闇と猫2
許さない、と。
ただそれだけが、思考も、感情も――身も、心も。すべてを占めていた。
あの方に付きまとうだけでも許しがたかったのに、さらに膝をつかせるような「害」を加えるなど。
断じて、有り得てはならなかったのに。
許し難かった。かの方の側にいる者が――なにより、傍観に徹した己が。
これ以上の失態を重ねるつもりはなかったが……邪魔が、入る。
無造作に振るった剣は、放たれた炎の魔術を真っ二つに裂いた。狐の術など、タガの外れた虎の前では、ほとんど児戯にも等しい。驚きの硬直した相手は、最高の好機を与えている。だが。
次に襲ってきたのは、寸前の攻撃とは比べ物にならないほど、強かった。身を切るような魔力からは、天龍の力であろうと想像がつく。
しかし――殺気が、足りなかった。
虎を傷つけ、完膚なきまでに叩き潰すという……意志が、ない。
攻撃として決定的に掛けた一撃に、ひるむ虎ではなかった。ゆえに、虎は、まったく同じ動きで、完全に無効化してみせた。
けれど。
凌いでも、凌いでも。
切り払い、薙ぎ払い。その度に狐は逃げる。
生ぬるい、じゃれ合いに似ていた。だが、数が多いせいで、なかなか狐に爪が届かない。
怒涛のような怒りをすべてを消し去ることに向けていた、最中。
「リィ・ウォン!」
響いた声に、すべてが――一切が、停止した。
そして。
「今、すぐっ。その愚か者を! ここに――連れてきなさい!」
高らかに告げられた命令は、一も二もなく、従わせる力を持っていた。
剣を収め、跳躍する。高く飛ばず、地を蹴って前に。すぐにたじろぐ狐の真横にたどり着き、抵抗虚しく取り押さえて――
次の瞬間には、エルデュアの前に額づかせていた。
彼の周囲には、闇が集まっていた。鵲、狼、鴉、梟、天地の龍。「仕事」をしていようと、これほどの人数が集まることはまずない。大方、地龍が例によって余計な気を回したに違いなかった。
「うっとうしい薄霧で邪魔をしたのはお前か、鴉」
「お礼言われる筋合いあっても、殺されるいわれはないよ?」
悪びれず薄ら笑いを浮かべて立つ男に、じろりと視線を向ける。わざとらしく肩をすくめたその胸倉を、容赦なくつかんでいた。
「いらぬことを吹き込んでいたのを、聞いていないとでも?」
「だって……君が言わないから、じれったくって」
「抜かせ」
抜刀の勢いを、横から抑えられた。止めたのは、梟。
「阿呆。勢いで乗せられるなよ、新人。こいつの態度は、これが普通だろうが」
「だが無礼を働いたのは事実だ」
「いい加減、頭を冷やして状況を見ろ。お前の主人は、今どこにいるんだよ」
低く囁かれて。
ようやく……虎はエルデュアの姿をはっきりと金の瞳に映した。
カスに邪魔されて鮮明に「視る」事が叶わなかった主は、ひと月の間に、ややしまった体つきなっていた。激務のせいではなく、過剰な守護壁による魔力酔いだと知って、己の手落ちが悔しかった。
薄氷の双眸は、厳しい色だ。当然、叱責が飛ぶものだと思っていた。
しかし、つれなく視線がそれた。お前は後だ、と宣言しながら。
エルデュアの怒りは、まっすぐに狐に向けられた。
「まったく嘆かわしい。闇ともあろうものが、ここまで愚かだとは」
低く、冷え切った声。時折、国王や宰相、国の重鎮たちを震え上がらせる、凍てついた響きだ。
闇の狐は、身じろぎこそしなかったが……さすがに、顔が青ざめた。
「職務遂行、大いに結構。どうやら完遂されたようで、それも良しとしましょう。ですが……あまりにも、付属して引き起こされた被害が、甚大に過ぎます」
すい、と流れるように周囲を観察する。庭師や管理者たちによって整えられていた中庭は、無残な有り様だった。
「無論、可能性にとどまった被害も含めて、の話ですが」
一周ののちに戻った視線に、狐がさらに身をすくませる。一歩間違えれば死んでいたのは、この場にいるだれもが知っていることだ。
そして、虎が闇を手に掛けた先には、どんな事態が待っていたか。
彼らの規則を知らないエルデュアだが、想像は容易だ。おそらくは、同じように消されていた。だからこそ、これほどの大人数で、虎を鎮めようとしたに違いなかった。
「……謹慎です」
はっきりと、罪を咎める必要がある。
「向こうふた月、人との接触を禁じます」
俯いていた狐が、唐突に顔を上げた。勝気そうに吊り上った目には、強い光があった。
「ちょっと……勝手に決めないで」
「何か問題が?」
「だって、あんたの命令に従う理由なんて、ないから」
あたしは闇よ、と狐は傲然と顔をそらす。
「官吏でも、軍人でもないわ」
「だから?」
「だから……闇に命令にできる人間は、いないって言ってんの」
なにをバカな、と今度こそエルデュアは吐き捨てた。
「闇だろうがなんだろうが、お前はレアン国の人間だっ! この国の、引いては我々の守護下にある。守るべき時は護り、罰するときは相応に処罰する!」
怒号。あまりの変化に、狐が目を瞠ったまま、動けずにいた。
「力があるなら、より相応の罰が必要に決まってんだろうが!」
狐と、真っ向から目が合った。今更ながら、この女の両目は色が違うことに気が付いた。片方は黒。もう片方は、ごく薄い、黄色に近いような茶だった。
唖然としているのは、狐だけではなかった。ほかの闇もまた、どこか戸惑ったように声に出さず何かを会話をしている。ただ、リィ・ウォンだけが、どんな変化もなく膝をついていた。
「まあ、罰は必要でしょうね」
ややあって、穏やかな賛同を上げたのは、鵲だった。
「立場と能力に応じた……そうですね、一切の光のない、地龍の結界の中にひと月、というのはどうでしょう? 人とも、一切関われません」
「それって謹慎どころか監禁……」
ぼそり、とシャレにならない訂正を入れた梟は、何の威圧もない優しい笑顔を鵲から向けられて、とっさに顔を背けた。
抗議したのは、もちろん狐だった。
「ちょっと、本気っ」
「本気ですよ。やりすぎたのは、自覚があると思っていましたが?」
「でもっ」
「では、構わないでしょう?」
「……」
「反省の時間に充てるとよいでしょう。有意義に過ごしなさい」
見事に反論を封じられた狐が、憮然と黙り込む。
よろしいですか、と尋ねられ、エルデュアは無言でうなずいた。闇同士で決まったのなら、さらに口をはさむつもりはない。冷静になりきれず、語調を荒げたことに、いささか気まずい部分もあったが。
知ってか知らずか、鵲は変わらぬ笑み刷いた後、優雅に一礼した。落ち着いた、静かな雰囲気を持ち合わせる鵲。
そう年が変わらないはずなのに、どこか老成した大樹のような揺るぎなさを感じさせた姿に、一瞬の間、魅入られた。
その、空白に。
はっと気が付くと、そこは中庭ではなかった。闇たちの姿もない。ハルエスがいないことを除けば、そこはいつもの執務室。目を疑うような光景の変化だった。
そして、不在の宰相に変わり、その机の前には鵲が立っていた。
「鵲……?」
疑問と、若干の不審を持って名を呼ぶ。まるでいたずらが成功したかのように、闇はただ微笑んだまま肩をすくめてみせた。
「なかなか、面白いことをおっしゃいましたね、エルデュア様。虎が主と定めただけはありました」
「なにを言って……」
「あれだけの騒ぎに巻き込まれながら、我等を人だと言ったのは、あなたが初めてですよ」
「……」
ですが、と続ける。その穏やかさの奥に何かがあるのを知りながら、エルデュアはつかみかねていた。とらえ所がないのではない。ヴェールではなく、壁によって隠されているその向こう側だ。手は伸ばしようもなく、また壁に遮られているのだと気付く者も少ない。
「ですが、我等は闇です」
間違えては、いけません。囁かれるのは、忠告だ。
「人でもありますが、あなたが言うほど、『普通』ではありません。強い力は、それが武術であれ魔術であれ、ヒトそのものを変えるのです」
「だが、人間、でしょう」
反論ではない。確認だ。鵲も、ただ頷いた。
「そう、人間です。それを忘れなかった『人間』がいることは、喜ばしい限りです。しかし……」
声を抑えるかのように、長い指が唇に当てられる。
「例えば、私などは……この百年、闇が闇に生まれた時から、生きてきました。何事もなければ、もう百年、鵲は『生きて』いくでしょう」
「――っ」
「虎の時間は、本人にしかわかりませんが」
エルデュアが息をのんだ。驚きと、わいた疑問に当然のように鵲が答える。
「狐の言葉通り、我等は権力の指示には従っても、屈服はしません。人にも、政権にも仕えることはしません。ですが、概ねあなた方の自由に動かせる、都合の良い人形……」
口に乗せながら、鵲の態度は言葉をすべてを否定していた。口の端が、さらに上がる。それでも、変わらないその纏う雰囲気が、いっそ恐ろしいとさえ感じた。
「『ついでに軍部もどーにかならねーかなぁ』」
「!」
硬直した。言葉は、かつて本人から目の前で聞かされた。それを、まったく同じ口調と声で、鵲が再現してみせた。
その、意味は。
「ま、さか……」
「忘れないでください、エルデュア様。我らは人間であり、人形であり……なにより、闇なのです」
エルデュアが口を開くよりも早く。
優雅な、見とれるほど美しい、一礼。反論もなにもかも、その動きにのみ込まれた。
「迂闊な言葉は慎むよう、国王陛下にはご進言くだされば、幸いに存じます」
闇は、空に溶けたかのように消えた。




