子猫と新しい家1
初めてラムゼタをリィと引き合わせた時、エルデュアはおそらく二度と訪れないであろう場面に遭遇した。絶句して棒立ちになった執事である。
常に冷静な態度を崩さず、エルデュア以上に表情の表れない顔が、その時ばかりは目をみはって呆然としていた。
「旦那さま、失礼ながら今なんとおっしゃいましたか?」
「今日から世話してやりなさい、と。名は、リィ・ウォンです」
たがわずに繰り返すと、聞き間違いでなかったことにさらに声を失っていた。しばし二人の顔を見比べた。吹き出すのを堪えるエルデュアと違い、リィは警戒心もあらわに周囲を探っている。
忠実な執事は、それ以上無礼を働くことを、己に許さなかった。呼吸を整えると、澄ました顔つきを取り戻す。
「承知いたしました。それでは、荷物をお持ちいたします、奥様」
白い手袋をはめた手を差し出されると、油断なく気配を探るのをやめて、リィが目の前の執事に目を止めた。怪訝そうに問い返す。
「オクサマ?」
「ご不快ですか?」
淡々とした言葉に、さすがに気が早すぎる、と思わないでもなかったが、言われて悪い気はしなかった。だが困ったようにリィがエルデュアを見上げてきて、やや残念な気持ちになった。
「嫌なのですか?」
「でしたら、お嬢様とお呼びいたしましょう」
「オジョウサマ……」
やはり同じようにぼんやりと繰り返される。なにかがおかしい、とエルデュアも思った。
「なにが嫌なのですか?」
「いや、というか……」
困惑した表情で、リィがエルデュアとラムゼタを交互に見上げる。
「返答をできる気がしません。リィ・ウォンと呼んでください」
突飛な返事に、今度はエルデュアの方が目を瞬いた。執事の方も、片眉が跳ねる。
「では、リィ・ウォン様、と」
「いいえ。様、もいりません」
「それは致しかねます」
「じゃあ、リィでいいです」
「申し訳ありません。そちらも承服しかねます」
「……」
「……」
助けてくれ、と双方向からエルデュアは挟まれることになった。結局折衷案を取ってリィ様、で無理矢理落ち着かせた。それにしてもなぜリィがあれほど呼び捨てられることにこだわるのか、分からなかった。敬称では返事が出来ない、とはどういう意味なのか。
そんなことをつらつらと考えながら、朝の一時を目をつぶったまま過ごしていた。ともすれば、また眠りの淵に沈んでしまいそうなほどだ。それでも、今日は休みなのだから、わざわざ起きだす必要もなかった。微睡は、めったに味わえない心地よい時間だ。
ゆえに、どこか遠いところで扉の開く音がした時も、小さく柔らかいものが胸に触れた時も、エルデュア様、とささやかれた時も、夢だと思って疑わなかった。
リィ・ウォンの一日は、夜明け前に始まる。
太陽が昇るよりも前に目を覚まし、どんなに気温が低くても掛け布団を大きくまくって寝台から降りる。そのまま就寝前に用意してあった服――たいていは軍服――に着替えながら、体調の確認をする。不具合がなければ、そのまま部屋で体をほぐし、かつ意識を明確にする。
のだが。
うつらうつらとしながら、最後に意識が浮上したとき、リィは一瞬、そこが一体どこなのか、さっぱりわからなかった。
手に触れる肌触りのいい布団、目に映るのは天蓋の美しい布。そして、触れる空気の流れが、その部屋が官舎の自室より、ずっと広いことを示していた。
それでもいつも通り寝台から降りると、辺りを見回した。白で整えられた調度品が並ぶ部屋の――さらに壁と扉の向こうでは、すでにかなりの人数が動く気配がする。服を着替えようと寝台脇のチェストに手を伸ばせば、見慣れない布地の塊が目に入った。
「……」
まだ慣れないな、と愚痴のようなものを心の中でこぼしてから、リィ・ウォンは新しい戦いに取り組み始めた。
エルデュアの屋敷に留まることになって、三日経った。王宮中を揺るがせた事件がひと段落つき、エルデュアはようやく休暇をもらえたらしい。リィの方も、特に差し迫った仕事もなく、今日一日は公休にあたっていた。休みが重なったことを告げると、エルデュアは嬉しそうに「ではどこかに出かけましょうか」と提案してきた。予定もなにもないリィは特に考えずに了承したのだが。
どこかってどこだろう、というのが、リィの正直な感想だった。
口にしたら、怒られるかがっかりされそうだったので、なにも言わないで済ましたのだが。
制服とは異なる衣服を、ボタンや肩の位置などを確認しながら着て検分する。芯のない柔らかい布地は、どことなく心もとないし、足はうかつに動けばはだけてしまうスカートだ。こんな格好をするのは、いつ以来か。
着替えに手間取って、いつもの時間を過ぎていた。この後は、屋敷の見回りをするのがリィの日課だった。何しろ広いので、仕事をしながら全部の部屋を見るのは、なかなか手間がかかるし時間もかかる。だが知らない領域が同じ屋根の下のあるのは、リィにとって警戒の種だ。これを終わらせなければ、いつまでたってもぐっすり眠ることもできない。
廊下に出ると、窓や花瓶を拭くメイドたち、忙しく立ち働く使用人が大勢いる。彼らの邪魔にならないように、そっと気配と足音を消して遠ざかる。
途中で、執事のラムゼタを発見した。彼がエルデュアの次に偉く、主人の留守中はこの屋敷を取り仕切っていると、リィも知っている。だから、彼にだけはきちんと挨拶をするのが礼儀だと思っていた。
折よく、彼は一人だった。
「……おはようございます、ラムゼタさん」
驚かせないように声をかけたつもりだったが、後ろを向いていたせいか、びくりと肩を震わせてから、ラムゼタは振り返った。それでも、面と向かった時はいつも通り無表情だ。
「おはようございます、リィ様。できれば足音をたてていただけますと、大変ありがたいのですが」
「ああ……つい癖で。申し訳ありません」
「いえ、謝罪していただくほどのことではございません。本日はどちらに向かわれますか? 差支えなければご案内いたします」
「その……四階の方に行きます。あの……案内は、お忙しいでしょうから、結構です」
「さようでございますか」
「はい。あと……私に敬語も敬称もいらないと思うのですが」
「申し訳ございませんが、そればかりはご容赦ください。リィ様こそ、私めをお呼び捨てになられますよう、お願い申し上げます」
「はあ……」
どうもラムゼタとは、面と向かった話した時から、平行線をたどっていた。初対面は緊急事態だと無理やり押し入ったため、下手したら狼藉者扱いでも文句は言えなかった。ここに来たときは、出て行けと怒鳴られるのでは、とさえ想像したのに。
なんとなく気疲れしてふらふらしながら、ラムゼタの脇を通り過ぎようとして「リィ様」と呼び止められた。
「はい」
「できれば」
「はい」
いつになく、その無表情が神妙な気がして、リィは出方をうかがう。
「日が出まして一刻ほどのちに、旦那様にご起床いただけますよう、お声掛けをお願いしたいのですが」
「はあ」
よろしいでしょうか、と尋ねられ、内心肩透かしを食らいながら、リィはこっくりとうなずいた。