猫と子猫の出会い
レアン国の副宰相と言えば、その目つきの悪さ――もとい、有能さで名が高い。エルデュア・メス。城の中でその名を知らない者はない。ついでに、その恐ろしさを知らない人間も。
「……エル」
「却下だ」
即座に返されて、上司であり仲裁者であり、長年の友人でもあるハルエス・リンはため息を吐いた。誰もが震えあがる、見下ろす鋭い薄氷の視線にも動じない。ハルエスはレアン国の前第二皇子で、今は臣に下ってリン公爵家を継いでいる。
「お前なあ。そうやって何でもかんでも却下するから……見ろよ、この返済書類の山をっ。今にも崩れそうだろうが!」
「ふざけるな。どこが返済書類だ。全っ部、見合いの絵姿だろうが!」
だん、と机をたたいた拍子に、だだだーと山は崩れた。散らばる紙、こぼれるインク。ちっと舌打ちをしてから、エルデュアは手元の鈴を鳴らした。りん、と甲高い音の後……すべて、なかったかのように元通りになった。
そう。元通りに、なった。
エルデュアが苦労して、ハルエスの馬鹿が書類に紛れ込ませた見合いの絵を、きれいに選り分けたのにも拘らず、すべて水の泡。
ぶちっ、となにかが切れた。それも盛大に。一つどころか五本はまとめて。
がたん、と椅子を蹴立てて立ち上がる。おい、と引き留めるために肩にかかった手を、思い切り振り払った。
「どこ行くんだよ」
「知るか。今日は金輪際、お前の顔は見たくない!」
「って、仕事は」
散々邪魔じみたことをしておきながら、この期に及んで寝言を抜かした上司に、エルデュアは「絶対いつか殺す」という思いの丈を込めて睨みつけた。流石のハルエスも凄味に負けて顔が引きつる。
「お前がやれ。暇だろうが。俺の仕事の書類に見合いの紙を紛れ込ませた上に書類にしか見えないようにする小細工までするほど暇なんだろうが、あ? 一枚たりとも遅らせるなよ」
「俺は上司なんだけど……」
エルデュア背後の怒りの炎に気おされながら、口悪い、態度も最悪、と心の中でハルエスは悪態吐く。知ってか知らずか、エルデュアはそれ以上何も言わなかった。
ばん、と荒々しく閉まった扉に向かって、ハルエスのため息が漏れた。
エルデュアはよく、猫にたとえられる。
独立独歩な態度。誰に媚びることもなく、それでいながら、敵も味方も入り混じる政界の中で、優雅に立ち振る舞う。たしなみ程度だが、武術を心得ているせいか、身のこなしは無駄がなく、足音がしない。加えて、色素の薄い瞳や、光沢のある銀灰の髪は、艶をわずかに抑えた白の制服とあいまって、美しい毛並みのようだった。
本人にしてみれば、迷惑千万な事だが。
そもそも、エルデュアは言葉の通じない生き物は嫌いだった。犬だろうが猫だろうが、愛玩動物などを飼う貴族たちの気がしれない。娘息子の自慢話だけでも疲れるのに、時折それに加えてうちの可愛いなんちゃらの話なんて全く聞きたくなかった。帰れ、と全力で言いたいが、そういう話をしに来るやつに限って目上、かつ身分も上、さらに上役だったりするので始末に負えない。誰とは言わないが。
表面上は黙って無表情に城の奥へと進みながら、エルデュアはたまりにたまった愚痴の嵐を心の中で大発生させていた。当然、その禍々しい怒気は漏れ出て、辺りの警護をする衛兵たちを竦みあがらせていた。目的もなく歩いていたが、ふいに中庭の一つに行きつく。そこで見えた空と、ちょうどよく吹いてきた心地よい風に、ようやくエルデュアの嵐もやや収まりを見せた。
専門の庭師たちが手入れした中庭は、整然と美しく、かつ種々の植物が自然に植生されたかのような作りだった。エルデュアの知らない野草や、まるで広い原野の一部を切り取ったかのような雑多な草が生え、ちょっとした低木、藪なども設えられていた。城とかけ離れた雰囲気は、まさしく、一時の忘却に耽るにふさわしい空間だった。
あれこれと観察しながら歩き回り……ふいに、鳴き声を聞いた。しかも一番聞きたくない、猫の声だ。ミャオ、だかミョウ、だか。か細く弱々しい声だった。そして足元に温かい物が触れて――
なぁお。
すり寄って頭を擦り付けていた、まだ小さい猫。おそらくは子猫だろう。毛並みがいいとは言えない。どこから紛れ込んできたのか、白とも黒ともつかない毛色をしていた。どうみても野良。貴族の飼う血統書付きの気位高い猫ではない。
ぎし、とエルデュアは固まった。思い切り睨んだところで、子猫には通じない。扱いを知らない厄介者は、いくら早くあっちに行け、と念じても、足にまとわりつくばかりで離れるそぶりもない。じりじりと後退しても無駄だった。仕方なく、大きく一歩下がろうと足を持ち上げて――
じゃれつかれた動きについていけず、思い切り踏んづけた。にゃギャっ、と変な声を上げて、子猫は藪の奥にすっ飛んで逃げた。
「……」
ぐい、と自然に眉根が寄った。さすがに、罪悪感があった。よもやまさか足蹴にしてしまうとは。嫌いではあるが、相手は生き物だ。むやみと傷つけるのはエルデュアもはばかられる。ついつい気になって、子猫が消えた藪に近づいて覗いた。
「……」
しばし、動けなかった。藪の向こう、芝生の敷かれたちょっとした地面に、丸くなって倒れていたのは。
子猫と同じ色の髪をした、人間だった。
猫が化けたか、人間が化けたか。
子猫が化けたなら、かの猫は魔物の類だ。即刻担当武官を呼んで排除しなければならない。
人間が化けたというなら、相手は魔術師である。そんな魔法があるかどうかは知らないが、叩き起こしてなぜそんなことをしたのかと問い詰める必要がある。
悶々とそんなことを考えてから、エルデュアはふっと正気に戻った。
(バカバカしい。たまたまサボる人間のところに、子猫が飛び込んだだけだ)
そしておそらく、とっくに遠くへ逃げたはずだ。二度と会うこともあるまい。大体、走って逃げるほどの元気があるのだから、怪我などしているはずもなかった。
耳を凝らせば、すうすうと穏やかな寝息さえ聞こえた。ぼさぼさの中途半端な長さの髪も、着崩してどこの所属だかわからない制服も、エルデュアの嫌いなだらしなさが目立つ。即座にエルデュアの機嫌が悪くなった。
藪をかき分け、ゆすぶってやろうと膝をついたところで、長い前髪の隙間から、ぱか、と半開きになった瞳と目が合った。
めったにないことだが、エルデュアは驚いて固まった。見開いた目に映るのは――先ほどの子猫と同じ、金色に近い双眸。最初は半分だったのが、徐々に丸くなると、余計に子猫のそれに似ていた。
そのまま硬直して、しばらく。口を開いたのは相手の方だった。
「あのー。もしかして、またやりました?」
「はあ?」
「いま何時です? 警備隊の人とか、呼んじゃいました?」
なぜそんな事態になったのかは不明だが、どうやらなにがしか前科ありと見た。むくりと起き上り、がしがしと頭をかきながら周囲を見回す。ぼそっと「昼だな」と呟いた。一体いつから寝ていたのやら。
「すみません文官様。驚かせました?」
「ぶんかんさま?」
そんな呼ばれ方はされたことがない。相手の制服は真正面から見て、どうやら軍服らしいと察しがついた。徽章もなし、組紐もないため階級も所属も――ついでに性別も不明だ。
エルデュアはあまりに有名すぎて、自分が知らない相手でもこちらの姿や名前を知っている。というか、知らない人間が城の中にいるとは、エルデュア自身も思っていなかった。
「……名はなんです、武官殿?」
皮肉を込めた冷たい声音。大抵の人間は怯えて縮こまるが、見知らぬ武官は、はあ、と間抜けな返事をしただけだった。いつまでも得られぬ答えに、焦れて再度問う。
「名は?」
「……リィ・ウォンです。文官様」
間が空いて、いかにも渋々と武官が答えた。ウォン家といえば、軍人だけでなく魔術師なども多く輩出する古い家柄だ。
「リィ? 変わった名ですね。命名したのは誰です?」
「さあ。小さいころ拾われた時、そう呼ばないと返事もしなかったらしいんで、それがそのまま名前になっただけです」
さらりと重い過去が出てきたような。が、半分前髪に隠れた顔は眠そうなのまま、リィが気にした様子はない。
「文官様」
「私はエルデュア・メスです」
名乗っても、リィは全く反応しなかった。本気で副宰相を知らないらしい。
「……エルデュア様」
「あなた、仕事はどうしたのです?」
「今は昼休みですよ」
「先ほどまで寝ていたでしょう」
「今日は一日中、昼休みなんです」
「休日ですか」
「はい」
「ではなぜ、制服を着ているのです」
「官舎には制服以外の服を持ち込んでないので」
「では、城ではなく家にお帰りなさい」
「実家は遠いですから」
「……」
会話が続くにつれて、エルデュアは頭痛がしてきた。人語が通じるにもかかわらず、意思疎通ができたとは到底思えない。やっていることも言っていることも、エルデュアには理解できなかった。帰ろう、と踵を返そうとした。これならまだ、ハルエスの相手をしている方がましだった。
それなのに。
「エルデュア様」
「……なんです?」
呼ばれてしまうと、無視が出来ない。
「エルデュア様は、いい匂いがしますね」
「……」
「おいしそうな匂いがします」
「……」
無視、すべきだったかもしれない。頭がわいてるんじゃないか、と半ば本気で思った。けれど、続いて「何かお持ちなんですか」と訊かれて、ようやく心当たりを思い出した。懐に入れた、肉や野菜を挟んだパン。昼食のつもりで、これだけは部屋から持ち出していた。丁寧に紙で包んであるため、においはほとんどしないはずなのだが。
包みを取り出すと、リィの目は釘付けになった。ためしにちょい、と右に遠ざけてみる。見事に頭ごと追いかけた。
「……食べますか?」
なぜだか無下にできない。そんな哀愁じみたものが、リィの周りに漂っていた。じっと見上げてくる目が、いいんですか、と無言で問いかけてくる。差し出すことで答えた。二本の腕と細い指が伸びてくる。
包みをむいて、パンと野菜をじっくりと観察。舌先を出してぺろりと確認。その後ようやく、リィはパンをかじった。本当に、動物じみている。
むぐむぐと黙ってゆっくりと食べる。時折、ちら、と上目遣いにエルデュアを見た。別に横から奪ったりするほど、飢えていないし行儀も悪くない。
ごちそうさまでした、とリィが頭を下げた。立ち上がると、同じように上目遣いで――エルデュアの方が頭一つ分背が高かった――じっと顔を覗き込む。
ふっ。
漏れた吐息が、かすかに感じられた。ほんの一瞬。わずかに口の端が上がって目元が柔らかくなった。
(笑った……)
どうやら、変わった子猫の餌付けに成功したらしかった。