微睡む虎 護る狼
闇が揺れたのは、月はとうに沈んだ、真夜中も過ぎたころ。
わずかに息をのんだ気配がして、すぐに怪訝そうな声をかけられた。
「エルデュア様?」
扉の開いた音はしなかった。窓がきしむこともない。忽然と姿を現すことに、既に抵抗がなかった。灯りを点さない部屋の中では、エルデュアの視界は黒のままだ。視界はまるで役に立たない。その分、聴覚がかすかな足音を捕えていた。
腰かけていた寝台に、リィは何のためらいもなく近づいてきた。腕を伸ばせば、そっと手を取られる。何度も繰り返してきたように、軽く引いて、腕の中に閉じ込めた。そのまま、整えられた敷布の上に倒れ込む。抵抗はない。
「エルデュア様、どうしてここに?」
リィの疑問は当然だった。ここは、リィに与えた私室なのだ。良家の子女が相手なら、非常識な時間に非常識な形で待機していたエルデュアなど、叩き出される。ただし、リィ・ウォンは家柄はともかく、その点に気付く人間ではなかった。
とはいえ、エルデュアは基本、常識を破るような性格ではない。
貴族の慣習には疎くても、リィは感情を読み取ることには長けている。
だから、エルデュアが――憂えているのだと、すぐに悟った。
どんなに光が乏しくても、リィの目には薄氷の双眸がはっきりと映っていた。昼間にはあれほど鋭く、厳しかった輝きは失せている。
ゆるく腰を抱いていた腕が、力強くリィを抱き寄せた。額と鼻の先が触れるほどの距離。金の瞳は水面のように己を映す双眸にただ魅入っていたが、氷の瞳は黄金に映された自身を視ることは叶わない。
「エルデュア様?」
「まったく。忌々しいですね」
今日この時ほど、力があればと願ったことはない。様子の一変したエルデュアを、リィはまだ訝っていた。
「あの……もしや、鵲殿がなにか、」
「いいえ。そういう問題ではありません」
そう、あの闇が告げた言葉は、ただ自覚を促しただけだ。問題があるのは、彼ではない。
「申し訳ありませんエルデュア様。なにをすればいいですか? なにをしてはいけなかったのです?」 焦ったように、リィの手はエルデュアの背中を掴んだ。
「やはり、あの狐が悪いのですか」
「いいえ」
「ならば、戻りが遅れた為ですか」
「いいえ」
「……なにか、それでは、失敗を?」
「いいえっ」
否定が重なるたびに、リィが混乱し、困惑しているのが分かる。見えずとも、金の瞳はいつでも雄弁だった。
けれど、教えることも諭して道を示すこともできない。リィ自身が学ばなければ。
「どうして……怒りでなく、悲しんでいるのですか」
応えは、絞り出すような、声だった。
「……あなたがなにも知らないから、です」
「知らない?」
おうむ返しの問いかけに、エルデュアは瞳を閉じた。
感情を、知っているのに。
怒りの理由は分かっても、子猫は悲しむ理由がわからない。置いて行ったことを怒られることがあっても、悲しまれたことはない。寂しさや孤独を知っていても、それを悲しむことは知らないのだ。
だから、リィ・ウォンは怒る。とにかくすべてに対して、怒る。己の知る、ほとんどただ一つと言える、抗議の方法だから。
結末を知りながら、また無茶を繰り返す。そう、エルデュアには確信できる。
それが、あまりにも、危うくて。
ぐい、とさらに抱きしめる力を込める。ふ、とやや苦しげな息が、頬をかすめた。
けれど。どんなに強く腕にいだこうと……容易く消えてしまうと、エルデュアはすでに知っている。
無力でなければ、と夢想する。
倒れることもなく、リィ・ウォンの、または闇の虎の隣に立つほどの力があれば、と。
だがもしエルデュアが、軍人として武力を生業としていたら。
この小さな子猫は、決して寄り付こうとはしなかっただろう。
見せる顔は、虎か……はたまた、エルデュアの知らない、ウォン家としてのリィか。
距離は、簡単に縮まった。抱きしめることも、口づけることすら、リィはエルデュアに許して、それでも逃げるそぶりはなく。
だから、忘れそうになる。
言えないことも、伝えていないことも多いはずだ。おそらくは、お互いに。
細く柔らかい髪を、手の指ですく。色は、エルデュアの目には映らない。
「リィ……」
小さく呼べば、細い腕が背中に回った。小さな掌が、今はただ静かに震える体を包むように広げられている。
行ってくれるな、と懇願することは、容易いだろう。ここにいろと命じることも、リィは簡単に受け入れる、目に浮かぶほど確実な未来。
それでは、意味がない。
ゆえに、今、言えるのは。
「リィ・ウォン。今度から、出かける際はきちんと私に一言断りなさい。無断外泊は……少々心臓に悪いので」
「はい」
いつも通りの端的な返答の後に、少し、身じろぎをした。
「なにか?」
「あの、それだけですか。もっとその……お怒りだったのでは?」
「そうですね。確かに、その通りですが。先ほど良い返事をもらいましたから、結構です」
「ええと……ですが」
「珍しく歯切れが悪いですね、リィ・ウォン」
「そう、かもしれません。ただ……」
「ただ?」
「軍では、もめ事を起こすと、委細関わらず双方に厳罰が下りますから」
据わりが悪いんです、と子供のような口調に、エルデュアは久しぶりに笑みを浮かべた。
「なるほど」
「狐の処分は、相応に感じましたから」
「だから、罰が欲しい、と? それではあまり意味がありませんね」
「……」
むう、とリィが黙り込む。理を認めれば、それ以上はいくら居心地が悪くとも、正しいのはリィではない。そんな考えが伝わったのか、では、とエルデュアがリィを抱えなおした。
「反対の物を与えましょうか?」
「はんたいのもの?」
「ええ。あなたが私にしてほしいことを言いなさい」
「……」
何かがおかしい、と気付かないリィではない。ただ上手い反論が見つからなかったうえに、目の前にある氷の双眸が、滅多になく面白そうにリィの答えを促していた。
さりとて、何事につけても不満などあまり感じないリィは、エルデュアの問いに対する答えが思い浮かばない。
「……どうしました?」
さあ、とさらに催促される。これは確かに「罰」の代わりかも知れない、とリィは一瞬思った。
なんだろう、と半分回らない思考回路で、自分に問いかける。
ずっと気を張っていたせいか、そろそろ魔力が切れてかなり強い睡魔がリィのすぐ後ろにいた。
それをかぶりを振って追い払いながら、考えをめぐらす。
してほしいこと。希望――エルデュアにしてもらって、嬉しいこと……
「リィ?」
優しい声が、耳のすぐ近くでした。命じられたはずなのに、なぜかねだられているような声。
その声に、答えなくてはと思うのだが……眠かった。既に、体の方が限界だったのだから、当然だが。
「じゃあ、あの……」
「はい」
「…まえ、」
「はい?」
切れ切れに、リィはなんとか言葉を紡ぐ。
「名前、呼んで……くださ……」
「名前?」
「ちゃんと、呼ぶのも……呼ばれる、のも……初めて……だったか、ら」
それが、出会った時のやり取りを踏まえていると……気付いた時には。
すう、と息を吸い込んだきり、糸が切れたようにリィの頭が寝台に落ちて……健やかな寝息が聞こえるだけ。
夜が明けるには、まだ時間あり……視界はまだ、闇のまま。
それでも、いつになく穏やかにな気持ちで、エルデュアはリィを胸元に抱き込んだ。




