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猫と子猫の過ぐる日々2

 控えめにドアがノックされて、エルデュアがリィから身を離す。許可を受けて扉を開けたのは、執事であるラムゼタだった。

「旦那様、」

「ああ。よいです。分かりました」

 有能な副宰相は、ほとんど動きのない執事の表情筋も、華麗に読み取って見せる。

「ご出仕のお時間ですか?」

「ええまあ。今日は出張ですよ。宰相閣下の……まあ、子守でしょうね」

「子守?」

「ええ。余計な事をしでかさないように、お目付け役です。ラムゼタが来たのですから、リン公爵家の馬車が……」

「俺んちの馬車がなんだって?」

「なっ」

「公爵閣下!?」

 いきなり単身で現れたハルエスに、ラムゼタがぎょっとして身を引く。だがすぐに後ろの状況を思い出し、なんとか部屋に入れまいと、立ちはだかるが……全く気にせず、ぐいぐいとハルエスが中に入ろうとする。

「ちょっと聞こえたけど、子守ってなんだよ、子守って。俺のが年上で立場も上だろ」

「そういうところが子守だってんですよ。ここは寝室ですよ」

「長い付き合いのくせに、今更気にするのかっ」

「こ、公爵様っ」

 困ります、と執事の手が体を押さえるも、あまり強気に出られずついにハルエスがずんずん室内へ侵入する。遮光する分厚いカーテンのある室内はほの暗いが……。

「大体お前な――」

 文句が出るはずだった口は、ぱかっと開いたきり固まってしまった。ハルエスに向けられた視線は、二対あった。一つは怒りが湛えられた厳しく刺す視線。もう一つは……どことなく頼りない、焦点の合っていない視線。怒っているのは、いつも見慣れたエルデュアで、ぼんやりしているのは、ハルエスの知らない、どう見ても……少女だ。

 しかも、リィの服装は適当に着崩した軍服が、さらに寝相で乱れていて……有態に言うなら、あちこちがはだけて、きわどい辺りまで見えてしまっている。

すぐにエルデュアが、立ちはだかったが、まあ状況が状況なだけに。

「おお……」

 漏れた声は、あまり上品とはいいがたかった。ぎり、とエルデュアのこめかみに青筋が立った。ずんずんと向かってくる怒り心頭の副宰相の剣幕に押されて、ハルエスは顔色を変えて後退した。が、すぐ壁に背がついてしまう。

 その胸倉をエルデュアが問答無用で掴み、無表情ながら動揺の極みにいる執事に向かって突き付けた。

「捨てて来い!」

 そんな無茶なと、とても常識的な事を思ったのは、残念ながらラムゼタだけだった。本気だった。エルデュアは一片の常識も情けもなく、全力で叫んで命令していた。さすがにハルエスが抵抗を見せた。

「ちょお待て! いくらなんでもそりゃないだろ! 確かに勝手に入ってきたのは……」

「その点を今、俺が気にしてると思ってるのか、あ?」

「いやあの」

 完全にいつもの態度と敬語を取っ払ったエルデュアの、恐ろしさと容赦のなさを付き合いの長さで知っているだけに、ハルエスの言葉が消える。

 無論、エルデュアは非常識にも勝手に寝室に侵入してきた件にも、腹を立てている。だが、昔から垣根なく付き合った以上、多少は許してしまえる部分もあった。

 が、今回は。

 土足で踏みにじられたのは、リィである。

 ここはリィの居室で、無防備に寝ていたのもリィである。暴挙を防げなかった己に対する憤懣も込めて、ことさら強くハルエスに当たっていた。 

 その時。

 ぐい、とエルデュアの手からハルエスの襟首がもぎ取られた。何事かと後ろを振り向くと、リィが宰相の後ろ襟を右手に掴んでいた。そして。

「うおぅっ!」

 奇声と悲鳴の入り混じった声が……宙に、浮いた。

 否、正確には。

「どあああぁあ!」

 カーテンと窓が大きく開いた、出口とも言えるそこに――

 文字通り、投げ捨てられた。

 ざざざ、ばきぐしゃあ、と変な音がして、悲鳴が途切れる。

 一瞬の空白があり……

「リン公爵様!」

 青を通り越して白く血相を変えたラムゼタが、開いた窓に駆け寄る。下を確認し、すぐに身を翻して出て行った。

 残されたのは、立ち尽くしたままのエルデュアと、飄々と投げ飛ばした方を見たままのリィだけ。

 しばらくしてから、エルデュアはゆっくりとした歩調で窓枠に寄った。覗き込んだその先には、見事に整えられた灌木の茂みに嵌り込む、仰向いたハルエスがいた。

 なにが起こったのか、一番わからないのは、被害に遭ったハルエスだろう。

 とは思うのだが。

 はっ、と乾いた音がのどから洩れる。やがて肩が震えだし……

「は、は……」

 ――爆笑に変わった。

「ははは、あははっ」

 大きな感情を滅多に表に出さないエルデュアが、声をあげて笑う。珍しいものだと、リィが少し近づくのを警戒するほど。

「ははは、腹、腹が痛いっ……! あり得ない、二階だというのに、ここはっ。投げ、投げるって……」

 くく、と抑えきれない笑い声が、どれほど続いたか。

 口元を手で覆い、涙まで浮かべてからようやく気の済んだエルデュアが、なにやら隅に行ってしまったリィを手招く。警戒の足取りで、そろそろと近づいてきたリィを、エルデュアは腰をさらってしっかりと抱いた。

 ハルエスを外に導いた窓枠に、軽く腰を掛けながら。

「やらかしましたね、リィ・ウォン」

 声は、普段よりもずっとやわらかい。先ほどとは違った、美しい笑みまで浮かべて、エルデュアはリィと額を合わせた。反対に、リィは目をそらして表情を曇らせる。

「あの、まずかったですか」

「……でも、あなたはしっかり手加減……というか、それなりに怪我をさせない方法を取ったんでしょう?」

「……」

 沈黙は肯定だった。それ以前に一国の宰相をぶん投げていいのか、と訊いてはいけない。そもそも、捨てて来いと言ったのは、補佐すべき副宰相なのだから。

 少し気落ちして体を丸めているリィの頭に、顎を乗せる。いやはや、予想がつかない、とんでもないビックリ箱だった。

「では、問題ありません。ハルエスも、張り手の代わりをもらったとでも思えばいいんですよ」

「そう、ですか?」

「ええ」

 極上の微笑みで、エルデュアは保証する。そんな馬鹿な、とハルエスがいたら突っ込んだだろうが、生憎とここには二人しかいなかった。

 慰めるように、しばらくリィの肩や背中をゆっくりと撫でてから、エルデュアはすっと立ち上がった。

「……エルデュア様?」

「名残惜しいですが、今後の予定を変更しなければなりません。あまり気にせず、好きに一日を過ごしなさい」

「はい」

 端的な、短い返答を聞いた後、エルデュアはリィの部屋を後にした。

 じっと立ち去る方向を、リィは見ていた。しばらくその足音を聞き、見えなくなった姿が、完全に離れて行ってから、少々やりすぎたと反省しつつ、窓の下を覗き込む。

 あれこれと準備しているのか、まだ誰も救助に来ていない。ハルエスは、落とされた格好のまま、繁みの上に倒れている。

 その顔が。にやりと口角を上げて歪んだのを、リィの――虎の目は、見逃さなかった。

 足を、下ろす。窓枠の外、足場もなにもないその場所から。

 力むことなく、飛ぶこともなく。自然な動作でリィは降りた。着地に膝を曲げることさえ、しなかった。ハルエスの真横、繁みと建物の壁の間、人ひとりが丁度通れるだけのスペースに立つ。

 器用に寝転がっていた灌木から、葉っぱや小枝を落としながら、男は起き上がった。

「ひっさしぶりだなぁ、虎」

 はあ、とリィ・ウォン――闇の虎は息を吐いた。眉間には自然としわがよる。過去の夢を見たのは、この再会を予期したのか。そんなのは偶然の一致だと分かっていても、あまりいい気分ではない。

「心配すんなよ。お前のおかげで、公爵様は今、眠ってっから」

「声が大きい。あまりふざけるな、闇の王」

「相変わらず、全然愛想ないな」

 体も、声もすべて変わっていない。ハルエス・リンの物。だが一つだけ、決定的に違うのは。

 その身にまとう、魔力。先ほどまでは微塵も感じさせなかった、強大で……禍々しいとも呼べる力を、虎は視ていた。

 闇の王、と虎は呼んだ。

 ただし、頂点に立つ者という意味はない。闇に、組織もリーダーも存在しない。

 王家の血筋から生まれる、ある力を持つ闇。それをただ、闇の王と呼称するだけ。

 本来であれば、恐れられる己の力など、容易く他人にしゃべることではない。ましてや、国を束ねる血筋に連なるならば。

 だがこの男は、初対面のリィにあっさりと暴露した。

 それがおそらく、すべてを変えた、曲がり角だった。





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