第1話「雨の戦場」
雨が、戦場を叩いていた。
重い。冷たい。止まらない。
天から叩きつけられるそれは、地面を抉り、血と混ざり、黒く濁った泥へと変わっていく。
踏みしめるたびに、ぬちゃり、と嫌な音が返る。
その中心に――女が立っていた。
銀の髪は濡れ、頬に張り付いている。
水滴が顎を伝い、落ちる。
呼吸は浅い。
視界の端で、刃が揺れた。
囲まれている。
王国の騎士。帝国の騎士。
互いに睨み合いながら、それでも同時に、一歩を踏み出す。
「囲め! 逃がすな!」
「殺すな! 捕らえろ! 価値が落ちる!」
「先に手に入れるのは我々だ!」
怒号。
金属音。
雨音。
すべてが重なり、耳の奥を打ち続ける。
(……うるさい)
身体が、重い。
肩が下がる。
足が沈む。
泥に引きずり込まれるように、感覚が鈍る。
次の瞬間――
衝撃。
剣が、身体を貫いた。
「……っ」
遅れて、痛みが弾ける。
腹の奥から、焼けるように広がる。
熱が、内側から這い上がってくる。
視界が白く、歪む。
――引き戻される。
現実に。
別の刃が、肩を裂いた。
槍が、脇腹を抉る。
背中に、鈍い衝撃。
衝撃。痛み。圧迫。
連続する。
何度も、何度も。
斬られる。
貫かれる。
それでも――
女は、死ななかった。
流れた血が、止まる。
裂けた肉が、音もなく閉じる。
軋んだ骨が、元の形を取り戻す。
皮膚が繋がる。
呼吸が、戻る。
「……今、治ったぞ」
「化け物か……!」
声が揺れる。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
濡れた前髪の奥で、瞳だけが動く。
右手の紋章が、淡く光った。
炎が、咲く。
――爆ぜた。
至近距離で膨れ上がった火炎が、兵ごと空気を焼き払う。
「うわあああッ!!」
最前列が崩れる。
焼けた鎧が地に落ち、泥を弾く。
「下がれ! 距離を取れ!」
後退。
乱れる陣形。
だが――
止まらない。
すぐに、次が来る。
同じ鎧。
同じ動き。
同じ声。
顔さえ、見分けがつかない。
(……終わらない)
左手を掲げる。
紋章が光り、風が唸る。
空気が歪み、圧が生まれる。
刃となった風が横薙ぎに走り、鎧ごと身体を裂いた。
血が、霧のように散る。
倒れる。
踏み越えられる。
また来る。
減らない。
増える。
同じ。
同じ。
同じ。
(……虫みたい)
数じゃない。
意思が、ない。
ただ向かってくるだけの“同じもの”が、絶え間なく押し寄せる。
炎を放つ。
風で裂く。
焼く。
斬る。
押し返す。
だが――
押し返した分だけ、また詰められる。
踏み込みが浅くなる。
腕が、鈍る。
反応が、遅れる。
横からの斬撃。
「……っ!」
避けきれない。
肩を深く裂かれ、身体が傾く。
さらに一撃。
腹に衝撃。
後ろへ押される。
足元が滑る。
踏ん張れない。
視界の端に、倒れた影。
女の傍らに――男がいた。
動かない。
上半身と下半身が、別々に転がっている。
血が、雨に流されていく。
それでも。
女は、そこから離れなかった。
踏み止まる。
身体を捻り、刃を弾く。
近づいた騎士を、炎で焼く。
足元に迫る影を、風で裂く。
倒れた身体の前から、一歩も引かない。
(……離れない)
理由は、分からない。
ただ――
そこに、立つ。
また来る。
また来る。
何度も。
何度も。
何度も。
膝が折れた。
泥に沈む。
手をつく。
冷たい感触が、掌に広がる。
呼吸が、乱れる。
胸の奥で、何かが溢れる。
押さえ込んでいたものが、崩れる。
言葉にならない。
形にならない。
それでも――
確かに、そこにある。
声が、出ない。
喉が、詰まる。
息だけが漏れる。
――違う。
こんなはずじゃない。
こんな。
こんなもののために。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
雨が視界を叩く。
それでも、目は逸らさない。
囲む兵たちが、再び詰めてくる。
剣。槍。紋章の光。
すべてが向けられる。
その中心で――
女は、叫んだ。
「――私はッ!!」
声が裂ける。
「私は……!!」
何度も斬られて。
何度も貫かれて。
何度も戻されて。
押し潰されて。
削られて。
それでも終わらない、この世界で――
「こんなもののために、生まれたんじゃないッ!!」
炎が爆ぜる。
風が荒れる。
渦を巻き、叩き潰す。
すべてを巻き込み、押し流す。
雨さえ――
一瞬だけ、消えたように見えた。
焼け焦げた匂い。
崩れ落ちる影。
静寂が、わずかに戻る。
その中心で。
女は、ただ息をしていた。
荒く。
重く。
壊れかけたまま。
それでも――
立ち続けていた。




