思い出にできるなら
※※はっきり言って、BLです! 苦手な方はハイ回れ右。
明治六年十一月、僕は死んだ。
誰に弔われるわけでもない、ただの物になってしまった僕の体を細胞レベルで分解して土に還すのは、故郷から遠く離れた、今は鹿児島と名を改めた薩摩の戦地だ。どうということはない。銃弾の霰に晒された体すら、痛みを感じることはなかった。僕の中で痛みを感じるはずの柔らかい部分は、とっくの前に彼が全部持っていってしまったのだから。
(鉄ちゃん、待ってよ)
七年前の今の季節、夢のように死んでしまった一人の少年。戦乱の真っ只中、その死はあるいは取るに足らないちっぽけなものなのかもしれない。それでも、同じくらいちっぽけな僕の脳みそには今でも彼が住む場所がある。
彼と初めて会ったのは京都の、鬼の住処と人々に恐れられる新撰組の屯所だった。僕達は両長召抱人、早い話が小姓で、幹部の身の回りの世話をするのが仕事だったし、何より回りがみな壮年の大人ばかりだったから、僕の話し相手は自然に彼、玉置良蔵になった。
「市村くん、待ってよ」
副長の言いつけで使いに出る時など、決まって彼の口から出る言葉だ。僕は別に意地悪してるつもりはないのだけど、いつも僕が先に支度が出来上がって、玉置を置いてけぼりにする形になってしまう。玉置は育ちがいいんだか生まれついての性分なのか、少し抜けてて鈍くさい。よくこれで新撰組に入れたものだと、隊士の冗談の種になったりしてるのだが、おそらく本人は気づいていないだろう。
立ち止まって待っててやると、嬉しそうに笑って駆け寄ってくる。今にして思えば、僕は無意識のうちに、それが見たくて本当は意地悪をしていたのかもしれない。
季節は秋から冬へ移り変わる頃。息を吸い込むと、そのきりりとした冷たさに肺が引き締まる。
ぴた、と小さくて温かいものが僕の頬に触れた。玉置の手だった。
「また殴られたの? 今度は何したの」
「副長がこっそり俳句作ってるって知ってる?」
「へ?」
玉置の目が点になった。
「あれじゃ恥ずかしいよ。隠す気持ちも分かる」
「‥‥‥まさか、それを?」
僕は無言で頷いた。副長の部屋の掃除をしてる時に、たまたま見つけた句帳を盗み読みしてたら、見つかって、問答無用で蹴っ飛ばされた。それだけのことだ。今、玉置が触れてる頬は畳に擦って出来た傷だが、本当のところ痛いのは蹴られた尻だったりする。
「市村くん、そろそろそういうこと止めないと切腹させられるよ?」
玉置が心配顔で言うのがおかしかったが、僕は声をあげて笑うことはしない。
「できるもんか。大体、罪名は? 笑えるものを見て素直に笑えば罪になるなら、世の芸人は食いあげだろ?」
「君に怖いものなんてないんだね」
「僕にしてみれば、副長の何がどう怖いんだか分からない。あんなに扱いやすい人、いないと思うよ」
実はこの句帳をネタにして、当分からかい倒してやろうと思っているが、それを玉置に言うつもりはない。小うるさい小言を食らうのがオチだ。
今日の使いの内容は、町医者の南部先生から薬をもらってくることだ。門を潜って中に入ると、すっかり顔馴染みになった女中の大柄なお姉さんが華やいだ声をあげる。
「あらあら。今日は恋人を連れてきたの?」
本気で言ってるのか冗談なのかは判定が難しいところだ。僕自身、時々女の子に間違われることがあるけど、玉置はその僕でさえ「うわぁ」と思うほどの、冗談みたいな女顔だ。骨が細いのか華奢な体つきをしてるし、声変わりもまだだ。玉置の尻を狙ってる隊士の名前を僕は十人は即座に挙げられる。
「玉置、挨拶しなよ。二度目にお目にかかります。新撰組両長付の玉置良蔵ですって」
二度目を強調して言ってやると、お姉さんはケラケラと笑った。
「嫌や。堪忍、男の子だったのね。あんまり可愛いから、女の子だと思ったんよ。君、大きくなったら役者さんみたいないい男になるわ」
お姉さんは、僕の後ろでモジモジしている玉置の頭をくりくりと撫でると、僕に豆菓子の包みを押し付け、南部先生を呼びに母屋へ入っていった。
南部先生から僕達が受け取ったのは、労咳の薬である。僕達は薬を持って屯所に戻り、離れの部屋を訪ねた。そこまでの通路は厳重に見張られているのだけど、僕はとっくに別のルートを見つけている。土方副長に挨拶を済ませ、玉置の手を引いて、屯所の裏側の塀の前で、僕は最終確認とばかりにきょろきょろと首を動かした。よし、尾けられてないし、誰にも見られていない。
塀のこの部分は、少し壊れてて、足を引っかけられる部分がある。僕は玉置を抱き上げるようにして塀の上に押し上げると、自分もよじ登った。
内側に降り立つと、やはり、その人は待ち構えていたように、縁側に腰掛けて、困ったような笑顔で僕達を見ていた。
「土方さんに怒られても知りませんよ」
「沖田先生が一緒に怒られてくださればいいんです」
僕は飛びつくようにして、沖田先生の側へ駆け寄った。今は労咳で体を病んでいるけど、倒れる前は無敵の剣豪だった人で、僕はずっと彼に憧れていた。兄に連れられるようにして新撰組に入隊した僕だけど、沖田総司の存在なしに僕、市村鉄之助の入隊はありえなかった。
「この前の話の続き、聞かせてください」
玉置は沖田先生の隣に寄り添うようにして腰を降ろした。この前の話というのは、土方副長が子供の時の(と言うか、僕達くらいの年齢の時の)話である。僕はそんなものよりも、沖田先生が池田屋に斬り込んだ時の話とか、同じ土方副長の話でも、思いっきり恥ずかしい話の方が聞きたい。
「どこまで話しましたっけ」
「副長が奉公先から追い出されるまでです。でも、沖田先生。副長のご実家はすごく裕福だったのに、どうしてそんな小さいうちから奉公に出なければならなかったのですか?」
「土方さんは末っ子でしたからね。早めに自立させようと思ったのでしょう」
「家族なんだから、一緒に暮らせばいいのに」
玉置がそう言うと、沖田先生はクスリと笑った。沖田先生自身、口減らしのために実家を出されて近藤局長の道場に出されたのだということを僕は土方副長から聞かされたことがある。玉置は知らないのだろう。内緒にすることでもなかったけど、たまたま話題に出なかったんだ。
「実は、土方さんのお母上が労咳だったんですよ。小さい土方さんにうつらないようにという配慮もあったのかもしれません」
「私は沖田先生とお話するのを止めませんからね!」
玉置は途端に顔をひきつらせて、沖田先生の腕に絡みついた。
僕達、年少の隊士は沖田先生に近づくのを禁じられている。僕達にそれを禁じた土方副長が考えてることは、彼を心配した家族と同じことだろう。ただ、僕達がどのくらい沖田先生を慕っているかは把握していなかったのだ。
「私はもう十五です。うつりません」
沖田先生は今度は声をあげて笑い、玉置の髪をくしゃくしゃと撫でた。彼の髪は真っ直ぐで滑らかで、どんなにくしゃくしゃにしてもするっと元に戻ってしまう。平安絵巻の姫君みたいな髪だけど、彼本人は結いにくいと言って、あまり気にいっていない。
「玉置の甘えん坊」
ちくっと言ってやると、玉置は沖田先生の腕にしがみついたまま、キッと僕を睨んだ。
「羨ましいなら、右腕が空いてるけど?」
「僕はもう十五だよ」
憎たらしい顔で笑ってみせると、玉置の顔にサッと血の気がさした。僕ほど口が回らない彼に残された手札はもう泣き出すくらいしかない。
「鉄之助くん、良蔵くん。お止めなさい」
沖田先生は空いた方の右手で僕を引き寄せた。
「あなた達二人とも、大好きですよ。だから、もうここに来てはいけません。次に来たら土方さんに言いつけて、二人とも新撰組から追い出してもらいますからね」
久しぶりに肩に感じた沖田先生の指は、前よりも細くなって、石みたいに硬くなっていた。
僕には兄がいる。七つも年が離れているけど、兄・辰之助は僕を一番の親友だと言ってくれたんだ。僕がよちよち歩きのチビだった時の話である。でも、僕はずっとそのつもりで兄の側にいた。だから、兄が上洛すると言って家を出た時も当然のようについてきたんだ。
「今、何て?」
正月三日に始まった天下分け目の戦に破れ、散り散りになって逃げ戻る最中のことだった。兄に呼び出された僕は、戦の疲れから聞き違いをしたのだと疑わなかった。
「新撰組を抜けるんだ。今なら混乱に乗じて、逃げられる。こんな時だ。追っ手を出されることもないだろう」
「こんな時だから、一人でも必要なんじゃないですか!」
僕は兄に掴みかかった。聞き違いなんかじゃなかった。兄は、兄の口は確かに僕に脱走を持ちかけていた!
「本気で言ってないでしょうね、兄上! そのような言葉、兄上の言葉とも思えない! 僕は残ります」
「落ち着くんだ、鉄之助。このまま新撰組にいたところで、先がないことくらい、聡いお前が分からないはずはないだろう」
決別の時が来た。
一番の親友だった大好きな兄上。生まれた時から、ずっと一緒だったのに。その僕より大きな優しい手に引かれて、僕は生きてきたんだ。
「副長にも誰にも言いません」
僕はそれだけ言い捨て、走り去った。兄は追ってこないだろう。親友だったんだ。僕が言い出したらきかない、救えない頑固者だということをよく知ってるはずだから。
キャンプに戻ると、誰もが疲れきった顔で死んだように眠っていた。
夜を越すごとに隊士の数が減っていってるような気がするのは、気のせいではないはずだ。脱走する者、弱って死んでいく者。どっちが多いだろうか。
適当に平たい場所に体を投げ出すように横になった。深く息を吸うと、濃厚な血のにおいがした。
(新撰組には先がない)
百も承知だ。でも、僕達は先のために戦ってきたわけじゃない。
一度堰を切った涙は簡単には止まらなかった。
幕府は連合に恭順を示す姿勢を取った。いや、上様がと言った方が正確かもしれない。何にせよ、幕府の厄介物となった新撰組は江戸を追われた。惨めな道中だった。もはやいくつもない、味方をしてくれる藩を頼りに渡り歩き、彷徨うように北へ北へと流れていった。
季節は初夏。僕達は最後の抵抗勢力である会津にいた。
「‥‥‥‥‥‥」
また、僕の下駄がなくなってる。
出かけようとすると、七回に四回くらいの割合で履物がなくなっている。僕は小柄な方で、足も見合った大きさだ。他の隊士はそれこそ腕自慢の豪傑揃いだから、間違って履いていった可能性はゼロに近いだろう。
「鉄ちゃん」
遅れて来た玉置が小さく首を傾げた。
「また?」
「‥‥‥しょうがないよ。いいさ。足が二本揃ってれば人間の体は前に進めるようになってるんだから」
「バカなこと言って。土方先生に相談しよう? 嫌がらせに決まってる。鉄ちゃん、ものの言い方とかきついから、陰で生意気だとか言われてるって相馬さんが言ってたよ」
「本気で言ってる?」
「僕はいつでも本気です」
「‥‥‥あっそ」
僕はそれ以上何も言わず、玉置の履物を引き寄せた。彼が何か言う前に、僕はそれを履いて、玉置の体を掬うように抱き上げた。
「きゃっ!? ちょっ、鉄ちゃん! 何考えてるの!?」
「雄弁な抗議だろ? 君にもいい加減、分かってほしいしね」
「はぁ?」
玉置をお姫様抱っこして、屯所を歩き去る僕は格好の見物の的だった。じろじろこちらを見てくる隊士の中で、険悪な顔をしてる奴らの顔と隊と名前を素早く一致させ、頭の中の帳簿に書き綴り、そいつに思い切り舌を出してやる。
考えてみるといい。くそ狭い屯所の中で、ン百の健康な男が生活してるのだ。会津に到着して、飢え死にの危険からはとりあえず解放されたもの、更に厄介で面倒な課題は残されたままだ。女である。血の気の多い連中が多数を占める中、それは思ったよりも切実な問題だった。勿論、戦場に女などいるわけはない。隊士同士で念約を交わす者もいる。僕も今週で両手に余る恋文を破り捨てた。しかし、そんなのは本当にマシな方だ。タチの悪いのになると、見目が良くて力の弱い者をよってたかって嬲りものにしたりしている。従順な性格で、清楚な容姿の玉置など格好の標的だ。土方先生や僕の目が光ってなかったら、どんな目に遭うか想像するだけで恐ろしい。
(いっそ、お前ら付き合っちまえ)
土方先生の妙案だった。玉置は僕の恋人ということにすれば、彼をつけ狙う輩も減るだろうと。確かに効果はあった。恋人役の僕の存在の力ではなく、恋人役の僕が直に仕えている鬼副長の圧力のおかげだとは思うけど。玉置にこの話をしたら、大笑いして「じゃあ、市村くん。これから鉄ちゃんって呼ぶからね」‥‥‥ああ、ぐったり。
一難去ってまた一難。玉置を色欲の慰めにしようとしてる奴らは大人しくなったけど、手は出さずに秘かに彼を心のオアシス(ぷぷー!)にしていた面々は一斉にその怒りを僕にぶつけだした。バリエーションに富んだ嫌がらせの数々に辟易させられ、稽古の時などは、本気の殺意すら感じる始末だ。
執拗な嫌がらせに耐えながら、僕は黙々と小姓の仕事をこなした。やがて、会津が降伏し、幕府軍の生き残りが蝦夷へ流れていく頃には、何事もなかったように玉置ファンの隊士達が僕をいびるのを止めた。
ぱっと目の前が暗くなる。背後から目隠しをされたようだ。
「鉄ちゃん、見つけた」
もう恋人ごっこはいいって言ったのに。
このこっぱずかしい呼び名だけは、へんてこな記念碑のように残ってしまった。
玉置は手先が器用である。料理も掃除も洗濯も僕の方が一枚も二枚も上手だけど、裁縫だけは玉置が四枚ほど上手だ。
「はい。おしまい」
僕の袖のほころびを魔法でも使ったようにきれいに直し、彼はくすぐったそうな顔をした。いつも僕のおんぶに抱っこだから、僕のために何かするのが嬉しいのだと思うのは、まるっきりの自惚れでもないだろう。
今、僕達がいるのは函館の五稜郭。幕府軍最後の砦だ。ここを落されたら、もう後はない。
「じゃあ、僕、行ってくるね」
玉置は上着を羽織り、相馬さんに連れられて出ていった。今日は診察の日である。
十日ほど前のことだった。玉置が血を吐いて倒れた。最初は疲れが出たのだろうと楽観していたが、医者の診断は労咳だった。沖田先生の命を奪った病である。
土方先生が何度も玉置に江戸へ帰るように、それこそ懇願するように説得しているのを僕は何度も耳にしている。でも、どうしてか。玉置は頑として首を縦に振らなかった。いつもなら、土方先生がちょっと声を荒げただけで、すくみあがり、何も言わないうちから謝りだす玉置がだ。しまいには、腹を切るとまで言い出す始末。土方先生は折れないわけにいかず、僕に玉置をしっかり見るように言いつけた。そして、玉置には隊に残る条件として、定期的に医者の診察を受けることと、仕事がない時は安静にしていることを厳命した。沖田先生のことがあったからだと僕は思った。大した手当てもしれやれないまま、敵のひしめく江戸に置いてきてしまった。土方先生は口にこそ出さないけど、ずっとそれを悔やんでいる。
蝦夷での僕の日常は、小姓の雑務をこなす他は概ねのんびりしたものだった。そろそろ戦闘訓練に加えてほしいと嘆願しているのだけど、土方先生はそれだけは絶対に認めてはくれなかった。口の悪い隊士などは「そりゃ、お前。色小姓にでもされるんじゃねぇか」と、からかいの種にしてくるが、土方先生は男と同衾するくらいなら死ぬと言っている。
庭で雪かきをしていると、野村さんが声をかけてきた。野村利三郎さんは、僕と同じ小姓分ながらも、いざ戦いが始まれば、ちゃんと参加させてもらえる一人前の「隊士」だ。年齢だと僕は思っている。僕は十六になったばかりだけど、野村さんは僕より九つ上だ。
「鉄は俺の組に入るだろ?」
雪合戦のことを言っているのだとすぐに分かった。
少年少年した面差しを悪戯っ気たっぷりにきらめかせ、野村さんは僕の返事も聞かずに、向こうにいる仲間達に手を振った。
「名軍師を引き抜いたぞ! いつまでも中島のやつには好きにはさせねぇ」
結局僕は雪合戦に参加した。結果はこちらの作戦勝ちだった。三列に並んで、前列が持ち玉で攻撃し、なくなったら後ろの列と交代。前の列が攻撃してる間に、雪玉を作ることにより、体力の保持と攻撃の持続を測るという。信長公が火縄銃を実戦投入した時に、使った戦法だ。
診察から戻ってきた玉置にこのことを話すと、彼は少し不機嫌になった。今も布団に縛られるように寝かされている彼だ。仲間外れにされたような気持ちになったのかもしれない。迂闊だった。
「玉置もさ、体がよくなったら一緒にやろうよ。次はもっとすごい作戦考えてるんだ。一斉攻撃を食らった時の島田監察の顔、見ものだよ」
我ながら、完璧なフォローだと思ったのに。
「‥‥‥野村さん」
既に布団に半分くらい顔を鎮めてしまった玉置は、ぼそりと意外な人物の名を口にした。
「この前、僕が雪かきしてた時は、誘ってくれなかった」
垂れ気味の大きな目に、じわりと涙の玉が浮かんだ。
野村さんが玉置を苦手がっているのを僕は知っている。「暗そうで、何かウザい」って。そして、今、玉置がその野村さんに秘かな想いを抱いていることを僕ははからずも知ってしまった。
「ああ。野村さん、実は新撰組に入る前から僕とは顔見知りだったんだ。ほら、言葉の抑揚が似てるでしょ? あの人も大垣の出でさ」
玉置を気遣っての出任せではない。それは気持ちだけで、言ったことは本当だ。家も近かったし、あるいは僕が覚えてないだけで、遊んでもらったことくらいはあったかもしれない。
「野村さんは、鉄ちゃんのことは鉄って呼ぶのに、僕のことは、そこのチビとしか呼んでくれない」
「人の名前がなかなか覚えられないんだよ。伊庭先生と人見さんを間違える人なんだから」
「何でも知ってるんだね! 知らないのはホクロの数くらいのものでしょう!?」
僕の努力も空しく、玉置は癇癪を起こして、亀みたいに布団の中に引っ込んでしまった。
でも、野村さんが見舞ってくれたら、すごく喜ぶんだろうな。接吻でもしたら、労咳なんか治ってしまうんじゃないか? ‥‥‥どうしてか、そう思ったら急に僕もムカっ腹が立ってきた。それが悋気と呼ぶものだということが分かる年齢には僕もなっている。
そうだ。次の雪合戦は中島さんの組につこう。最初は野村さんの組にいて、土壇場で寝返ってやる。
玉置の存在が単なる仲のいい友達でなくなったことは、僕の毎日にとっては間違いなく不幸なことだった。割と近しかった野村さんの存在自体が我慢ならないものになりつつあるし、何よりも玉置の側にじっといるのが辛くなってきた。廊下ですれ違いそうになる時など、思わず逃げ出したくなる。
珍しく晴れた日の昼下がりだ。僕は土方先生に付いて、写真屋にいた。先生の写真撮影をするのだという。筆も絵の具も使わずに、目の前にある人物を姿そのままに紙に焼き付けるなどということは、ちょっと前までは考えられなかった。
「鉄、お前も撮ってもらえ」
撮影を終えた土方先生は、僕を無理矢理カメラの前に引っ張ってきた。
「へぇ。こりゃ可愛いお小姓さんですな」
いっそ女装でもさせますか?と気色の悪い冗談を飛ばしながら、そのカメラ屋はレンズに僕の姿を焼き付けた。この小さい姿が、僕が成長して、大人になって、ヨボヨボの爺さんになってもずっと残っていくのかと思うと変な気持ちになる。
(玉置はこういうの嫌がるだろうな)
人一倍怖がりだから、誘ってもなかなか首を縦に振らないだろう。だから土方先生も彼は連れてこなかったに違いない。でも「鉄ちゃん」って笑ってくれる今の玉置の姿をずっと手元に残せるなら、僕はこれから先ずっと土方先生をからかったり苛めたりしないと誓える。
やがて、出来上がった写真が届けられた。写真の中の土方先生は、僕が知ってる通りの土方先生だ。洋装の軍服に身を包み、きりっと口を引き締めている。改めて見てみると、土方先生を美男子だと褒めそやす人の気持ちもちょっとだけ分かる。一方、僕の方は全然僕じゃなかった。鏡で毎日見てる顔なのに、全然違う人みたいだ。
玉置に見せると、大喜びだった。
「小さい小さい鉄ちゃんだ。今にもちょこまか動きそう」
咳をしながら笑った。
「そんなもんで良かったら、あげるよ」
思いつきで出た言葉だったけど、口にして初めて、僕はそうしたくて仕方なかったのだと分かった。
「本当? ありがとう」
玉置は写真を宝物のように抱き締めた。彼の胸に抱かれてるのは写真の僕のはずなのに、本物の僕の体も何だかくすぐったかった。
「玉置も写真、撮るといいよ。思ったより、怖くなかったよ。今度、大鳥先生が撮影に行くって言ってたし」
玉置も自分の写真を撮ってもらったら、きっとそれを僕にくれるだろう。進んでくれなくても、僕が欲しいと言えば、譲ってくれるはずだと僕は秘かに計算していた。
「大事にしてくれる?」
唐突に、本当に唐突にぶつけられた言葉は、僕の心臓を苦しいくらいに締め付けた。
「‥‥‥大事に、するよ」
少し噛みながら、僕はまともに玉置の顔を見られなくなっていた。玉置の足を温めている布団の模様を目でなぞっていた。
僕達は初めて口付けを交わした。玉置はさっきまで菓子でも食べてたのか、甘い味がした。
「言い忘れてたけど」
ようやっと互いの顔が見られるくらいに距離が離れてから、彼は言った。
「鉄ちゃんがすごく大好き。世界で一番好きだよ」
唇に残る甘さに、ずっと欲しくてたまらなかったその言葉に、僕は酔った。
僕達は秘密の恋をした。
時間があれば玉置の側へ行き、あれこれ話した。手を握り合って、接吻をした。この頃は病気がうつると言って玉置は嫌がるけれど、僕はお構いなしだった。逆に僕の元気を玉置にうつしてやるつもりだった。ともすれば消えてしまいそうな玉置を、この世に繋ぎとめる鎖になりたかった。
それでも、病は日に日に悪化していった。
食事もほとんど喉を通らず、毎晩熱を出した。徹夜になる彼の看病の役目を、僕は誰にも譲らなかった。土方先生が心配したけど、聞く耳などはなからない。しまいには土方先生と伊庭先生の二人がかりで僕を玉置の部屋から引きずりだしてしまった。
「市村に田村、玉置の部屋は出入り禁止だ。破ってみやがれ。箱詰めにして、江戸に送り返すからな」
土方先生なら、やりかねない。でも、こっちだってもう子供じゃない。沖田先生を一人きりで江戸で死なせてしまった土方先生なのに、どうして僕の気持ちが分からないんだ。僕が土方先生を心底憎んだのは、この時が最初で最後だった。
何事も見切りをつけるのが早い田村は大人しくしてたけど、諦めの悪い僕は十日もしないうちに、玉置の部屋へ忍び込む道をいくつか見つけた。誰にも内緒で会いにいった。玉置が嬉しそうな顔をして僕を迎える限り、止めるつもりはなかった。
「鉄ちゃんはいつも、どこから来るの?」
常々、玉置は不思議そうな顔をして尋ねてくる。僕はニヤニヤしてはぐらかした。余計な心配をさせたくなかった。
「君が会いたいって思ったら、会えるようになってるのさ」
てっきり受けると思って言った冗談なのに、玉置は突然泣き出した。
「鉄ちゃん‥‥‥」
迷子の子供のように、玉置は何度も何度も僕の名前を呼んだ。
「もし、僕が死んで生まれ変わっても、きっと僕を見つけてね」
残酷な約束だった。でも、それが支えになるならと、僕はしっかり頷いてみせた。ただ、一方で、玉置が生きるための努力を止めてしまうのではと不安にも思った。
「また来るよ。お土産は何がいい?」
涙に濡れた頬に何度も口付け、僕はつとめて明るい声を出した。
「雪うさぎ」
玉置がそう答えるまで、僕はこの部屋に窓がないことを気にしていなかった。
「お前ら、どこまで行ってるの?」
朝、井戸で顔を洗ってる時に、野村さんがそう聞いてきたのに、僕は世界が引っ繰り返るほどの衝撃を受けた。
「何のこと?」
「とぼけるなよ。玉と出来てるんだろ?」
一応義務としてとぼけてみせた僕にニヤニヤと笑いかけ、野村さんは更に顔を近づけてきた。
「仕事がない時に、市村鉄之助の姿が道場にない。あれだけ戦闘に加わりたがっていた市村が稽古以上に執着するものは? 女ができた! いや、この辺の女はババァばっかだし、一番近い娼舘は早馬で一刻以上かかる。隊士の中にいい人‥‥‥まさか土方先生? ありえねぇ。市村を手篭めにしようとしたのなら、あの人がまだ両足で地面に垂直に立っているのはおかしい。どうだ? 完璧な論理展開だろ」
「ま、及第点だね」
僕は素直に認めた。いずれ、この幼馴染には話そうと思っていたのだ。
「で、どこまで行ってる?」
しつこく聞いてくる野村さんに、僕はひそひそと答えた。
「接吻までだよ。僕はまだ十六なんだから。別に恥ずかしくないでしょ」
とは言っても。その通りですよ‥‥‥僕だって十六の生身の男だ。玉置に無防備な姿をさらされる度、欲しくてたまらなくなる。腕ずくで抱きすくめれば、玉置は素直に僕に身を任せるだろう。でも、それだけはしちゃいけない。玉置がいいって言うまでは、絶対に。
「お前、手が早そうだと思ってたけどなぁ」
野村さんがさぞ意外という顔をしたのに、僕は心底むかっとした。つくづく、この無神経さは切腹に値する。
「そーですか」
僕は愛想のない返事をして切り上げた。早くこの男とのこの会話を終わらせたかった。
夢に出てくる玉置は従順なくせに欲しがりで、恥ずかしがるくせに、どこまでも乱れる。そーだよ。十六の男がスケベな夢見て何が悪い。もう、今日は本物の玉置には会わないことにしよう。妙に勘が鋭い玉置に、今の僕の頭の中を覗かれるのはぞっとしない。
それでも、間の悪い時というものはあるもので。
小康状態に回復した玉置が、土方先生に外出の許可をもらって僕の目の前に現れたのだ。
「せっかくだ。今日一日、暇をやるから町でも歩いてこい」
土方先生はそう言ってくださったけど、僕は嬉しさ半分の後ろめたさ半分の複雑な気持ちだった。
休暇をもらった玉置と僕は、手をつないで函館の町を歩いた。
異国の文化が混じっているこの地では、そういったことが全然不自然ではない。ちらっと横をみると、濃厚な接吻を交わしている男女の姿があったりする。
玉置の方を見てみると、ちらちらと接吻中のアベックを迷うように見ている。彼が僕に同じことを期待していると期待するのは間抜けな考えだろうか。
「行こう」
僕は若干強く彼の手を握り、その場から遠ざかった。
景色の綺麗な場所がいい。それで、なるべく風の当たらないところ。何よりも、完全に二人っきりにならないところだ。
「どこか行きたいところある?」
とは言っても、玉置は函館の街なんか歩いたこともないからな。返答に困るだろうかと思ったのは取り越し苦労だった。
「ここがいい」
きゅっと僕の手を握る手に力を込めた。
「鉄ちゃんの隣」
返答に困るのは僕の方だった。ひどく心地がいい息苦しさを感じて、窒息しそうになる。
僕は高台の景色の綺麗な場所を選んだ。ベンチに並んで腰掛けて、言葉を交わすわけでもなく、ただ温め合うように寄り添った。
「玉置、俺さ」
日暮れの帰り道、僕はずっと心に決めていたことを初めて口に出した。
「この戦に決着がついて、もし生きていられてたら、医者になろうと思うんだ」
その続きは言う必要がなかった。
玉置は自分が世界で一番の幸せ者だと言わんばかりの顔をして、僕の首っ玉に抱きついてきた。
「なれるよ。鉄ちゃんなら、どんな病気でも治せるお医者さんになれる」
今朝に見知らぬ恋人達が接吻を交わしていた、ちょうど反対側の通りで、僕達は彼らと全く同じことをした。
玉置は相変わらず寝たり起きたりの生活を強いられていた。
僕と田村は榎本総裁の命令で異人の先生(名前が何回聞いても覚えられない)の授業を受けさせられていた。函館政権が独立した時のために、猫の手を猿の手にしようという試みらしいけど、そんなものは僕には関係なかった。今の僕には学問を吸収できる場所が必要だった。
「市村って頭いいよねー。僕、もう何がなんだか全然さっぱり」
授業が終わると、田村はへらへらと頭をかいて、落書きだらけの教科書を開いてみせた。僕にしてみれば、教官の目を盗んであれだけの落書きを書き込む方が難しいように思えるけど。田村銀之助は春日先生の養子になることが決まっている。土方先生は驚いたようだったけど、家族として暮らすなら、生意気で扱いにくいと評判の僕よりも、ボケボケでも一緒にいて疲れない田村の方が適性があるだろう。(それとも僕が出された方が嬉しかったのか?)
「あのさ、あのね」
田村はぴこぴこと僕の周りを跳ね回るようにして、まとわりついてきた。
「野村さんの噂、聞いた?」
「源九郎義経の血流だって話? ああ、一応は本当らしいよ。でも、源義経の品格を守る為には口をつぐむべきだとは思うね」
「違うよ。え? てか、それ初耳なんだけど。マジなの? あ、そうそう。それじゃなくて」
田村は僕の耳に口を近づけた。
「玉置と恋人同士だって知ってた?」
「そんなわけないだろ!」
思わず声を荒げる僕の気迫に驚いたのか、派手に尻餅をついた田村を見下ろし、僕ははっと我に返った。
「ああ、ごめん。悪かったよ。大丈夫かい?」
「う、うん‥‥‥こっちこそ。市村、こういう話って嫌いだよね」
「そういうんじゃないよ。野村さんが好きな女の人のことで悩んでるって、この前打ち明けられたからさ」
「なるほどねー。市村、それって女の人じゃなかったんだ。男だけど、下手な女の子より全然可愛い玉置のことだったんだよ」
僕の口から出任せに見事に乗ってきた田村の話を聞き続けるのには、相当の忍耐力と集中力が要った。
「玉置の部屋が出入り禁止にされたことがあったでしょ? でもね、野村さん。人目を盗んでずっと通いつめてたんだ。玉置は前々から野村さんのことが好きだったみたいだし」
もう限界だった。
僕はそれからどこをどうして玉置の部屋に辿り着いたのかは分からなかった。ただ、自分のあまりの間抜けぶりが、愛してやまなかった玉置の裏切りが許せなかった。気が変になりそうなくらいの憎しみだった。
そうだ。僕はいつだって玉置の部屋に忍び込む時には、周囲を警戒して誰もいない時を見計らって行った。野村さんだってそうしてたはず。僕達、間男二人がかち合うことは絶対にない。
踏み込むようにして部屋に上がりこみ、ぽかんとしている玉置を見つめる僕の顔はさぞ滑稽だったに違いない。
「鉄ちゃん?」
どうしたの、なんて言われた日には、僕は彼に何をするか分からなかった。でも、幸か不幸か、彼はその禁句は口にしなかった。
「野村さんもここに来てたんだって?」
僕はつとめて落ち着いて言った。玉置は「あ」という顔をしたけど、素直に白状した。
「うん。僕を心配して、来てくださってた」
「それで」
僕は玉置を引き寄せて、壁際に追いつめた。
「僕の間抜けぶりを笑っていたわけだ? 聡明ぶった優等生の市村に痛い勘違いをされて、とっても困ってましたって!」
「鉄ちゃん、落ち着いて‥‥‥お願い。僕の話を聞いて」
「聞くべきところは全部聞いたよ!」
もしも、玉置が事前に告白してくれてたら、確かに僕は野村さんを憎んだだろうけど、それでも、許せないことはなかった。今、彼が愛してくれてるのは他でもない僕だと信じられるから。
「野村さんとは本当に何でもないの! 確かに前は憧れてたけど、本当に何でもないんだから! 信じて」
違う。僕が欲しいのはそんな陳腐な弁解じゃない。
「玉置、もしかして僕がどうして怒ってるのか分からない?」
両腕と壁の間に、彼を閉じ込めるようにしながら、僕は怖くてたまらなかった。
「君がそのつもりなら、僕だって覚悟がある。しらばっくれるなら、それでもいいさ。分からせてやるだけだから」
「待って。止めよう? こんなこと、野村さんは‥‥‥」
「あいつのことは言うな!」
無理矢理、唇を奪って黙らせた。抱き締めた体の震えから、彼が泣いていることが分かる。その様がどれだけ僕を誘うか、彼には想像もできないに違いない。
「嫌だ‥‥‥お願い、鉄ちゃん。止めて。何でも言うこと聞くから」
「遅いんだよ。もう」
初めて目と目が合って、僕はようやく自分を怖がらせているものを確認した。怯えきった玉置の目。そこに映っていない僕の顔‥‥‥でも、それでも構わない。
彼が真実、僕に望んでいるものが何か。そんなものも、もうどうでもいい。
「鉄ちゃん」
「鉄ちゃんなんて呼ぶなよ。もう‥‥‥」
再び唇を合わせた時には、もう玉置は震えてはいなかった。
ようやく、捨てることができる。出会った時から玉置のいい友達で、仲良しで、恋仲になってからも、寸毫たりとも彼を傷つけることをしなかった「優しくて頼りになる鉄ちゃん」の顔を。
彼の香りの中で眠りに堕ち、再び目が覚めた時、僕は未だに夢の続きの中にいた。
触れられない程すぐ近くに、白い寝顔がある。涙の筋跡に、そっと舌を這わせたが、彼は
ぴくりとも動かなかった。
玉置にひどいことをしてしまった。正気に戻るにつれ、取り返しのつかない罪悪感が僕を苛んだ。彼はとっくに僕を許してくれている。まるで、それが一番僕にダメージを与えるということを知っているかのように。
「ねぇ、鉄ちゃん。また、来てね。本当だよ」
帰り際、彼を抱く前までは言う必要のなかった言葉を、彼は口にするようになった。
僕自身、玉置の部屋に通う足が遠のきつつあることは否定できない。いや、玉置に会うのが苦痛ですらある。離れた場所で、僕の中に住んでいる玉置の幻と触れ合う方が安らげるんだ。自分でも分からない。玉置を愛してる気持ちに偽りはないし、現実の玉置も幻の玉置も僕を慕ってくれているのに。
今や、僕が彼の部屋を訪ねるのはもう贖罪のため以外のものではなかった。彼もそれが分かってきたのか。無理に引きとめようとはしなくなってきた。
恐れていたのか、待ち焦がれていたのか分からないその日は遂に訪れた。透き通るような冷たい冬の日、玉置は息を引き取った。
眠っているような顔だった。いつかの夜、僕の腕の中で見せていた白い寝顔そのままだった。伏せたままの長い睫毛が今にもぴくりと動いて、「鉄ちゃん」って意味もなく呼んできそうで。‥‥‥そんな幻想を抱くのは辛いはずなのに、止められない。
玉置の亡骸にとりすがって、狂ったように泣き叫ぶ田村の背中を、僕は冷めた目で見ていた。僕の目は泣かなかった。心も痛がらなかった。そんなものはないからだ。僕の目は玉置を見つめるための目で、心は彼を愛するためだけのものだから。彼がいなくなった今、そんなものは、そんなことは存在しない。
葬儀は相馬さんが取り仕切った。僕はその指示に従って、淡々と雑務をこなした。田村はボロボロに泣き疲れて使い物にならない。野村さんは最後まで姿を見せなかった。
「市村くん。ちょっといいですか」
相馬さんが僕を呼びとめて、差し出したのは一枚の写真だった。
説明の必要はない。僕の写真だ。玉置にあげた一枚きりの。
くしゃくしゃになっていた。ずっと握り締められていたかのように。
相馬さんは、それを握っていた玉置の指を開いて、それを取り上げたのだろうか? その様を想像すると、むっと吐き気がこみあげてきた。
「持ち主に返してあげてください。それは玉置のです」
「分かりました」
僕の写真は、玉置の亡骸と一緒に灰になった。
澄み渡った冬の空に登っていく白い煙を見上げながら、僕はようやく玉置にさよならと一緒に、愛してるの一言を告げることができた。
京都にいた頃、こうして沖田先生を見舞いに行っていたことがひどく遠く感じられる。
雪ウサギを抱いて、塀を乗り越え、僕は一直線に彼の待つ部屋へ走った。
今日は玉置は起きていた。
「鉄ちゃん、それ何?」
僕が抱いているつがいの雪ウサギを指して、玉置は喉を鳴らして笑った。
「ありがとう。まさか本当に‥‥‥ううん、ありがとう」
布団の中から手を出して、玉置は雪ウサギの鼻を撫でた。すっかり肉のなくなったその指先を握り締める勇気は、今の僕にはなかった。
「どっちが僕?」
無邪気な声で、玉置は聞いてきた。咄嗟に意味が分からなかったけど、すぐにつがいの雪ウサギのことを言っているのだと分かった。僕は特に意図があって二匹つくったわけではなかったのだけど、玉置はそれが僕達二人を模しての二匹だと思ったらしい。
僕は小さい方の雪ウサギを選んで、こっちと答えた。すると、玉置は自分役の雪ウサギを持ち上げて、その冷たい鼻面を僕の唇に押し付けた。
「本物の方がいい」
僕がそう言うと、玉置は困った顔をしたけど、僕が本気だということは分かったようだった。僕達はそっと唇を重ねて、手を握り合った。血が通った唇は温かかった。
それは悲しい夢だった。
END
お疲れ様でした〜。読んでくれてありがとう!