子猫と新しい家2
小さな丸い点が、三つエルデュアの胸を押していた。最初は、触れるように。少し離れてから、今度はしっかりと胸を押す。それが指先だと気付いたのは、もう一度名を呼ばれたから。
「起きてください」と。はっきりそう告げた。
胸の上に会った指が、触れるか触れないか、掠めるような移動をする。のどに触れ、顎先に爪の先を当ててから、また元に戻った。う、と息が詰まる。
「起きていらっしゃるでしょう?」
囁く吐息が、触れるほど近い。ようやく、ゆっくりと目を開けた先には、金に近い瞳が大きく映っていた。リィが、寝台に手を付いて、さらに乗り出すようにエルデュアを真上から覗き込んでいた。
――愚かにも。
これだから、とエルデュアは薄く微笑んだ。
腕を伸ばす。いとも容易く、その体は寝台の上へと導かれた。柔らかい布地と、温かいぬくもりが、エルデュアの手の中に落ちてきた。腰と頭を捕えて閉じ込めても、抵抗一つしなかった。強く抱きしめると初めて、ん、と身じろぎする。
「エルデュアさま……?」
「いけませんね、リィ・ウォン。こんなに簡単につかまってしまうなんて」
「いけ、ない?」
髪に口づけを落とす。
「ええ。折角出掛けようと思っていたのに、出来なくなってしまいます」
「どうしてですか?」
首をかしげる。金の目が、まっすぐにエルデュアを覗き込んむ。朝のかすかに漏れてくる光に輝いて、美しかった。エルデュアの笑みが、口角が上がって深くなる。銀の髪も、朝日に同じように輝いて艶を増していた。
長い人差し指の腹が、リィの耳を後ろからなぞると、リィがさらに甘えるように、額が胸に落ちた。
纏う雰囲気が、変わる。
艶やかな、銀灰の毛をまとう、捕食者が、そこにいた。
「本当に?」
「え?」
額と、鼻先が掠めるような距離で、ほとんど声にならない言葉を、囁く。
「本当に、知りたいですか?」
鋭い氷の目が、強い輝きを帯びてリィだけをまっすぐに射抜いた。ともすれば、呑まれそうなほど。
だが。
「はい」
「……」
あまりにもストレートに即断されて、エルデュアは次の言葉を失った。
「なんですか?」
「……いえ。あまりそう、素直に頷かれてしまいますと……少々都合が悪いと言いますか、据わりが悪いと言いますか」
「?」
リィが疑問の表情で、エルデュアを見上げる。なぜ、と思わずにはいられない。
あれほど鋭く人の気配や場を読むのに、この手の雰囲気はまるで通じないのか、と。
いや、理由なら……分かっては、いる。
リィは、子猫なのだ。
好奇心のままに自分の周りや、世界を見回す、子猫。心はまだまだ未知なものへの興味で一杯で、執着や恋着が生まれる余地がない。
そこでさらになぜ、と思わないでもないが……問うたところでロクな答えは得られないだろう。リィ自身が、あまりに己に無頓着だから。
そのまっすぐなところに惹かれたけれど――背徳感に煽られるより、罪悪感と庇護欲が勝ってしまう。
ため息をついてから……エルデュアはリィを抱き直した。
今度は、細い腕が伸びてくる。そのまま、頬ずりをされた。
「リィ?」
「……お詫びです」
「詫び?」
「ええ……申し訳、ありません」
今度はエルデュアが首をかしげる番だった。
けれど。
バキ、メリメリと不穏な音がした。その次の瞬間には、腕の中からぬくもりが消えていた。すぐに床にたたき付けられる鈍い音がして……驚いて身を起こした時には、既に終わっていた。
「……鼠かと思っていたが、どうやら薄汚い犬の方だったか」
足元には、顔の見えぬ男が転がっていた。大して強く押さえつけているようには見えないのに、身動き一つ、取れないようだ。
リィの手には、長い剣がある。だが直前までは丸腰だった。よく見れば……剣の鞘を下げているのは、男の方だった。奪った剣を無造作につき付けながら、リィが敵の背中を踏みつけた。
「全くつまらないことをする。お前の雇い主は、とうに捕えた。今更戻ってくるなど、阿呆の所業だな」
「うるっせえな! てめえ、この家に何しやがった」
「それすら見破れぬものが、かの方に危害を加えようなどとは……愚かな」
さえざえとした、どこまでも冷たい声音。色彩もそのままに、けれどそこにいるのは確かに「虎」であった。細い体は、今は鋼に似た強さを秘めている――それが、武人でもないエルデュアにさえ、分かる。
「リィ、その男は?」
「犬です」
「犬……」
「はい。首輪の外れた、野良犬です」
それ以上の説明はない。だがさほど頭を回さずとも、王神派の一件が絡んでいるのは明白だった。なんともしつこい連中だ。
「これは、末端の……そのまた先、でしょう。おそらくは、餌欲しさに主でもない人間にすり寄ったかと」
「けっ! 賢い宰相様の懐刀に、死んでほしい連中なんざ探さなくともごろごろいるぜ!」
吐き捨てた男に対し、エルデュアは不快げに眉を顰めただけだった。リィに至っては、身じろぎすらしない。だが、そのまままとう気迫が変わった。
「エルデュア様、ご安心ください」
「リィ?」
殺気を孕んだ、さらに温度の下がった声で、リィは淡々と男を見下ろしていた。威勢良さは、即座に萎れて、その迫力に気おされていた。
「人に害を成した野良犬は」
すっと長剣が振り上げられる。
「殺処分と決まっております」
「――っ」
止める間もなく、振り下ろされた。息をのんだのは、エルデュアだったか、男だったか。
とっさに立ち上がっていた。同時に鈍い音が響いて……血だまりを予想していたエルデュアは、目を瞬いた。
男は、リィの足元から消えていた。さらに、長剣は跳ね飛ばされて部屋の隅に転がっていた。
そして。
「勘弁してよまったくも~」
のんきな声が――全く見も知らぬ人間の声が――部屋に響いた。
唐突に表れた男は――奇妙な服装をしていた。覆面に、異常に襟の高い、袖も身頃もゆったりとした衣服。それらすべてが、黒。声は若いが身長は高く、成人に見えた。その左手には、さっきまで床に転がっていた「犬」の襟首があった。気を失っているのか、ぐったりとして動かない。
「確かにさあ、前回の事件は終わったよ? だけどこの一件はまたちょっと別でしょうが。頼むからさあ、いきなり殺すとか、ナシだから」
まるで知り合いのように話し出して、エルデュアは余計に混乱した。
「リィ・ウォン?」
「……鼠です」
端的過ぎて、訳が分からない。リィに近づいてから、目顔でさらに説明を求める。
「こそこそと屋敷中を嗅ぎまわっていた、どこぞの鼠です。尻尾ばかりがちらついて、いい加減うっとうしかったので、嵌めました」
リィの言い分に、ああもう、と相手の方が落ちる。
「そーじゃないかと思ったんだけどさあ……言っとくけど俺、味方よ、味方。そりゃ声をかけずに勝手に動き回ったのは悪かったけどさ」
「口ではなんとでもいえる。殺しますか、エルデュア様」
さも当然とばかりに選択を迫ったリィに、うっわひでぇ、と男の目が丸くなる。行きがかり上、エルデュアはたしなめた。
「いけませんよ、リィ・ウォン。口に出すからには証を持っているでしょう」
「おおさすが。頭のいい人は違うな」
「余計な事はいいから、出しなさい」
男が無造作に懐から取り出したのは、紋章をかたどった美しい護符だ。最高の銀と、そして色彩を帯びるように魔術を施した、逸品。権力と財力を象徴し、持つものがその紋章を掲げる一族の元にいるという証拠だ。
男が取りだしたのは、リン公爵家のもの。
ハルエスか、とエルデュアはややげんなりする。事件があったため、ひそかな護衛は不要とは思わないが、いささかやりすぎな節が否めない。
その横で、リィがちっと舌打ちをしていた。男が目ざとく気付く。
「てゆうか、知っていたよね? そっちのチビさん、知ってたよね? これ魔力おびてるんだから、俺がこれ持ってるって知ってたでしょ?」
ひどいよもう、とぐちぐちと文句を言う。リィの片眉が跳ねた。
「やかましい鼠だ。口を閉じねば尻尾を切るぞ」
「ええええええ。ひでえよおい」
尻尾はない、とは突っ込まないのか、とエルデュアはしょうもないことを考えた。それだけ緊張感がない。
しかしながら……はあ、とエルデュアはため息を吐いた。事が起こった以上、城に出向いてハルエスに会わねばならない。休日はまたしても返上だった。夜着の上からかけてあったガウンを羽織り、普段着ではなく制服を用意させねば、と考え込んでいると憂鬱になった。
それが、顔に出たらしい。
リィが準備する手をそっと止めた。
「やっぱり、殺しましょうか」
「リィ……それは」
「全部、なかったことにできます」
「……」
気持ちはありがたいが、さすがにまずい。だがそうできればどんなに嬉しいか。ついつい可愛いことを言ったリィを、引き寄せて抱きしめる。ついでに、細い体を愛おしむ。離れなければならないのは、本当に苦痛だった。
腕の中に閉じ込めたまま、リィの柔らかく温かい身体を惜しんでいると、ふと視線を感じた。すっぱり忘れていたが、鼠呼ばわりしていた男がやや呆然としていた。うわあ、俺完全放置……と言ったところか。
「てか、偉い貴族様も、女とやることは一緒か……」
思わず、といった感じに漏れた、感想じみたひと言の後。
鼠は、部屋の隅まで一気にぶっ飛ばされた。
はっとしたエルデュアの腕からは、とうに子猫が消えていた。殴られたか、蹴られたかしてうずくまっている男の前に立ったのは、白銀の髪に金の瞳の……白い虎。手にはすでに、弾かれたはずの長剣が握られている。
「お前、やはり死にたいらしいな」
「いやいやいや。全然、まったく、これっぽっちもそんなことないから!」
どこでスイッチ入ったの勘弁してよ! と身動きが取れないらしい鼠が騒ぐ。口を閉じておけ、とはあまりに遅すぎる忠告だった。だがこのまま様子見などしていては、リィが本当に殺りかねない。
近づいて、その肩に掌を置いた。
「駄目ですよ、リィ・ウォン」
「エルデュア様、ですが」
「構いません。あなたは私が侮辱されたと怒っているのでしょうが」
「間違いなく侮辱罪です。即刻処刑すべきです」
殺気こそないが、冷めぬ怒りに金の瞳に一層強い輝きが宿る。浮かべたくなる笑みを抑えて、エルデュアは物騒な剣をさりげなく奪って遠ざける。
「いいんですよ」
「しかし……なぜ?」
「なぜ?」
問いをそのまま返すと、戸惑ったのかリィの気がふっと緩んだ。そこに――喰らいついた。
腰を支え、逃げぬように首と後ろ頭を捕える。声も吐息も漏らさず、すべてを己の中にのみ込んだ。
細い手が、支えを求めて薄い夜着をキュ、と掴んだ。煽られるようにさらに奥に。余すところなく探り、喰らいつく。
合間に、薄氷の瞳を細めて鼠を見下ろす。さすがにどんな言葉もないらしい。唖然としたまま、ただこちらを凝視していた。
どれほど貪っていたか。
ようやく解放されたリィは、ただエルデュアを見上げるしかできない。細い身体のすべてを預けて、もたれかかっていた。
そこでようやく、先ほどの答えを、耳元でささやいた。
「あれは、ほめ言葉ですよ」
だから殺してはいけません、と続けると、こっくりと頷かれる。
だがそこに――
「さっきのも背徳的でよかったけど、こっちはこっちで絵になるなー」
「……」
「……」
などという爆弾発言が降ってきた。言った本人は、全く反省の色もない。ただの感想だ。
きっと鼠を睨みつけて、竦みあがらせながら再度リィがきっぱりと言った。
「やっぱり殺しましょう」
「……」
救いようがない、と心の中で、何度目になるかわからないため息を、エルデュアはこぼした。
ちなみにその後、鼠を連れて王城に行ったエルデュアは、宰相とかの鼠を「やっぱ死んだほうがよかったかも」などと言わしめた程の災難に合わせた。
どんな艱難辛苦を極めたか、二人は決して口を割らなかった。