猫と子猫の過ぐる日々3
「どっひゃあ」が、初めて出会った時の第一声。
男が、月を背にしてそう、ずいぶんと大げさに驚いてみせた。
興味などまるでなかったが、新たに加わった敵かと、リィは振り返ったのだ。
逆光の中で、窓枠に手をかけたシルエットは男。まるで、そこが入口のようにごく普通に現れ、きょろきょろと落ち着きなく見回す一人と、そのすぐ隣にはすでに部屋の中で立っていたのが一人。
全く気付けなかったことに、静かに警戒心のレベルを上げて、じっとリィは動きをうかがっていた。
顔は暗い影が落ちていたが、リィの方を向いて歯を出して笑ったのが分かった。
「すげえな、おい。これ、お前がやったの?」
まるで可愛いいたずらを仕出かした時のように、首をかしげて男が問う。だがリィのやったことは……足元に転がる、大勢の人間が証明していた。
黙ったまま、リィは答えない。だが、男は周囲を見回してから、無言を肯定と受け取ったようだ。
リィにとって、首都の下町や貧民街をうろつくことなど、なにも問題がなかった。たいていは目を付けられることのないよう、気配を殺していればよかった。食べ物も衣服も、元より頓着がない。自分の魔力を持て余して、膝を抱え続けて抑えつけなければならなかった幼い頃とは違う。生き方は――金の稼ぎ方は、そのうち覚えるだろうと踏んでいた。それが、どんな方法であれ。
リィは時間を数えない。日にちを覚えることもない。だから、どれほどの時を、そうやって過ごしたのか、よく覚えていなかった。
ただ予定外だったのは、とある闇夜の日に、たまたま一晩の寝場所と定めた場所が、どうやら首都の裏町を取り仕切る組織の、溜まり場だったことだ。誰もいないところにもぐりこんだはずが、夜も更けてから続々と人が――それも人相の良くない輩ばかり――集まりだし、やがて酒と喧騒が飛び交った。眠ることなど皆目できず、仕方なしに屋根裏に上がって成り行きを見ていた。
やがて、その場に見合わぬ、細い女と子供が引き出された。どうやら親子らしく、身を寄せ合って震えている。車座のようになった周囲の男の一人が、剣を手にして立ち上がった。
余興だ、と誰かが叫んだ。何をするつもりなのかも、想像がついた。
リィは、ただ見ていた。少しずつ男が近づくのも、なぶるように剣を見せつけ、けたけたと笑うのも。
振り上げられた刃物が、確実に親子を傷つける距離になっても。
やめてっ、と母親が叫んだ、その時まで。
高い声だった。恐怖と懇願が入り混じって、細く、甲高く響いた――その、音の余韻が消えるよりも早く。
振り上げられていた剣は、根元から折れて地に落ちた。
がいん、と鈍い音を立ててただのゴミとなった得物を、その場にいた全員が、怪訝そうに注視した。
その理由を周囲が悟るよりも、リィが動く方が速かった。
出入り口は、すでに確認してあった。それらすべてに、固定の魔法をかけて、袋の鼠にした。灯りは、次の瞬間にはすべてが消えていた。
闇に、落ちる。
だがリィの目は、変わらぬまま視界を明瞭に保っていた。
異常に即座に反応した、その人間をまずは仕留める。殺戮は時間と気力、体力が必要だ。ゆえに殺さずに行動を不能にした。
戸惑う者は、酒の酔いかと思われるほどの方法で昏倒させる。
場数を踏んだならず者どもも、酒の酔いと気の緩みきった宴会の最中に襲撃され、ひとたまりもなかった。ほとんどの者が、身動きもとれぬまま、闇の中に意識を鎮めた。そうして最後に、怯えて縮こまったまま、体を固くしていた親子を、魔術で眠らせた。
すべてが終わって、立ち尽くすリィの目の前に、その二人組は現れた。
闇の中で同じように自由に動き回れる人間を初めて見た。なにをするでなく、歩き回っているだけかとリィは注意深く観察しながら考えたが、それは的が外れた。彼らは……確認していたのだ。
「全員、いますね」
「へえ。そりゃあ……大収穫だな。すげえ」
「どうします?」
「どうって……いいじゃん別に。楽できてラッキーぐらいに思っとけば。応援呼べよ。根こそぎ連れてけ」
横柄な口調に、相手はやや苦笑したが、結局何も言わずに従ったようだった。
「強い奴、寄越せっていえよ鵲。死人じゃないからな」
「わかっていますよ、闇の王」
言葉と同時に、鵲の気配が消える。残されたのは、王とリィの二人。なにがおかしいのか、ニヤニヤと笑っている。
「いったい何がどうなっているか……知りたい?」
「全然」
間髪入れずにリィは断言する。ちょっと目を丸くしたが、またしても口角を笑みの形にしながら、あっそう、と王は言った。
「じゃ、俺は勝手にしゃべるから。こいつらはねー。首都に巣食った闇の街の幹部どもだ。残虐無比、前々から住民や貴族たちを悩ませてた。徒党を組んだ賢い悪党だから、ちょっとやそっとの対策じゃあ、まるで歯が立たないし改善しない。そこで、いい加減しびれを切らした王様が……」
嬉しそうに話し出した男。中途半端なところで切り、それでと促されるのを待っている。リィは無視して立ち去りたかった。だがそれが、許されない。へらへらとした顔、力の抜けた身体なのに、奥底にあるリィの本能が訴える。こいつは危険だ、と。
「『いっそ全員消えちまえ!』と叫んだんだな」
ふうん、と何の関心もない声が、嫌々相槌をうった。諦めたリィは、その場に胡坐をかいて逃げるのをやめたのだ。ようやく聞き手となったリィに、王が心底誇らしげに胸を張った。
「そこで、俺の登場だ」
子供のように、えっへん、と威張る。どう見ても、いい大人なのに、だ。二十代後半、または三十代前半。こんな変な人間を、リィは今まで見たことがなかった。
「俺には力がある。国王の悩みは、複雑だが、俺にしてみれば単純になる。消せっていうなら、消してやろうってことだ。どんな武器も、魔術も、俺の力は防げないから、大抵のことは簡単に済む」
挑発のような口調だった。背後から差していた月の光が、やけに鋭くその両眼だけを輝かせた。
睨み合う。
「……」
身構えたリィから、目は逸らされなかった。ただ王がにかっと笑い崩れ、「まあ今回は出番ないけど」と嬉しそうに言っただけ。首をかしげながら、また表情を変えた。
「お前は俺を恐れないね」
どこか、不思議そうに問いかけられる。
「怖くはない」
「そう? 俺がどんな力持っていても?」
「……」
丸い目が、始めてまともに王に向かった。興味と好奇心がわずかにうずいたのだ。敏く察して、王は先を続けようとした。
しかし。
二人の間に、影が割り込んだ。帰還した、鵲だ。唐突に現れた姿に対して驚く様子もなく、王は片手をあげてみせた。対する鵲は、やや難しい顔をしていた。
「王よ、軽々しい振る舞いはお控えください」
諌め、たしなめる口調だった。が、諫言された方は、軽く肩をすくめただけだ。
「固いことを言うな」
「なりません。素性も知らぬ力ある者に、迂闊な行動は……」
「別にイイだろ。お互い様だし、俺たちほど怪しい奴もいないさ」
呆れたため息が鵲の口から洩れたが、それ以上言いつのることはしなかった。身を引いて、王の側に控えた。
リィの金目と、光にさらされてなお、底の見えない暗い色をした双眸がぶつかった。たっぷりと間を置いてから、王が堂々と告げた。
「俺の力は――人を、一瞬で、死なせる力だ。痛みも苦痛もなく、眠るように、殺せる」
「……」
なんだ、とリィは拍子抜けした。心底、つまらない。期待した反応と違うのか、あれっと相手は首をかしげた。
「感想とか、ナシ?」
「役に立たん力だな」
バッサリと切り捨てると、ずいぶんと大げさに驚かれた。
「役に立たない?」
「そうだ。どうせいつかは誰もが死ぬ。わざわざ力を使うまでもないことだ」
「そりゃまた……むちゃくちゃだ。俺は今すぐ、アンタを殺せるけど?」
「理由なく、私を殺すのか?」
「死んで欲しければね。誰だってそうだろ? 都合のいい時に、都合のいい奴に死んでもらいたいって思ってんだろ」
「手をかけずとも、時をかければ自然の摂理で消えるだろう」
「だーかーら、それじゃいい時を選べないだろ?」
「だったら、死んで欲しい奴に対して、いたら困る相手を生き返らせるぐらいのことをしてみせろ。それなら驚いてやれる」
「……」
完全な上から目線。
黙り込んだ王の体が、かすかに震えだした。怒っているのでは、ない……笑っていた。鵲もまた、思わぬ言葉に困惑を隠せない。
あはははは、と声を上げて笑った。
「いいな、お前。初めて言われたよ。役に立たないって、役に立たない……」
なにがおかしかったか、闇の王が繰り返す。合間に、ありえねーと笑いながら言った。
妙な奴だと思った。笑いこける王も、どうやら同じことを考えているらしい。リィを、変な奴だと指差したから。
「気に入った」
ひとしきり独り言と爆笑をしてから、王はようやくまともにしゃべった。
「気に入ったよ、お前。闇になれ。迎えてやる」
「王っ」
「いいじゃないか鵲。もう一人ぐらい、狼みたいな捕縛要員がいてもいいはずだろ」
「ですが。メンバーを増やすときは慎重にと先代からあれほど」
「言われた言われた。大丈夫だって。こいつなら」
向いているよ。という断言は、有無を言わさぬ力があった。やや苦い表情で、鵲は反論しようとするが、結局なにもせずに口を閉じた。どうやら、この王に対して、鵲は「弱い」らしい、とリィは推察した。甘い、とも取れる。
手招かれる。
「そうだなあ。さしずめ、やり方からするに、虎かな」
先ほどとは違い、さらに深く見抜くように、じろじろと無遠慮な視線が投げられた。
「雌伏を経て、一気呵成にケリをつける。気配を殺して悟らせない。獰猛な牙を隠し持った――闇の虎だ」
大きく広げた掌を、ぐい、と闇の王は伸ばした。
月光にさらされた、白銀をまとう白虎に向かって。
リィは、無言のままに立ち上がった。




