0.プロローグ thistle
夜も深くなり、橙色のぼんやりとした光を灯す街灯が二人の男を照らしている。シルクハットを深くかぶる青年が前に立つ男に言った。
「さぁネック。私の命令はきちんと遂行してくれよ? あの子供を守りたければ」
なまめかしい黒い髪がのぞく青年が、手にしたステッキを対面するネックの胸に突きつけている。ネックはかけている濃い藍色のサングラスの下からきっと相手を睨みつける。思わず歯ぎしりをしてしまった。
青年は気にするようでもなくステッキを何度も男に突きつけて、念を押すように同じ言葉を繰り返した。
「私のことを睨むよりもきちんと命令を遂行するように。ネック・ジョーリオル。君のすべては今、見えない糸にからめとられているんだから」
ネックには楽しくもないこの状況を一番に楽しみながら彼は口に出す。ネックの心を底から深くえぐり出すように。ネックの忘れてしまった心をいぶり出すかのように。
「禍の素は雑草のように根から摘んじまうべきだ。あれはここに存在することを許されたわけではないのだから」
「えぇ、言われなくてもわかっています。ドゥンケルハイト卿」
恭しく頭を下げる。しかし屈辱に等しい。彼に頭を下げることは、ネックにとって今すぐにでも殺してもらいたい感情に陥ってしまうことだった。しかし声だけは落ち着かせる。
「あれによって発生する禍についてはこの身に刻まれていますのでご心配なく」
「だといいけれどね」
幼い子供のように意味ありげな含み笑いを浮かべて、彼はネックに頭を上げさせた。彼の胸元にある赤いベルベットリボンが目につく。ネックは自然と手をきつく握りしめていた。白い手袋の下は既に汗ばんでいる。
彼がパチン、と一度指を鳴らす。すると何もなかったはずのストリートに今は真っ黒で重厚な扉が現れたいた。扉には何らかの植物が描かれているレリーフがある。毒々しい花だ。
目の前に立つナイトメア・ドゥンケルハイトはネックをまっすぐと眺めながら、ニタニタとしたいやらしい笑みを向けている。それを見ないように視線を横にずらすネック。彼の心の中に浮かんだものがある。そのためにネックはこの男に従っているのだから。
「じゃあね、ネック・ジョーリオル。失われし世界のために」
答えるものか。低頭したままナイトメアを見送るネック。そんな彼に微笑みかけてナイトメアは開かれた扉の向こうへと進んでいった。そして青年の姿がぼんやりとした輪郭だけ見えるようになると、独りでに扉は閉ざされていき音を立てずに消滅していった。
この場に残されたネックは ふと空を見上げてみた。月が街を見下ろして嘲笑っている。星がちかちかと瞬いて、風はネックの体を震えさせた。ポケットに突っ込んだ煙草を取り出し火をつける。口にくわえすうと大きく吸い込んだ。芳しいにおいが臓腑にしみわたるように感じる。細く長く息を吐く。煙がゆっくりと空へ登って行ったかと思えば、突風によってかき消された。
まだ月は嘲笑っている。ニタニタとしたいやらしい形で空へ浮かんでいるのだ。
「すべてがくそくらえだこの世界は。どうして君の元で居続けられないのだろう?」
星が一つ地上へと落ちて行く。何も知らない空からどろりと腐った地上へと。閃光のように光をまきちらしながら、星は抗おうとする。しかし抗う全てを根こそぎ奪いつくす理が働いて、見えない糸にからめとられてしまう。光を失った星は力なく地上へと墜落した。
「私は……俺は一体どこにいると言うだろう君ならば……。悪夢の中だろうか……?」
ネックは手にした煙草を下に落とし踏みつけて火を消す。彼は行くべきところへ足を進めた。街の中央に存在する時計塔へ。
エスリドたるネック・ジョーリオルは何も知らないプレイヤーを迎えに行く。楽園へとつながる階段を見つけて、たった一つの願いを叶えるために戦うプレイヤーを。