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猫と子猫の、その間

 つと振り返ったのは、はっきりとつけられていると感じたからだ。

 誰にとは言い難いほどの薄い気配だが……何かに、とは言えるほどの確信があった。むしろ、得体の知れない分だけ、まさしく「なにか」という方が正しいだろう。

 もちろんそれは、エルデュアにとっては想定内であり、かつ予定通りだ。そうでなければ、わざわざ軍部庁舎まで足を運んだ甲斐がない。

 魔鉱石の出所を探るうちに、いくつかのルートと、そしてその流れの起点がすべて軍部につながっていることがわかった。そこでエルデュアが「行動」してから、今日で五日。

 自ら囮になることで、さらに裏での調査をハルエスや部下、そして宰相が動かしているだろう闇たちの動きから目を逸らさせる。その目的は、無論達成された。そろそろ、朗報を聞きたいものだった。いい加減、背筋に当たる視線がうっとうしい。身の危険を感じるほどではないが、害意ある視線を受け続けるのは、気分がよくない。特にここ二、三日は、慣れないことをしたせいか、体調もあまり思わしくなかった。気にかけて慎重になっていても、体はどうにもだるく、気を引き締めていなければちょっとしたミスや支障が生じそうだった。

 ついでにいうなら……リィの姿も、すでに半月以上見ていないことになる。家にとどまるのはほんのひと時で、かつ食事や睡眠をした形跡もない。体が心配であるのと反面、言いようのない苛立ちばかりが募っていた。

 つらつらと考えに沈んでいる最中、失礼、と声をかけられた場所は、つい踏み入れてしまった中庭だった。その相手には、見覚えがあった。つい昨日、あの忌々しい将軍のもとに行った折に、リィと共に去っていた軍人の一人だった。

 細面で、繊細な顔のつくりは、いっそ女だと言われた方がしっくりきそうなほど。だがやや華奢ではあっても、体のつくりや声の高さは間違いなく男に見えた。隊服も、黒いタイを締めている。

 なにか、と努めて無表情に問うと、やや困惑しながらも白い手袋をはめた手が、厚紙を切ったカードを差し出した。

 書かれていたのは、たった一言。

「行かれません」

 と。ただそれだけだ。だがそのそっけない言葉が、誰のものかは簡単に想像がついた。

 今の今まで無視したのにも拘らず、いきなり寄越したのがなぜこれなのか、エルデュアにはさっぱりわからない。が、努めて無表情にカードを受け取った。

「……なにか?」

 去ろうとしない相手にしびれを切らし問いかけると、少し困ったように首をかしげた。まるで、返事を待っているかのようだ。

 だがそもそも、なんと書いて送れと言うのか。子猫の余所行き顔を見たあと、それ以来、エルデュアは苦い思いを持て余している。大体、リィに親しげに話しかけていた男相手に、いつまでも居座られるのは不愉快だった。帰れ、と怒鳴りこそしないが、機嫌はどんどん傾いていく。

「そちらは貴重な休憩時間でしょう。戻って構いませんよ」

 ことさらに平坦な声にも、動じた様子もなかった。むしろ。

「……分かりませんか?」

 ゆっくりとした、口調。

 嵐の到来を知ってか知らずか、どことなく含みのある台詞が返された。エルデュアが眉をひそめる。うっすらと浮かぶ笑みに、なぜかそこはことない優越感がある。いや、それはエルデュアの僻みと苛立ちのせいで見える、幻かも知れない。とにかく……あまり長く眺めていたい顔ではない。

 しかし言を募らせるよりも先に、ピリッと指先に違和感を感じた。眉をひそめると、相手が笑みを深めた、気がした。

「……あなたは、」

 降ってわいた、警戒心。とっさに言葉に詰まった。だが、それがまるで合図のようだった。

 カードが、いきなり燃え上がった。

 音もなく、前触れもなく。赤い炎がエルデュアの指を呑む。

 驚愕のままに手放そうとするが、すでに「手」が赤い。

「なっ……!」

 睨みつけた相手は、それでも平然としていた。そしてさらに。

 無造作に伸びてきた、拳。とっさに首を傾けた――その背後で、鈍い音がした。ミシ、と確かに対象物があった、音。

 全く気付かなかったが、ずっと感じていた「なにか」がいたのだと、直感する。

 そしてその間にも……炎は腕を伝っている――が。

 どんな痛みもなかった。苦痛どころか、感触さえない。浸食されたはずの腕も、そして衣服も、赤く視界に映る以外には、どんな変化もなかった。

 すでにぐるりと、身体全体を覆われている。一呼吸、置く。それだけで頭の芯がさえた。

「あなた……何者です?」

「申し訳ありませんが」

 ただ、その細い目が歪んだ。続きは、ない。

「言えない、と?」

「いいえ。時間が惜しいのです。早く片付いてほしいでしょう?」

 一掃してきますよ、とこともなげに嘯く。まるで十年の知己のような馴れ馴れしさだ。

 その身が、傾ぐように体勢が崩れる。と、足はあの「なにか」を踏みつけていた。エルデュアには、捕えることのできない、もの。だがその男には……おそらくはっきりと、そしていくつもソレが鋭い目に映っているようだった。

 けだるそうに動く腕、身体。戦いにも争いにも見えない。だが、敵は確かに「消されて」いる。

 作り出された炎は、危害の及ばぬ赤の壁。それも、エルデュアを外界から完全に遮断する。

 正体は分からないが、こんな魔術を大した時間も掛けずに行使したことや、底の見えぬ戦いぶりからは、リィを彷彿とさせた。ゆえに、彼もまた「闇」であろうと、そう目星を付ける。

 違うのは圧倒的な力を見せつけた虎と違い、まるで煙に巻くような雰囲気がある。

 緊張感はない。殺気もない。

 ただ、確かに敵は数を減らしている。

 それは、エルデュア自身が感じ取っている。

 ふと目が合えば、崩れた笑みを寄越した。なぜか、無性に腹が立った。

 大体、壁がある、ということはエルデュアを守っていると同時に、自由を奪い、拘束しているのだ。触れたところで感触もないが……突き抜けることもない。なんとも便利な檻のようだ。

 加えて、リィと同じ「闇」ならば、当然彼女の事情を把握しているに違いなかった。こちらが知らずとも、向こうは無論、エルデュアを知っている。それを利用するような術をかけたのだから、確実だ。

 仕事とはいえ……どうにも、不満ばかりが募った。

 不機嫌にそこまで思考したところで、グラリと視界が揺れた。攻撃を受けたせいではない。このところ常に感じている、不調の一つだ。

 思わず、一歩下がって膝をついた。瞬間。

「その方に何をした、この女狐!」

 空気が、爆発した。


 

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