魔力に酔って、だんだん慣れていくってのが多い。それがないってのは、相当魔力の流れに敏感で、きっちり周りを視てる――視る力があるってことだ。そういう意味で、ここ数年の中で来た連中の中じゃ、俺は相応に買ってるやつだよ」
なるほど、と重しを乗せられた心で呟いた。
リィは、こんな場所でもそこそこ上手くやっていけるだけの「力」があるらしい。
もちろん、それは分かっていたことだ。リィはエルデュアと知り合う前から軍人としてこの第一部隊に所属していたし、さらに「闇」としても動いている。
子猫には、きちんと世界がある。全く同じことが、エルデュアにだって言えるのだ。
だが。
エルデュアを見もしなかった金の瞳が、第一部隊の「仲間」に向けられていた事実には……どうしようもなく、苦しくなった。