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猫と子猫の過ぐる日々

「なんですか、コレは」

「はあ……」

 リィ・ウォンが寝起きでぼんやりしているところに、怜悧なひと言と一緒にずい、と目の前に差し出されたのは、近すぎて像がぼやけるが、なにやら毛の塊だ。それはしばらくパタパタと手足を無意味に動かし、さらにみゃあ、とか細く鳴いた。

 本日は非番だ。さらにここはリィの私室。最近ようやく安心して眠れるようになり、元来暇さえあれば朝寝夜寝昼寝にいそしむリィは、今日の日を寝て過ごすのになんの迷いもなかった。

 しかしながら、屋敷の主たるエルデュアが、朝も早くからリィの部屋に訪れた。彼が休みだとは聞いていない。第一、制服をきちんと着こんでいるので、これから出仕なのは間違いなかった。

 起こされるまでもなく、リィの意識は部屋の扉が開いた時点で浮上した。だが相手がエルデュアだと確認すると、特に問題なくまた眠りに沈もうとし……彼の一言で目を開けざるを得なくなった。

 ぼうっとした視界に映る色は、白とも黒ともつかない。エルデュアの長い指に首の根を掴まれていたそれは……リィが頭を振って眠気を少し追い払うとともに、ふっと霞のごとく消え失せた。

「は……?」

 驚いたのはリィではない。確かに指の先にいたものがなくなった、エルデュアの方だ。なにもない空間を凝視していた目が、そのままリィに向けられる。

「結界です」

「けっかい?」

 寝起きで回すのが億劫な口を、どうにか開いてリィは説明した。もう少し、タイミングが早ければ頃よく目覚めたのだろうが、いささか寝すぎたせいでなかなか気分がすっきりしなかった。

「寝ている間、勝手に作り出す簡易なものです。生き物になるのは、その方が見られた場合に人を遠ざけるか、惹き付けるからだと。私自身が望んで作ったというより、無意識下にある警戒心が作り出すのだと、以前指摘されました」

「そんな無意識は初めて知りました。いつも同じ形ですか?」

「いいえ」

「いいえ?」

 なにを驚いたのか、エルデュアは意外そうだった。

「ええ。どうやら時と場所によって全然違う形を作るみたいですね。軍に入りたての頃は、大きな虎だったらしいですよ。練習場の隅で昼寝していたら、えらい騒ぎになって大変でした。城内に魔物が入り込んだって。エルデュア様、知りませんか?」

「……あった、かもしれません」

 城はいつだって事件だらけだ。一つずつ覚えてなどいられないが……かすかにエルデュアの記憶を刺激するものがある。とすれば、当時はかなり大事件だったはずだ。

「まあ、それで人目を避けて、昼寝するようになったんですけど」

「……そこは寝るのをやめるところでは?」

 真っ当な事を言ったつもりだが、リィの方はなぜです? と首をかしげた。

「昼休みですよ。好きに使っていいんでしょう?」

 眠いんですよ、とうつらうつらされながら主張されると、とても説得力がある。

「いえ。まあ……そうですね」

 ふぁあ、とリィがあくびをする。こと睡眠に関して、なにを言っても無駄だな、とエルデュアは悟った。まったく眠らない日がひと月続いても平然としていたと聞く一方で、逆に休みの日などは食事もせずにひたすら眠っていることもある。昨晩は帰宅後そのまま寝台に直行したのか、よれよれの軍服姿だ。布団も掛けずに平然と眠っていたその横に見覚えのある生き物がみょこみょこと動いていて、顔だけを見に来たはずのエルデュアは、ついつい問いただしてしまった。

 そうやって、ただ無防備に体を丸めていると……どう見ても、ただの子猫――もとい、華奢で、まだ女性になりかかっただけの少女に見える。

 とても、闇の虎には、見えない。

 無意識に呟いていたのか、つぶっていた瞼を開けて、リィが目でなにか、と問うてくる。

 上目遣いで。

 その仕草に、さっきの疑問は早々にどうでもよくなった。

「リィ・ウォン」

「はい」

「できれば早めに、大人になって下さい」

「はあ」

 ゆるく抱きしめると、まだ眠いのかリィの頭はこてん、とエルデュアの肩に落ちた。



 『どうして、虎なんでしょうか……』

 声にならなかったエルデュアの呟きが、聞こえなかったわけではない。リィの耳は、ひどく感度がいいから。

 そのせいか、目をつぶれば過去の断片が浮かんだ。振り払うように重い瞼を開いても、ぼうっとした視界と、とりとめのない思考は、簡単に過去へ飛ぶ。

 その始まりは、いつも決まっている。

 真っ暗な、なにもない……なにも見えない、闇。ただ、優れた聴覚が、ノイズのような雨音と――その向こうからかすかに聞こえるか細い声を、拾い上げていた。

 ぃ、……リィ、と。

 繰り返し、繰り返し。ただ、途切れかかりながら、何度も。

 弱々しい女の声。

 だからそれが、名前だと思った。リィ、と。ずっとずっと自分に向かって囁かれた言葉だから。

 その「音」が名だと認識しているから、ほかの呼ばれ方をされても、反応は鈍る。幼いころは、鋭すぎる五感をどうにも制御できず、特に聴覚は常になにか音を拾っていて、話しかけられてもなかなかすぐに答えるのが難しいほどだった。今は慣れと調整が効くようになったが、それでも他の呼び方をされるのは苦手だった。

 そうやって、ただ暗闇の声を聞くだけだったリィを変えたのは、当時のウォン家当主、テレミス・ウォンだった。彼はなぜか目に留まった路地裏の隅にうずくまる子供を、憐れんで屋敷に連れ帰った。ある程度世話をすれば、しかるべき施設か、里親を探すはずだったが。

 引き取って、わずか三日後の晩。寝静まっていた屋敷を、物の割れる派手な音が揺るがした。

 何事かとテレミス含め、家人が総動員で家中の明かりをつけた。

 事が起こったのは、玄関の大広間。

 無表情に、落ちた巨大な照明器具に乗っていたのは、引き取った小さな子供。

 その前には、腰の抜けて立てぬ、ならず者の男が数人。そして、開け放たれた扉の向こうには、さらに十人以上の無頼漢どもが、死屍累々の有り様で倒れていた。

 おそらくは下働きに紛れ込み、機会をうかがっていた盗賊どもが盗みを決行する、はずだった。

 灯りのもとに晒されながら、なおも彼らの目は、小さな子供にくぎ付けだった。

 なにが起こったのか。どうなっているのか。それが分からぬままに、倒れ伏した。

「ばっ――化け物!」

 己の所業も忘れ、誰かが叫んだ。

 ウォン家の、すべての人間の目の前で。

 テレミスは、すぐに事情を察して、事態を重く鑑みた。そして事件をきっかけに、養子としてリィと呼ぶ子供を引き取った。

 教養と、知識。そして魔術と武術。実の子同様、またそれ以上の厳しさをもって、リィにそれらを学ばせた。軍部の魔術師として活躍した、テレミス直々の指導の下で。

 数年で……たった数年で、リィはテレミスを凌駕した。

 力及ばなくなったかつて弟子だったリィを目の前にして、テレミスは驚愕と……憐れみに顔を歪めた。衰えたとはいえ、ウォン家屈指の実力者をいとも容易く敗北させた。その身は、まだあまりにも幼い。その時になってようやく、テレミスはなぜリィに目を止めたのかを理解した。

 美しく、魔力をまとう姿が。

 発動される前であっても、隠しきれぬほどの力が。

 流れを感じ取る事しかできないテレミスであっても、無意識に読み取れるほどであったのだと。

 強すぎる力は、時に人を引き付け、時に……人に忌避される。

 すでに、当主であるテレミス以外、リィに関わろうとする者はいなかった。

 それは、テレミスが病によってあっけなくこの世を去り、当主が長男に受け継がれると同時に、はっきりとした形として現れた。

 リィは、名を与えられた一家の屋敷を、早々に追い出されたのだ。


 

 


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