第一話
「好きな人ができた……別れよう」
突如言われたその言葉に、わたしは絶句した。
あまりにもいきなりのこと過ぎて涙も出なかった。
置き去りにされた放課後の教室。クリーム色のカーテンがふわりと舞うのを目で追って、窓の外に目をやると雨が降り始めていた。
傘、持ってない。
今朝、母に「傘持って行きなさい」と言われたにもかかわらず、玄関から出て見上げた空は見事なまでに澄んでいて。まるで今のように厚い雲に覆われて雨になるなんて想像もできなかった。それは今自分が陥っている状況と全く同じ。
梅雨だもん、雨が降るのは当たり前。
母の言いつけを守らなかった自分が悪い。
じゃ、フラれたのも梅雨の時期が毎年来るように、そんな簡単な理由で他に好きな女ができたってことなのかなあって頭の片隅で思っていた。
この時のわたしはたぶん、少しおかしかった。
***
中一の頃から順平に片思いしていた。
サッカー部のエースストライカーで人気者の彼は本当によくモテていたから、影でこっそり見てるだけ。
わたしみたいな地味な女じゃ絶対に彼の目になんか止まらない。そう自覚してたから。
中三の時、ようやく同じクラスになれて接点を持てた。
偶然にも出席番号が一緒で隣の席。自然と話す機会が増えた。
そして、順平の志望校を知り、同じ学校を受験することにした。
自分のレベルより低めの県立高校。だけど順平と一緒ならそれでもいいって思った。
順平はわたしに勉強のわからないところを質問してきた。そうして少しずつ関係性を深めて親しくなった。
合格ラインギリギリだった順平は、放課後わたしを引きとめて教室で一緒に勉強をするようになった。
ふたりきりの時もあったし、順平の友達が一緒の時もあった。
「なんで杳子なの? もっと勉強できる子いるじゃん」
「なんでって? 教えるのうまいから。すごいわかりやすいし」
わたしが順平に勉強を教えていることをよく思わない女子がそう聞いた時、即答してくれた。うれしかった。ちなみに杳子がわたしの名前。
放課後の勉強はさらにふたりの距離を縮めてくれた。
帰りに家まで送ってもらったり、寒い時は手を握ってくれたりした。
そんなことされて期待しないはずがない。
無事に同じ高校へ進学が決まり、卒業式の日。
信じられないことに、順平の方からわたしに告白してきた。
「僕とつき合ってください」
ありきたりな告白。でも本当にうれしくて、夢かと思った。何度もほっぺたをつねった。
それはすごく痛くて、かなり強くつねっていたのか目の前の順平が驚いていたのをよく覚えている。
彼が着ていた学ランはすでに第二ボタンしか残っていなくて、袖の小さなボタンすらもなくなっていた。
わたしに渡すために残しておいてくれたという第二ボタン。それを受け取ってわたしは泣いた。
生まれてはじめての両思い。初彼、そして、初めてのキス。
何もかもがキラキラと輝いて見えた。
わたしは幸せだった。
それなのに――
高校に進学してまだ二ヶ月ちょっとしか経っていない。
わたし達のつき合いもほんの二ヶ月ちょい。あっという間に終わってしまった。
***
無人の教室の窓から外を覗くと、見覚えのある茶色と白のギンガムチェックの傘。
その下から見えたのはひとりだけのものじゃなくて、女の子の細い足も一緒だった。
順平の隣を寄り添うように歩いて校門へ向かっていくその後ろ姿。同じクラスで一番可愛い綾菜。名前まで可愛いなんてずるい。
もう、つき合ってるんだ。
その姿はどこから誰が見ても恋人同士のもの。
相合傘とはよく言ったものだ、ふとそう思えたらおかしくて。
泣きたいのになぜか涙は出なかった。
さっきまでは幸せだったのに。
それを戒めるかのような急な雨。
幸いなことにまだ霧雨だった。本降りにならないうちに帰ろう。
せめて家に帰るまではこのくらいの降りをキープしてほしい。
神様だってそこまで残酷じゃないだろう。今フラれたばかりのわたしをずぶ濡れになんかするわけがない。
順平たちに追いつかないよう、少しだけゆっくり歩いて駅に向かう。
雨足は強くならなかったけど、霧雨って意外と濡れるんだってことがよくわかった。
衣替えが済んだばかりでブレザーはない。かろうじて長袖のブラウスを着ていたけど、紺色のベストもスカートもしっとりと湿っていた。
ベストを着てなかったら下着が透けていただろう。持っていたハンカチで軽く拭ったけど少し寒気がした。
電車の中、ドアに寄りかかって窓の外を眺める。
こんなことになるなら、同じ高校に進学しなきゃよかった。
最初から順平に逢わなければよかった。好きにならなきゃよかった。
なんで後悔しか浮かばないんだろう。楽しかった思い出とか今は何も思い出せない。
一緒に勉強した放課後、幸せだったはずなのに思い出すだけで胸が抉られるように苦しい。
霧雨が電車の窓を濡らす。
まるで「泣け」とわたしを煽るかのようにどんどん雨粒が視界を奪ってゆく。窓の外は歪んで見えた。
なんで泣いてもいい誰もいない教室では涙が出なかったのに、こんな時に出そうになるんだろう。
やっぱり神様なんていなくて。
電車を降りたら、どしゃ降りの雨になっていた。まるであざ笑うかのように。
電車の中では必死で涙を堪えたけれど、こんな雨の中ではその必要もない。
駅で雨宿りをする人が大勢いる中を掻き分け、叩きつけるような雨の中、わたしは一歩踏み出した。
雨に濡れてしまえば泣いているのなんか誰にも気づかれない。
それでなくてもこの土砂降りの中、自分が濡れないように傘をしっかり持って前を向いて歩いていく人ばかりだ。
大通りの信号待ち、傘を持った人の間に立って少しでも雨を避けようなんてこと思いもしなかった。
その傘の群れの後ろに佇み、歪んだ視界で色とりどりの傘だけを見つめていた。
青、白、ピンクに紫……まるで紫陽花の花を見ているよう。綺麗だなって思った。
やがて信号が青に変わり、向こうから色とりどりの紫陽花……じゃない。傘を持った人たちがこっちに向かって歩いてくる。
邪魔にならないようわたしはその人たちを避けながら進んでゆく。
雨音は徐々に強くなって、聴覚まで奪ってゆくようだった。
バケツをひっくり返したような雨は弱まることを知らない。
大通りを抜けて、一本脇道に入るとそこは閑静な住宅地になる。
なだらかな坂を昇り、大きな集合住宅が立ち並ぶ道を通り過ぎると今度は下り坂。
左右の真新しいマンション、そして小さな公園を見ながらさらに進むと今度は結構きつい上り坂があり、わたしの住むボロッちい団地にたどり着く。
公園の木が、草花が雨を受けて揺れていた。
「――杳子?」