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第三話 サイン店店主ジェニー

1


 アクソード王国の王都ダイナオークスの繁華街の外れの、本通りの裏側のさらに奥にある、細い路地に面した目立たない場所に、〈ブルーインク〉という名のサイン店がある。

 店主はジェニーという名の若い女性だ。

 サイン店といえば、さまざまな造形の看板を作ったり、店の壁面に絵を描いたり、引き札と呼ばれる宣伝用の絵を作る仕事を思い浮かべるが、〈ブルーインク〉では、そういう仕事はしない。

 この店では、多種多様な名札を売り物にしている。

 また、レストランのメニューなども作る。

 最近では、貴族女性用の訪問名刺が静かに人気を呼んでいる。

 貴族が他の貴族を訪問するときには、前もって使用人が先方に赴くものだが、その際身分を証明するため、自家の家紋の入った貴金属の印章を持参する。ところが男性の場合はそれでよくても、女性の場合、貴金属の印章は大袈裟すぎる。だから家紋入りの封蝋を押した手紙を届けることが多いのだが、そんなものを用意するのは面倒だと考える女性は意外に多かった。

 とある筋からそんな話を聞いたジェニーは、押し花を押した美麗な紙に、独特の飾り文字で名前を書き記した名刺を作ってみた。

 これが先方に大変喜ばれ、多数の名刺の注文を受けた。押し花は一つ一つが違う大きさや形をしており、花の種類も多様であり、名刺は二つとして同じものがないのも気に入られたようだ。

 その貴族女性に別の貴族女性が名刺の仕入れ先を紹介して欲しいと頼み、結局五つの貴族家の女性用訪問名刺を今は請け負っている。もちろん家ごとにデザインや素材の系統を変えている。

 この貴族女性用名刺の利益はなかなかのものなのだが、実のところ、ジェニーは貴族とはあまり付き合いたいと思っていなかったので、この成り行きには少し不本意なところもある。

 べつに貴族に恨みがあるわけではない。それどころか、王宮と貴族たちには、とてつもなく大きな恩がある。ジェニーの技も、この店の資金も、王宮が与えてくれたのだ。

 ただ、王宮の筆耕室で七年も働いたことは、村娘に過ぎなかったジェニーの心に大きな負担となっており、もう一生お貴族様とは付き合わなくていい、という気分になっていたのだ。


2


 ジェニーは、王都ダイナオークスから三日の距離にあるライコミッチ村で、村長の六女として生まれた。

 六歳のとき、ジェニーは王都の商家に奉公に出された。年の離れた姉から、いい人を見つけるのよ、と言われたが、実際のところ、ジェニーが、王都で生きる場所を見つけられることを父母は願っていたのだと思う。もちろん、六歳に過ぎなかったジェニーには、いい人というのが何のことかさえ分からなかった。家族と離れるのは、とてもつらく寂しいことだった。

 奉公先では、給料はなかったが、住む場所と食事と服を与えてくれ、読み書きと計算を教えてくれた。読み書きと計算の覚えがよい者は、屋敷の下働きから商店の店員見習いに昇格するのだという。

 読み書きと計算の先生は、落ち着いた雰囲気の老婦人で、どことなく上品な感じのする人だった。木の板に蝋石で文字を書くその勉強に、ジェニーは夢中になった。言葉が文字になるという、この不思議な出来事は、小さなジェニーにとり、自分が魔法使いになったように感じられたのだ。計算のほうは苦手で、先生にしばしばため息をつかせた。

 すっかり文字を覚えたジェニーが、ペンとインクに並々ならぬ関心を抱いていると知った先生は、ペンとインクと紙を持参して、これで字を書いてみなさい、とジェニーに言った。

 そのときのことを、ジェニーは一生忘れないだろう。

 恐る恐るペンを持ち、インク壺にペン先を浸し、先生がやってみせてくれたお手本の通り、ペン先の腹で壺の口をなでて、余分なインクを落とす。

 そして、ペン先を紙に当て、すうっと引く。

 薄い黄色の紙に、青黒い線が鮮やかに伸びてゆく。そのまま引き抜くように、ペンを紙から引き離す。

(線だ。私がインクで引いた線だ)

 紙にインクが滲んで線が太っていくそのさまが、何ともいえず愛おしかった。

 それからいろんな字を書いた。最初はペンの返し方が分からず、ペン先を紙に引っかけたが、すぐにこつをつかんだ。

 小さな紙に、何度も何度も文字を書いた。

 大きな文字を。

 小さな文字を。

 いかめしい文字を。

 可愛らしい文字を。

 ゆっくり強くペンを引けば、太くしっかりした文字になる。

 さあっとペンを滑らせば、なめらかで鋭い文字になる。

 書いた字の上に、何度も何度も字を書いていった。

 やがて紙は、青黒いインクですっかり書き潰されてしまった。

 ジェニーは、はっとした。

 たくさんのインクを使ってしまった。使い過ぎてしまった。

 こわごわと顔を上げて先生を見た。

 先生は優しくほほえんでいた。

 それからというもの、勉強のあと、ほかの生徒がいなくなってから、毎回紙一枚分、先生はペンとインクを使わせてくれた。ペンとインクと紙がどの程度の値段なのか、当時のジェニーは知らなかったが、安くはないとは思っていた。ペンもインクも紙も、先生の私物である。申し訳ない思いをしつつも、ジェニーは至福の時間を味わった。

 ジェニーの勉強は長く続いた。他の子は、最低限の読み書きと計算を教われば、それ以上学ぼうとはしなかった。ジェニーの読み書きの学習は、一層進んだ。文章の組み立て方を学び、見たこともないいろんな事物の名前や、難しい言葉を学んだ。計算のほうは苦手だった。

 ある日先生が言った。お城で文字を書く仕事をする気はあるかい、と。

 それはどんな仕事なのと聞けば、一日中、ペンとインクで紙に文字を書く仕事だと言われた。

 一も二もなく、ジェニーはこの話に飛びついた。

 商家のほうでも、この提案を喜んだ。ジェニーはまじめに働くが、要領の悪いところがある。また、計算が苦手というのでは、店のほうでは使えない。綺麗な字は書けるが、書く内容を頭でまとめるのは得意ではないので、使い所がない。ずっと無給のまま家に置いておくわけにもいかない。つまり持て余し気味だったのだ。

 ジェニーの父が王都に来たとき了解を取り、先生の口利きで、ジェニーは十二歳にして王宮に上がることになった。


3


 王宮の筆耕室の最大の仕事は、宴会の案内状と、メニューと席札の作成だ。王宮には、国主催の催しだけに使う部屋を除いて、大小十二の宴会場があり、毎日のように宴会が開かれている。王都に大きな邸宅を構える貴族以外が、規模の大きな宴会や、格式の高い宴会を行うときは、王宮の宴会場を借りるのだ。

 最初に特訓を受けた。王宮の筆耕室には新人教育用の教材があり、メソッドが確立されている。ジェニーは、当面必要な書体とその書き方を覚えなければならない。

 基本書体は、先生から教わっていた書体とよく似ていたので、ペンの運びにまごつくことはなかった。文字の書き出しをくるくる回したり、おしゃれなひげを書き加えたりすることで、文字が絵のように踊り出すのが面白くて、寝る間も惜しんで練習した。

 なにしろお城では、自分の部屋以外の掃除も洗濯も水汲みも、荷運びも洗い物も食材の皮むきもしなくてよい。しかもランプが使えて、ペンもインクも使い放題なのだ。紙だけは所定の紙を所定の数しか支給されないが、上から上から重ね書きするのは得意だ。

 普通の見習いが七日間かかるという課程を、ジェニーは三日で終了した。しかもジェニーは十二歳であり、普通の見習いよりだいぶ若い。三日目にジェニーが書いた文字を見て、筆耕室長は、明日から実際の仕事に当たってもらう、と言った。

 翌日、メニューの見本を写す仕事を与えられた。上品な白い紙に、美しいブルーの文字を書き込んでゆく作業を、半ば夢見心地で行った。

 一枚目を書き終えて、室長に見せた。

「ほう。早いな。急ぐことはないんだぞ。丁寧な仕事が一番だ。だが、綺麗だな。間違いもない。うむ。これなら使える。このまま同じように写してくれ」

 急いだわけではない。紙にインクで文字を書くには、そのインクと紙と書くべき線の質によって、最適なスピードがある。このお手本通りの、エッジの利いた伸びやかな線を引くには、それ相応の速度でペンを運ばなくてはならない。もっとも、間違えてはいけないという思いが強く働いたため、少しペンさばきがにぶり、線がもたつき、時間も余分にかかってしまったのは反省点だ。

 そのまま四十枚のメニューを書き上げた。書けば書くほど紙とペンとインクの素晴らしさに驚かされた。思いのままに紙の上を滑り、しかもインクのむらが生じず、艶やかな線が引けるペンと、美しい繊維がはっきり見えているのに不思議とにじまない純白の紙と、深みがあって上品でしかもみずみずしいブルーのインクは、ジェニーを魅了した。

 完成したメニューを室長に提出したところ、室長は、むむむ、とうなり、室員の人たちを呼び集めてメニューを見せた。皆、口々に、ジェニーのペンさばきを褒めた。

 かくしてジェニーは、弱冠十二歳にして、正式の筆耕室員となったのである。


4


 最初はメニューばかり書いていたが、すぐに名札を書くようになり、招待状も書くようになった。

 一年ほどすると、事務文書の筆耕もするようになった。王宮から各地に送られる事務文書のうち、機密性の低いものは、筆耕室で書写するのだ。各地の領主や貴族に送るため、内容は同じで宛先だけが違う文章を何十通あるいは百何十通も作成するのだから、秘書室だけでは手が回らない。

 ジェニーは、こういう仕事は得意だった。内容については何も考えなくてよいのだ。指定された文面を、指定された相手に、指定された書体で書けばよい。事務文書は、読み間違いのないよう、シンプルな書体で明瞭に書く。美しさは必ずしも求められない。だがジェニーは、事務文書には事務文書なりの美しさがあるべきだと考え、本文、表題、日付、差出人、宛先の書き方に、機能美を追求した。

 さらに一年ほどすると、手紙の筆耕も命じられた。これは、王と王妃と王太子以外の王族の書簡を清書する仕事で、できあがった手紙に本人がサインするのだ。

 これはジェニーの苦手な仕事だった。何が苦手かというと、清書しつつ添削しなくてはならないのだ。時候のあいさつが自然でなかったり、敬語の使い方が不適切であったり、言葉の選び方に問題があった場合など、修正しながら清書するのだ。こういう仕事を任されるということは、字の美しさや正確さだけでなく、人柄が信頼されているということで、大変光栄なことではある。

 しかし、王族の手紙なんて読みたくない。王族の言葉遣いを直すことなどできない。というか、正しい時候のあいさつなど知らない。敬語の使い方を直せというが、発信者と受信者の身分立場の関係をきちんと理解していないと、そんなことはできない。そもそも身分の高い人同士が使う敬語などさっぱり分からない。

「そういえばお前は商家の出だったな」

「はい(いえ。農家です)」

「そこの本棚に、手紙の書き方と敬語の使い方を詳しく記した本がある」

「はい(まさか私に読めと)」

「貴族年鑑もある」

「はい(まさか私に覚えろと)」

「まずは読め」

「はい。わかりました(嫌です。メニュー書きに戻してください)」

 数か月にわたる悪戦苦闘の末、何とか本の助けを借りつつ手紙の清書ができるようになった。ジェニーは筆耕室のあらゆる仕事をこなせるようになった。手紙以外の仕事は楽しかった。

 そして二年ほど過ぎたある日、悪夢のような命令が下った。

「秘書室でお前をご指名だ。明日から秘書室に行け」

「はい。ありがとうございます(嫌です。絶対に嫌です。誰か助けて〜)」


5


「ああ、君が噂の〈美文字姫〉か。失礼だが、ずいぶん若く見えるのだね」

「びも……? 十六歳でございます」

「えっ? 確か君の名を聞くようになって三、四年ほどになるように思ったが」

「十二歳のときから勤めさせていただいております」

「驚いたな。素晴らしい。君には、フローレス女史の補助に入ってもらい、まずは主に王妃陛下の手紙の清書をお願いしたい」

 王妃は非常に多忙だ。近くには常に多数の女官が控えており、陳情や申し入れや打診などが行われると、直ちに王妃は関係部署への指示や、回答や、意見を発する。女官たちは、順次それを処理してゆく。王妃が発信する書簡は一日に十を下ることはなく、多い日は二十を越える。夜会や視察や面会の合間に女官たちに書簡の内容を口頭で伝え、女官たちがそれを文章化し、王妃が確認し、そして秘書室に持ち込まれるのである。秘書室詰めの筆耕室員が浄書し、王妃が閲覧して署名し、女官が封緘して発送される。原稿は秘書室でしかるべく保管される。

 女官たちは極めて優秀であり、原稿の内容は、ほぼ修正が不要だ。

 問題は書体と崩し方だ。

 王室には、何種類かの女性用の書体があり、相手によって使い分ける。字の崩し方にも様々な規則があり、相手との立場関係によって、崩し方を変えるのだ。「殿」だけでも最低三種類の使い分けが必須で、相手の身分が高ければ字を崩さず、低ければ低いほど崩してゆく。しかも美しく流麗に崩さなくてはならない。

 原稿を見ただけでは、どの書体を使うか、どの程度の崩し方にするかは分からない。それは筆耕室員が判断しなければならないことなのだ。王妃用の書体は決まっているから、そこは問題ないが、問題は崩し方だ。それは宛先を見てジェニーが判断しなくてはならない。

 フローレス老女史の指導を受けながら、ジェニーは奮闘した。

 書体と崩し方を覚えるのは、とても楽しかった。最上の紙とペンとインクを使うのは、この上ない喜びだった。どんな相手にどんな崩し方をするのかを判断するのは大変だったが、嫌ではなかった。

 問題は、部屋の空気だ。

 なにしろ、ジェニー以外全員貴族だ。そして、ジェニーとフローレス女史以外全て男性だ。

 いじめや差別を受けたわけではないが、住む世界が違うのだということは、毎日毎日嫌というほど思い知らされた。彼らは、気分一つで、ジェニーとその家族を永遠に地上から消し去ってしまえる人々なのだ。

 王妃の手紙の内容も怖かった。こんなことを私が知っていいんだろうかと、ジェニーは、びくびくしながら原稿を読み、浄書した。

 フローレス女史は、貴族女性の見本のような人で、面と向かって相手をおとしめたりしないが、人は自分の身の丈にあった居場所にいるべきだと、遠回しに何度も言った。ジェニーがこの場にいることに納得できないと、その全身が告げていた。

 彼女はジェニーの隣りに座っているが、二人の間には見えない壁がいつもあった。もっとも、壁をなくして仲良くされても困る。どう付き合っていいか分からない。

 フローレス女史からは、王室の男性書体の手ほどきも受けた。何種類かある男性書体は、いずれも女性書体よりいかめしい。太い線を織り交ぜ、ひげには止めの線を加える。少し特殊なペン先を使って書く男性書体もある。

 女史は真の能筆家だとジェニーは思った。女史の文字には風格があり、えもいわれぬ配置の妙がある。はねやひねりに、いくら見ても飽きない風趣がある。普段は王室の書体に寄せるため、あえて個性を殺した字を書いているが、ふとしたときにさらさらと書く彼女の字は、女史の書の力が、ジェニーが決してたどり着けない領域にあることを思い知らせた。

 三年目に入るころには、王妃の手紙はほとんど任されるようになった。国王の手紙も何度か浄書した。一生の思い出だ。事務文書も段々と機密性の高いものが回ってくるようになった。それが心を削っていった。

 その日も王妃陛下の手紙の原稿を浄書した。ある高位貴族夫人への手紙だ。王妃の夜会にまた娘を参加させたいという願い出があったようで、「ご令嬢が外出できるようになるのをお待ちなさい」と優しく断る文面だった。

 だが、ジェニーは、他の書簡や事務文書との関連から、この手紙の真意が理解できてしまった。王太子の婚約者のよくない噂を立てた張本人が、この貴族夫人だ。そして、娘は辺地の修道院に入れられる。つまり、その娘が王妃の夜会に出ることは二度とない。

 ジェニーは血を吐いた。

 近頃だいぶひどい顔をしていたそうで、秘書室と筆耕室の両方の室長と室員の人たちから、ずいぶん心配された。

 ジェニーは、筆耕室長に退職を申し出た。筆耕室長と秘書室長から、ずいぶん引き留められたが、秘書室長が急に退職に賛成してくれるようになり、王宮で見聞きしたことを決して他言しないとあらためて誓約した上で、晴れて十九歳で退職をすることができた。

 皆が別れを惜しんでくれ、何人かの人が贈り物をくれた。

 フローレス女史は、王室出入りの業者から、ペン軸二本、ペン先六種十八本、青いインクのインク壺二十個を買い入れ、餞別として贈ってくれた。

「王宮を去っても、字を書くことをやめてはだめよ。あなたの線の美しさと伸びやかさは天性のもの。見る人に喜びを与える字よ」

 この人はこんなふうに思ってくれていたんだ。

 ジェニーははじめて人前で泣いた。


6


 村に帰ってこいと言う親を説得して、王都の繁華街の外れにサイン店〈ブルーインク〉を構えた。店の購入とインクや紙の仕入れ先の確保には、筆耕室長が力を貸してくれた。王宮での給金は、ちょっとびっくりするほどの額になっており、当分生活の心配はない。

 村に帰りたいという思いもあるが、村に帰ってしまえば字を書く仕事は続けられない。幸い、〈ブルーインク〉は、そこそこ繁盛している。

 花売りのエルザという知り合いができ、そのおかげで押し花をした紙が作れるようになり、貴族女性用の訪問名刺は順調に売れている。

 そんなある日、二人の客が〈ブルーインク〉を訪れた。


7


 二人のうち男性は貴族で、女性は平民で、二人は結婚するのだという。

 男性の家名は、貴族女性用の訪問名刺を納めている家のものだった。

 結婚の宴席でのメニューを〈ブルーインク〉に発注したいというので、ジェニーは、綿で作った温かみのある紙の見本を見せ、この紙の左上に押し花をしたメニュー表にしてはどうかと提案した。

 二人は賛成し、細かな打ち合わせに入った。その中で、ジェニーはふとアイデアを思いついた。

 それは、席札を小さなブーケで作り、そのブーケにメッセージカードを付け、一人一人に対し新郎と新婦からのメッセージを添える、というものだ。もちろん原稿は新郎新婦が書き、〈ブルーインク〉が清書する。

 この提案を聞いて、二人は顔を見合わせて喜びあった。

「それは素晴らしい! ぜひそれでお願いします」

「ほんとうに素敵だわ。あ、でも、お母様に……」

 女性が言葉を詰まらせた理由は、男性の説明で分かった。平民の、しかも一歳年上の女性を妻に迎えることを、男性の母親は快く思っていない。その母親にどんなメッセージを送ればよいかと考え、途方に暮れたのだ。



 二人が帰ったあと、ジェニーはしばらく考えていた。

 息子の嫁を歓迎しない母。

 難しい問題だ。

 そんな母親にいったいどんなメッセージを送ればいいのか。

 それはあのカップルの問題だ。

 自分の問題ではない。

 ないけれども、そのメッセージを実際に書き記すのは自分だ。

 そんな自分に何かできることはあるだろうか。

 ふと、フローレス女史の言葉を思い出した。

「あなたの字は、見る人に喜びを与える字よ」

 そうなのだろうか。

 そうなのだとすれば、何か自分にできることはあるのだろうか。

 ジェニーは神殿に行った。そして祈りを捧げた。

 だが、何も思いつかなかった。

 帰ろうとしたとき、助祭が声を掛けた。

「ずいぶん熱心に祈っておられましたね」

「あ、はい」

「いつも明るいあなたが、今日はふさぎ込んでいる。それはなぜなのですか」

「……婚礼の宴会でメッセージカードを清書するお仕事を受けたのですが、出席者の中に結婚を喜んでいない人がいるのです。その人へのカードを書くとき、何か私にできることはないかと思って」

「ほう……うん? ちょっと待ってください」

 助祭はいったん奥に入り、戻ってきて、小さな瓶をジェニーに手渡した。

「これをお持ちください」

 その小さな瓶には、きらきらした粉が入っていた。緑といえば緑、青といえば青、紅といえば紅、紫といえば紫の色に輝く、小さな砂のような粉だ。

「あの……これは?」

「これをあなたに差し上げます。これはある参拝者が、幸運を必要とする方に差し上げてくださいと言って奉納したものです。何かに使えるならお使いなさい。持っているだけでもあなたに勇気を与えてくれるでしょう」

 ジェニーはその瓶を押しいただいて受け取り、持って帰って店の作業机の奥に置いた。見ているだけで癒されるような気がした。


9


 原稿が入稿され、紙も整った。ブーケも揃った。花売りのエルザには少し無理をさせたので、代金には少し色をつけた。

 まず、メニュー表を清書した。二日かかった。

 次に、席札を清書した。一日でできた。

 そして、メッセージを清書した。これには四日かかった。店番もし、ほかの仕事もしながらなので、多少の日にちはかかってしまう。

 最後に新郎の母の席札とメッセージカードを残した。

 まずは席札だ。

 どのインクで、どういう書体で書けばいいのか、十分に吟味してから、試し書きをした。

 全然だめだった。力が入りすぎだ。線の折り返しがちゃんとした形になっていないし、字と字のバランスも悪い。一文字一文字も、かくかくしてぎすぎすしている。

 何度か練習したが、だめだった。綺麗に書かなくては、美しく書かなくてはという思いが強すぎる。それは分かっているのだが、力を抜こうとすると、今度は字形が崩れた。

 茶を淹れて飲み、ふうっとため息をついたとき、フローレス女史の言葉をふと思い出した。

「あなたの字は綺麗だけれど、少しゆとりがないわね。文字の懐を広く取ると、文字が内側から輝いてくるのよ。覚えておきなさい」

 字の懐を広く取る。

 そのときは、田舎者にはぼてっとした文字がお似合いだと言われたような気がして、素直に受け止められなかった。

 もじのふところを、ひろく、とる。

 そういう気持ちになって席札を書いた。

「あ」

 本当に文字が光り輝いたような気がした。余白をたっぷり取ったことで文字の表情が豊かになったのだ。

(私はバカだ)

(こんなにも大切なことをフローレス様は教えてくださっていたのに)

(心が狭かったのでそれに気づくことができなかった)

(これからは心のふところを広く取るようにしよう)

(そうすれば私の魂も輝くはずだ)


10


 翌日は店が忙しく、新郎の母宛のメッセージカードに取り組むのは、夜になった。

 春だというのに寒い夜だ。暖炉に薪をくべたが、薪をけちったためか、十分には暖まらない。厚着をした。マフラーもした。

 紅色のインクで試し書きをした。手がかじかんで、うまく動かない。

 引き出しの奥から、とっておきの手袋を出した。

 王宮の裁縫室のリリーというお針子が作ってくれた、指先が出る作業用手袋だ。

 これを作るとき、リリーはジェニーと両方の手のひらをぴたりと合わせ、しばらく目を閉じてから、うん、分かりました、と言った。出来上がった手袋は、ジェニーの手にぴったりで、しかも仕事を妨げない、素晴らしい品で、ジェニーの宝物になった。秘書室に配属されてから、もっと上等な作業用手袋も支給されたけれど、ジェニーにとっては、リリーの手袋こそが至高の逸品だ。

 リリーの手袋をはめると、心まで温かくなる。

 ジェニーは、夜の空気を胸いっぱい吸った。

 そのとき、机の奥に置いた小さな瓶が目に入った。

(紅色のインクにこの小さな砂を混ぜて書いたらどんな線になるだろう)

 小さな絵の具皿に紅色のインクを少したらし、瓶の小さな砂を耳かきですくってインクの上に落とした。腹の広いペン先をペン軸に装着し、インクを混ぜて、試し書きした。

 ゆっくりペンを動かすと、こんもりした線が引けた。紙を暖炉に近づけて乾かす。

 乾いて水気を失っても、ジェニーの引いた線は紙から少し盛り上がっており、青と緑とピンクと紫にきらめいている。見る角度によって色合いも輝きも変わる。

(素敵……)

 だが、メッセージを書くには不向きかもしれない。色合いがちかちかして文字が読みにくいだろう。

 でも、このきらめきインクを使いたい。どう使えばいいか。

 思いついたのは妖精の絵だ。子供のころよく描いた、四枚の羽を持つ小さな男の子の妖精の絵を、このインクで書いたら、きっといい。

 実際にやってみると、想像以上に綺麗な絵が描けた。最初はきらきらした模様だとしか思わないが、じっと見ているとそこに妖精がいることに気づく。見ていてわくわくする絵だ。

 妖精の絵を描き終えると、メッセージ本文は紅色のインクですらすらと描けた。

(どうぞ新郎と新婦とお父様お母様方に幸せが訪れますように)

 出来上がった品々に祈りを込め、ジェニーの仕事は完了した。


11


 結婚式が終わったあと、新郎と新婦がわざわざ〈ブルーインク〉を訪れて礼を言い、驚くべき話をしてくれた。

 妖精が現れた、と宴席で新郎の母親が言ったらしい。メッセージカードから虹色の妖精が浮かび上がって祝福をしてくれたというのだ。不機嫌だった母親はすっかり上機嫌になり、宴席の雰囲気そのものが、ぱっと明るくなった。母親は、メッセージカードを読んでさらに感動し、すっかり息子の嫁が好きになったという。

 それはよかったのだが、一つ困ったことが起きた。

 母親が友人数人に、息子の嫁は美しい字を書くのよ、と自慢してしまったのだ。

 すぐに息子は、あれはお母さんもひいきにしている〈ブルーインク〉の仕事だと説明して誤解を解いた。

 母親は了解したが、友人たちに嫁から手紙を出す約束をしてしまったので、それだけは何とかしてほしいと嫁に頼み込んだ。

 新婦は、自分の書いた手紙の原稿をジェニーに渡し、これを清書してほしいと言った。

 新婦の書いた字を見るのははじめてではない。あらためて、素直で読みやすい字だと思った。少しばかり伸びやかな線を引くこつを身につけ、めりはりをつければ、とてもよい字になるだろう。ジェニーは心のなかで、この新婦にぴったりな書体をすでに見つけていた。自分の名前や相手の名前を、ジェニーの指導のもとジェニーの書いた手本通りに書くには、ほんの一ルールか二ルールあればできる。そのためのメソッドは、頭の中に入っている。手紙の本文については、ジェニーが見本を書き、新婦が清書すればよい。もしもあと何度か〈ブルーインク〉に通うことができるなら、新婦は綺麗な手紙を書くこつを身につけるだろう。

 この提案に二人は喜び、新郎が買い物をしている間に、字の指導をした。

 新婦のレッスンは、結局それからも、何度も何度も続いた。


12


 アクソード王国の王都ダイナオークスの繁華街の外れの、本通りの裏側のさらに奥にある、細い路地に面した目立たない場所に、〈ブルーインク〉という名のサイン店がある。

 〈ブルーインク〉では、多種多様な名札を売り物にしている。

 レストランのメニューなども作る。

 貴族女性用の訪問名刺も手掛けている。

 顧客の個性に応じた署名をデザインしてもくれる。

 字の下手な人でも、ここで数度のレッスンを受ければ、見違えるように綺麗な字が書けるようになるという。

 店主はジェニーという名の若い女性だ。

 なかなかの人気店なのだが、彼女は、店を大通りに移そうとはしないし、多くの店員を雇って商売を広げようともしない。

 手の届く範囲の仕事を、こつこつと、ゆとりを持って丁寧に仕上げている。


[終わり]

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― 新着の感想 ―
吐血系達人ヒロイン 荷が重い……苦い思い出……_:(´ཀ`」 ∠):
お邪魔します(^^) とても優しくて心あたたまるお話でした! 前話とはまた雰囲気がまったく違ってメリハリがあって楽しいです。 リリーさん、友情出演ですね。 ジェニーさん、有能だけど心の声が年相応だっ…
リリーの作品は今後もなんかあっちこっちに出てきそうだな(笑)
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