猫と子猫の過ぐる日々5
諸々があったおかげで、体よくハルエスに仕事を押し付けたエルデュアは早々に自宅へと戻った。今更ながら、時間ばかりが立っているのに、リィのことをほとんど知らないことに気付いたせいだ。結婚のことをハルエスに指摘されたせいでもある。不安なのか、焦っているのか。
とにかく、早く顔が見たかった。
それなのに、玄関で出迎えたラムゼタに問うても、侍女や料理長に尋ねても、一向にリィがどこにいるのかが分からなかった。部屋にいないのは確かだ。出かける際には必ず断る律義さがあるので、外出もしていない。手伝いを申し出る使用人たちを断り、エルデュアは屋敷を歩き回った。
そして、ようやく……薄暗い庭の一角に、佇んでいたリィを発見した。低い生垣の前で、そこは丁度、リィに与えた部屋の真下に当たった。
呼ぶよりも早く、リィが振り返った。その姿に、とっさに息をのんだ。
輝く美しい白銀の髪と、宝石と見まごうばかりの金の双眸。抑えてもあふれる魔力は、まるでリィを浮かび上がらせるように纏っていた。
しばし、無言のまま見つめ合った。
一歩を動いたのは、エルデュアだ。
距離を詰め、なぜか軍服姿のリィに上着をかけた。
「風邪をひきますよ、リィ・ウォン。一体いつからここにいたのですか?」
リィが首をかしげる。相変わらず、時間という概念が薄い。仕事でも好きな時に行き好きな時に帰ってくるリィに、さすがにまずいと思って鐘の音の意味と数え方を教え、今ではそれに従って仕事するように言いつけた。だが休みになると、全く気にしなくなってしまうようだ。
「ラムゼタたちは昼過ぎからあなたを見てないと……庭で、一体何をしていたのです?」
「……」
リィは答えなかった。鋭すぎる金の目が、だたまっすぐにエルデュアに向けられているだけだ。
言えないのか、言わないのか。
身じろぎさえ、しない――人形の、様に。
「……」
「……」
手を、伸ばした。
触れると、その肩は存外細い。腕を回した身体も、ひどく華奢だ。目を合わせたまま、一番近くまで抱き寄せた。
そうしてやりたいと、強く思ったから。
額を合わせても、丸い瞳は動かない。エルデュアを映しているのに、心では違う何かを見ている。そう確信して、より一層強く抱きしめた。髪に手を入れて、なんども梳いた。頭頂部に口づけながら、軽くリィの額を肩にあてた。
そうやって、ぬくもりを与え、また貰いながら、どれほど経ったか。
リィ・ウォンが身じろいだ。
頭を振り、細い腕がエルデュアの背に回り、そして肩を軽く押した。逆らわずに後退すると、膝の後ろに何かが当たった。驚いて振り返ると、後ろには自室においてある布張りの椅子があった……だけではなかった。
そこは、エルデュアの私室だった。
相変わらず、予想がつかないことしてくれていた。
部屋はエルデュアが帰宅した時点で居心地良く整えられ、茶器や菓子がある程度整えられている。そのひとつをリィは手に取った。慣れた手つきで準備をしていく姿からは、もうどこにも変調も不調も垣間見えない。
ただし。
「宰相様から、ウォン家についてお聞きになられましたか」
同じ声、のはずなのに、ひどく落ち着いていて、そして老成して聞こえた。頼りなげなところは、どこにもない。
――美しい虎は、優雅に茶菓をエルデュアに差し出した。受け取ると、ひざ掛けを手渡される。ラムゼタのように、無駄のない動きだった。そのまま誘導され、椅子に腰を下ろした。
いかがですか、と目で問われて、ええ、と首肯した。
「聞きました。少々……確執があるのだと」
「仕方のないことです。弱き者は、強き者を時に恐れます。加えて、以前ウォン家の傍流に当たる子息を、捕らえた過去がありますから」
「それは逆恨みでしょう。罪を犯せば、罰が下るのは当然です」
「ええ。ですが、当主はいらぬことで気を煩わせたくはないのでしょう」
切り捨てたままに、さらに遠ざける。それを憂いている様子はなかった。
「あなたは……それで良いと?」
「名と教育を施して頂いた恩は確かにあります。しかしそれはテレミス様に対してのみ。生憎と、ウォン家に尽くす気はありません。そこも、気にくわないのですよ」
曲がらない、強固な意志だった。淡々として他を寄せ付けぬ、気高い虎。静かな表情と所作は、人の目を惹きつけもするが、同時に決して奥をのぞかせない。
あの鵲と呼ばれた男を彷彿とさせるほど。
ふう、と息を吐く。
「あなたが決めたことであれば、特に構いませんが……」
「私よりも、エルデュア様に、問題はないのですか?」
唐突に、話の矛先が強引にエルデュアに向けられた。そんな気がして、珍しく意味を測りかねて問い返した。
「わたし?」
「ええ。ウォン家はレアン国の主要な一角を占める一族です。副宰相であられるあなたとの不和は、政治的な問題にもなりかねません。あなたはともかく、現当主が相手であるならば特に」
「それは」
「特に、今は重要な時期でしょう。政と軍、共に平穏とは言い難い。荒れた水面に、さらに余計な石を投じたくないはずです」
「……」
理路整然とした言葉の羅列に、とっさに反論が出来なかった。現在の問題を正確に把握し、浮き彫りにする。隙のない論理が、まさかリィの口から聞かされるとは、まったく想像さえしたこともなかった。
否、考えることは、あえて避けてきた部分だ。
出来ないはずがないのに。
それが、ひどく苦い。
「必要であれば」
「リィ・ウォン。それ以上は結構です」
エルデュアの心中を推し量ることなく、先をただ続けた虎を、素早く遮った。が、リィは首を振った。
「いいえ。言わせて下さい。必要であれば、遠ざけていただきたい」
やめてくれ、と叫べれば、どんなにかよかったか。だがエルデュアの冷徹な部分が、それを許さない。それもまた、正しいと理性が主張する。
振り切って……リィを否定する。
「そんな事態を、憂慮する必要はありません」
「エルデュア様。私が煩うのでありません。あなたを悩ませたくないのです」
深呼吸する。リィは……闇の虎は冷静だった。それに、エルデュアが揺れる。リィは合理性を、エルデュアは感情を。それぞれ前面に出しているのだ。普段であれば、ありえない。エルデュアが、己にそれを許していない。
だが今は。この、リィ・ウォンにだけは。
そんな理由で、離れていって欲しくない。それだけは、どうあっても……許し難かった。
もう一度、空気を肺に満たした。声が震えるのを抑える。
「杞憂です。リィ。あなたの心遣いは全く……」
「そうかも知れません。ですが、先は見えません」
説得が、たった一言であっけなくひっくり返される。言葉が通らない。無意識のうちに立ち上がる。同じように椅子に座っていたリィを、高い位置から見下ろした。
理性ではない。どこかが凍りついた感情のまま、氷刃の瞳が、斬りつける鋭さで、虎に向けられる。
「……では、万が一私がそう命じれば、あなたはどうすると?」
「少なくとも、目の前に現れることはしません」
「少なくとも?」
「ええ。場合によっては、リィ・ウォンを消してご覧にいれます」
簡単に、それは単なる事実として、リィはエルデュアにただ報告した。