逃げた子猫の受け入れ方
すべてが、欲しかった。
漏れる吐息も、音になる前の声も。
離す気はなかった。離せる気もしなかった。慣れていないのかロクな抵抗もなくされるがままリィを、貪ってどれだけ時間がったのか。
細い腕が首に回されたのは、覚えている。
その事に安心して、少しだけ顔を上げた。金色が、視界いっぱいに広がったのも、覚えている。
そして――
ベッドの上で目が覚めた……
すこぶる機嫌の悪い副宰相は、途方もなく珍しいが、とんでもなくおっかない。
同じ部屋で過ごさねばならないハルエスは、一体どこのだれがここまでエルデュアの機嫌を損ねたのか、探し出して身代わりにしたいぐらいだった。休暇返上で出仕させただけでは、エルデュアはここまで怒りを露わにしない。賢い男なので、怒りはするが、同時に理解も早いのだ。
が。今日という今日は、口を開けば罵詈雑言が、閉じていてもその雰囲気が、とにかくいい迷惑なのだ。朝は顔を合わせるなり「黙っていろ、阿呆が」という挨拶をされた。
長い付き合いのため、ある程度は耐性がついていても、気持ちがいいものでもない。
だが怒っているエルデュアは、驚くほど優秀だった。怒りのエネルギーを、そのまま仕事に向けているせいで、普段の軽く二倍の速さで処理されていく。今まで見たことがない速度だ。ということは、そのまま怒りのボルテージが反映されているわけで、さすがのハルエスも余計な無駄口を叩く勇気はない。
昼休みまでにいつも通りの量になると、耐えきれずにハルエスの方が執務室を出ていくことになった。エルデュアと言えば、机から動く素振りもない。
そのまま仕事をし続けていると、横合いからさらに違う書類が差し出された。見もせず、無造作に受け取ろうとして、手をかけた紙が動かないことに不審に思って上向いた。
「――っ」
リィが、いた。軍服姿、いつも通りの変な毛色。姿を認めて、エルデュアが怒りを向けるよりも早く、リィがすがりついてきた。そして、その体が氷のように冷たかった。思わず、かき抱いていた。
「ご無事で、なによりです」
愁いを帯びた瞳で見上げられ、囁かれる。それだけで、あれほど荒れていた心が一瞬で凪いだ。冷たい両手を右手で包み込む。震えこそなかったが、まるで極寒の最中を出歩いてきたようだった。だが、まだ冬の訪れすら、この時期にはない。
「なにが、あったのです?」
「……エルデュア様を脅かす残党どもを、野放しになんてできません」
「すべて捕えたのでは?」
「……貴族どもも、馬鹿ではありませんので」
「それなりに手を打っていたのですね」
過度の魔力切れを起こしたのだと、それで分かった。力の反動は、過ぎれば命を脅かす。異常な体温の低下はその表れ。おそらくは一晩中駆け回り、報告書もまとめたのだろう。体力も削られたはずだ。はた目には、ほとんど変わりなくとも。
「それで、許しもなく勝手に出て行ったのですか……」
「申し訳ありません」
しゅん、とリィが項垂れた。つくづく王神派どもには邪魔をされる。前から目の上のたんこぶだったが、取れた後でさえ面倒を起こすとは。
「……でも、エルデュア様に万が一のことがあったらと考えると、居ても立ってもいられなくて――お一人にしたくなかったのですが」
「……」
はあ、とため息が漏れた。こういうのも、役得というのだろうか。リィ自身は全くの無自覚だが。
「リィ。もっときちんと魔力を調節しなければ。いちいち体調を崩すなど、言語道断です」
「はい」
「それでも闇の虎ですか。名ばかりが大きくては実が伴わないことほど、愚かなことはありません」
「はい」
「大体、私のためというなら、きちんと私のもとに戻ってくるのが筋でしょう」
「はい」
「ならば、これ以後仕事が終わり次第私の家に来るように。官舎は引き払いなさい」
「はぃ……はい?」
流れで頷きそうになって、リィははっとして体を起こした。そこをまた、エルデュアに引き寄せられる。
「なにか?」
「えと……」
「部屋はありますし、広さもあるでしょう。稼ぎは十分ですので、細かい金銭を要求するつもりもありません。何か、問題でも?」
「もんだい……」
思わず繰り返した。なんだろう。いろいろある気がするが、命令されればリィとしてはあまり逆らえない。そして……リィ自身に、あまり逆らう気がない。
問題があるとすれば。
「お城が、遠くなりますね」
「……馬車でも出しましょうか?」
それはあまり意味がない。なにしろ、馬車よりもリィの方が早いから。その時間を埋めるために、力を使う回数が増えそうなのが、面倒なだけだ。
考え込んだリィに対して、エルデュアはため息を吐いた。
「まだまだ先が長そうですね」
「……? なにがですか」
「独り言ですよ。それで、戻ってくるんでしょうね」
念押しすると、リィは困った顔になって目を背けた。無理矢理、手のひらを頬にあてて振り向かせる。鼻の先が付きそうな距離でも、これが「普通」なのだとエルデュアは言った。そのせいか、リィが昨日ほど混乱した様子はない。少々、いや、かなりつまらない。
するり、と半分解けていたリボンに手をかけた。
恐ろしく不埒な真似をしている自覚はあった。それも、神聖なる執務室で。本来ここは、国の執政の頂点だ。政とは、ある意味対極のことをしている。
制止の声は、ない。
白い胸元の、中央。リィからも、服をはだければ見える位置に。
しるしを、落とす。
「これが消える前に、私のもとへ戻ってきなさい」
やや金色に輝く、双眸と目が合った。
「……最善を尽くします」
触れたのは額だった。それから頬がこすり付けられる。髪に手を入れ、細い毛の感触を楽しんだ。じゃれ合う猫のように、相手を探りながら、自分を見せながら。
カツコツと足音がすぐ近くに聞こえるまで楽しんだ。
――ハルエスが扉を開けた時、そこにいたのは椅子にもたれ掛って天井を向いたエルデュアただ一人。
そこにもう一人の子猫が紛れ込んでいた痕跡は、もうどこにもなかった。