第二話
ふと、名を呼ばれたような気がした。
いや、気のせいだろう。こんな土砂降りの中歩いている人の姿なんか見当たらないし。
いつもなら小学生くらいの男女が煩いくらい騒ぎまくっている公園も人影すらない。当たり前だけど。
「杳子だろ? おい!」
今度ははっきり聞こえた。わたしの名を呼ぶ低い声。
通り過ぎようとした左側のマンションの入口に見えたのはツンツンと立たせた金色の髪。まるでライオンみたい。
「ゆうく……香坂くん」
名前を言いそうになって慌てて口をつぐむ。
香坂優輝、それがその金髪男の名前。
男なのに女みたいな名前が嫌いな幼馴染。昔は『ゆうくん』って呼んでたけど、小学校高学年になる頃から呼ばなくなってた。
同じ小・中学校出身で、高校はわたしの学校と同じ最寄駅の県立の工業に進んだ。
だらしなくワイシャツの襟元を開き、裾をスラックスから出している。そのスラックスもだらしなくずり下げられている。いわゆる腰パン。
それに目が覚めるような鮮やかな金髪。眉まで同じ色になっているから一瞬目を疑った。
「なにやってんだ、こっちこいよ」
手招きしている優輝を一瞥して、その場を去ろうと思ったけど妙に一生懸命なもんだから、吸い寄せられるようにそっちに足が向いていた。
あとで「無視しやがって」ってキレられるのもやっかいだ。
「なんだよ、おまえ。ぐしょぐしょじゃねーか」
大降りになる前にここに逃げ込んだのか優輝はほとんど濡れていなかった。
カカッとばかにしたような笑いがマンションのエントランスに響くように聞こえる。
何も答えずに足元を見つめていると、全身から水が滴り落ちていた。
乾いていた地面があっという間に水浸しになった。頭の上のほうで優輝が小さく舌打ちした音を聞く。
いつの間にこんなに大きくなったのだろうか。まともに見れない。凝視したら逆に睨みつけられそうで恐ろしかった。
整えられた眉、左耳に飾られたシルバーのドクロのピアス。まるで中学の時とは違ういでたち。
確かに中学の頃から少し道を外れたような感じではあった。髪を茶色に染め、素行も悪い。先生の注意なんか聞かない。授業は平気でサボる。
ヤンキーという表現はもう古いのだろうか? だけどまさにそんな感じだった。
その頃からわたしと優輝は疎遠で、学校の廊下ですれ違っても目も合わせない、幼馴染だなんて口にしようものなら何を言われるかわからない。
わたしは優輝が怖かった。
似たような素行の悪い男子達とつるむ彼と関わりたくなかったのだ。
「ったく……しょうがねえな」
ぐいん、と強い力で右腕を引かれ、雨の中を走らされた。
あまりにいきなりのことで何がなんだかわからなかった。その手を振りほどくこともかなわず、優輝の背を追うしかできない。
大きな雨粒が痛いほどわたし達を叩きつける。まるで何かに罰せられているような気持ちにすらなってしまう。
視界が悪くても目の前の優輝の金髪だけはなんだか神々しいものに見えたのはきっと気のせいだろう。
うちの団地へ向かう坂を昇る手前の大きな一戸建て。そこが優輝の家。
小学校の高学年まではうちと同じ団地の同じ号棟に住んでいた。
そして今、目の前にその家がある。鍵を開けて玄関に招かれる。家には誰もいないようだ。
息切れした優輝もわたしもびしょ濡れで、中に入った玄関の床があっという間にぐっしょりになった。
玄関のすぐ先に階段、その左横の廊下をびしょ濡れの優輝がドカドカと歩んでいく。ワックスがきいているであろう輝いたフローリングの床が濡れてゆく。
この家に入ったことはなかった。すでに新築とは言えないだろうけど、玄関も廊下も壁紙も綺麗だった。きっとおばさんが丁寧に掃除をしているんだろう。
誰もいないせいか、シンと静まり返っていて居心地悪いけど、それはたぶん初めて足を踏み入れた場所だから。
キョロキョロと見回していると、白いタオルが投げつけられた。それを顔面にモロに受ける。
「なんでてめえは雨宿りしねえんだよ? 賢いくせにそんな知恵もないのか? あ?」
茶色っぽいバスタオルで濡れて萎んだようになった金髪を拭きながらこっちに歩いてくる優輝の目つきは酷く悪かった。
眉根に皺を寄せて凄むチンピラみたいで背筋が冷えたような気持ちになる。
こんな幼馴染は知らない。いらない。
小学校時代も時々いじめられていた。だから――
「何? 寒いの? 震えてんじゃん」
三白眼で睨まれ、思わず首を振る。
そうだ、優輝は小さい頃から目つきが悪かった。その目で睨まれるとぐうの音もでなくなってしまうのだ。
昔からこの幼馴染が苦手だった。できることなら関わりたくなかった。もう逢いたくもなかった。
それなのに。
わたしは今、優輝の家でシャワーを借りている。
しかも優輝の中学のときのジャージを与えられ、それに身を包んでいるのだ。
懐かしい小豆色の上下、胸元には『三―四 香坂』と大きく名前入り。恥ずかしい……恥ずかしすぎる。
「教えておいてやる。あんな夕立はすぐにやむんだよ」
浴室から出てきたわたしを待ち伏せるかのように向かいの壁に寄りかかった優輝が鼻で笑う。
違う、夕立じゃない。だって梅雨の時期だもん。何を言ってるんだこの人は。
金髪はまだしっとりしていた。濡れたせいで髪はツンツンではなくぺったんこになっている。服は着替えたようで、黒のTシャツにデニム姿だった。
何も言わずに俯くわたしにまた優輝の忌々しそうな舌打ちが浴びせられた。
「おまえ喋れねえの? 一言も発してないけど?」
ふるふる、と首を横に振る。
「何? 俺みたいなのと口もききたくないってか?」
その言葉に思わず顔をあげて優輝を見た。片方の口角をつり上げて再度鼻で笑われる。
そうじゃない、こうして雨宿りさせてくれたことには感謝している。なんでこんなことしてくれるのかわからないけれど。
戸惑いながらも首を横に振ると、優輝の細い目がわたしの顔を覗き込むように見て更に眉をひそめた。
「おまえ、なんかあった?」
鋭い指摘に全身が強張る。
今のでバレたかもしれない、そう思いつつも優輝から目を逸らせなかった。
「順平にフラれた、とか?」
――なんでっ? なんでそれ知ってるの?
心の中でそう叫んでいた。あまりにも驚いて喉元でくぐもったような変な音がでてしまう。
慌てて手で口を覆うけど、優輝の様子を窺うとさらに彼の眉根には深い皺が刻まれていた。
「なんだよ、あたりかよ」
順平とつき合ってたことを知られていることにも驚いたけど、ズバリ言い当てられて居た堪れなくなった。
堪えていた涙が溢れ出す。やだ、泣きたくなんかないのに。
少しの沈黙と、小さなため息。
「まあ、そんなもんは時間が解決するだろ。ゆっくり寝てさ……忘れろや」
ハハッと軽く笑われ、堪えていた何かがぷちんと音を立てて、切れた。
「……んたんに……いっ……」
泣きしゃっくりをあげながら必死で訴えた。
「ゆっくり寝てなんてっ……簡単にっ……」
もう恥ずかしいなんて思いはどこかへ吹き飛んでいた。
優輝を怖いっていう思いもどこかへいってた。もうどうでもよかった。
逆らって殴られようと蹴られようと……投げやりだった。
ぐしぐし涙を拭いながらわたしは小さな声で抗議し続けた。
それを優輝はどんな思いで聞いていたのだろう。フラれたくらいでばかじゃないかってせせら笑うのだろうか?
ふと、顔をあげてみると渋い顔をして見覚えのある携帯を弄っていた。
「それっ……わたしのっ」
取り返そうと手を伸ばすと、ぽんっとそれが投げつけられた。
待ち受け画面に設定された順平の笑顔。それを見るだけで胸が痛かった。
「二十二時」
「えっ?」
「今日の二十二時、電話する」
「はあっ?」
「ベッドで寝そべって待機しとけ」
はははっと軽く笑った優輝が背中を向けてリビングへ消えていった。
電話するって優輝が? わたしに? 何のために?
腑に落ちないまま優輝の家を出ると、嘘のように雨はあがっていた。なんで?