第二話 山中の弓聖(下)
1
「あれ、おじさん、隊長さんじゃねえか」
そう話し掛けてきた青年の顔に、どことなく覚えがあった。
「ほら、おいらだよ。何年も前にヤダーじいちゃんの家に案内したカイだよ」
「ああ、覚えている。久しぶりだ。大きくなったな」
「おじさん、そんな格好して、どうしたんや。軍隊、首になったんけ?」
「まあ、休暇中のようなものかな」
「へえ。休暇があるんか」
「うむ。今夜はこの宿に泊まらせてもらう」
「まいどありー。ほんなら、明日はヤダーじいちゃんのところに行くんか?」
「そうだ」
「案内しようか」
「道は覚えている」
「三年前に違う場所に移ったんだけんど、それは知っとるんか」
「なに?」
聞けば三年前に雪崩があり、老師の小屋は押し潰されてしまった。幸いに老師はご無事で、少し離れた場所に新たに家を建てた。大工も呼び、村人も大勢手伝ってのことだ。
私は駄賃をはずんで案内してもらうことにした。
2
今回の依頼は、気の重い依頼だ。
私は病床のライゴウ大将軍に、この任務は私が当たらせていただくわけにはいきませんか、とお尋ねしたが、ライゴウ大将軍は、これはヤダー殿にお願いすべきことだ、と首を振った。
確かに困難な任務ではある。だが私もここ数年で弓の腕を上げ、数々の武功を立てた。将軍位を頂き、軍団を預かり、その指揮の腕もそれなりに評価されているが、やはり私の本質は弓術士だ。今でも盗賊団や敵軍と戦うとき、真っ先に敵の指揮官を弓で狙うのが私の作法であり、私の側付きの者たちも、私に教わった弓の技で、馬に乗ったまま敵の幹部を狙い撃ちにする。そして混乱した相手を一気に討ち取るのが私のやり方だ。敵の数が多いときには、子飼いの弓兵大隊を連れて行き、敵の弓隊の射程外から矢の雨を降らせておいてから突撃する。
私が討ち取った敵将や賊将の数は多い。その功績は広く知られている。ところが、皮肉なことに、私の最大の功績として世人が讃えるのは、十年前のダイソード将軍の狙撃と、六年前のオウエン将軍の兜の紐飾りの狙撃なのだ。
オウエン将軍に軍を引き返させたのは、どこから飛んできて兜の紐飾りを撃ち落とした一本の矢だということは、当初わが国では知られていなかった。
だがオウエン将軍の周囲の将兵たちは、直接それを目撃している。軍団がパンド国の都に帰り着いたころには、全ての将兵がそのことを知っていたという。
当然、パンド王の耳にもその噂は届いた。オウエン将軍が、王にどのような復命を行ったかはわからない。だが、復命を受けたパンド王はオウエン将軍を怒鳴りつけたらしい。
それは無理もない話ではある。一兵もそこなわず、ただモウグ国と共に恫喝するだけで、わがレン国の肥沃な土地をむしり取れたはずなのだ。それなのに、オウエン将軍が臆病風に吹かれて軍団を引き返させてしまった。そのため、得られるはずの富が得られなくなった。そればかりか、手を結んだモウグ王に対しても顔が立たない状況だ。
オウエン将軍は、病気を理由に将軍の印綬を返して引退し、家に引きこもった。王は密かに使いを送り、オウエン将軍に毒酒を贈った。オウエン将軍は毒酒を飲み干して死んだ。
これを知って王族の人々や重臣たちは驚倒した。
今まで王が厚い信頼を寄せ、長年軍権を預けてきた人物なのである。
大功ある宿将なのである。
軍事と外交を総覧してきた、国の柱石の一人といってよい人物なのである。
周囲の意見を求めることもなく、そんなオウエン将軍を独断で処断したのだ。
オウエン将軍が奏上した言葉の中に、自尊心と欲心の肥大したパンド王を激怒させる何かがあったのかもしれない。
これが内乱のきっかけとなった。
パンド国にはあまたの将がいるが、そのうちで実際に指揮する軍を与えられている者の数は少ない。その現場指揮官の多くが、オウエン将軍を慕う者たちだ。彼らいわば主流派であり、オウエン将軍の派閥だ。
オウエン将軍が死んだことで、主流派ではなかった将たちが、今こそ自分たちの出番だと色めきたった。そしてそれぞれが属する派閥の家々の力を背景に、軍団長の地位を得ようと動き始めた。
主流派の将たちも黙ってはいなかった。彼らは王のやり方に不審と不満を抱き、王の長子たる王太子を旗頭に、立場を確保しようした。
そんな中、非主流派のある将軍が、王に取り入って、ある軍団の長たる辞令を得た。ところが主流派の将軍は、軍団長の印綬を渡すことを拒否した。言い合いは斬り合いに発展し、非主流派の将が死んだ。そして三年にわたる内乱が始まった。
モウグ王は、もう一度パンド王と共にわがレン国に恫喝をかけるつもりだったようだが、もはやそんな状態ではなかった。
三年後、王が王太子に玉座を譲り、主流派非主流派双方に配慮した人事が行われ、一応騒乱は鎮静した。だが激しい内乱のため国力は相当に落ち込んだ。全軍十五万の兵力は、七万少々に半減した。死者が出たためというより、軍籍を離れる者が続出したためである。主流派と非主流派の仲は悪く、全軍を統括する強力な将軍はいない。新王の統率力も、さほど強くないようだ。
こうした事態を引き起こしたのは、オウエン将軍の兜の紐飾りを撃ち落とした一矢であり、それは私の射た矢であると皆が思い込み、私を褒め称えた。
そんなことを言い始めたのは、私の部下ではない。あのとき行動を共にしていた部下たちは、私が現場に行っていないことを知っている。たぶん噂を広めたのは、パンド軍の見張りをしていた部隊の兵たちだ。彼らは私が何らかの任務を受けてやって来たことを知っていた。だから私の仕事だと思い込んでしまったのだろう。
もはや噂は取り消せない。居心地のよい噂ではないが、まさかヤダー老師が射たのだと言って回るわけにもいかない。そんなことをしたら、ヤダー老師がパンド国からの刺客に付け狙われかねない。
3
モウグ国は、パンド国との連携を諦め、単独でわが国に戦を仕掛けてきた。
わが国は戦を長引かせ、ずっと継続して来た中央諸国への働きかけを強めた。
そうしていたところ、モウグ王が突然病で倒れ、床から起き上がることもできなくなった。
中央諸国は軍を起こしてモウグ国に攻め入った。
呼応してわが国も反転攻勢に転じた。私も多くの手柄を立てた。
結局、モウグ国の南側は中央諸国に大きく削り取られ、東側はわが国が削り取った。
モウグ国の兵力は、五万から二万五千ほどに減じた。モウグ王の孫にあたる太子が王に即位した。
私はこの戦いの中で、功績により将軍に叙せられ、軍団の指揮権を与えられた。
その後もわが国は富国を進め、兵を練った。
パンド国から何人もの優れた将が、レン王とライゴウ大将軍のもとで戦いたいと、わが国に移ってきた。多くの兵も移ってきた。多くの有力商人たちも、主たる商売の場をわが国に移した。モウグ国からわが国に来た将兵も少なくない。わが国は学者を優遇するので、諸国から学者や文化人も集まってきた。
気がつけばわが国は、八万近い兵力を抱えるようになった。単純な兵力ではパンド国を超える大国となったのである。無論、パンド国は内乱の後で今は疲弊しているが、百近い城と多数の有力都市と広大な国土を有する強国であり、やがて頭をもたげてくるだろう。そのときに風下に立たなくてすむだけの力を蓄えておかねばならない。
こうして日々が過ぎ、今年は、かつて老師がオウエン将軍の紐飾りを撃ち落としてから六年となる。
中央諸国からの申し出で、わが国に諸国の王が集まり、会盟が行われることになった。
この会盟により、戦争によって変更された領土の確認がなされる。そして会盟での誓いが破られたときの調停役に、わがレン王が推戴されることになっている。十年前にはモウグ国の暴虐により滅亡の危機にさらされた北の小国が、諸王の盟主となるのである。盟主に推されるには、強大な武力を持つことはもちろん、その人格が信用される必要がある。レン王が長年にわたり示してきた節度と慈悲と誠実さが、諸王に認められたということであり、こんなにめでたいことはない。
一つ残念なのは、常にレン王の傍にあってこの覇業をなさしめた偉大なるライゴウ大将軍が、長年の疲れからか、床に就いてしまったことである。
大将軍の回復を日々祈っていた私のもとに、呼び出しがあり、私は大将軍の枕元で密命を受けた。
4
驚いたことに、モウグ国が密かに一万二千の軍を編成中であり、わが国目指して進軍を開始しかけているというのだ。これは新王の命によるものではなく、病床のモウグ国前王が、アスタル将軍に命じたことだという。
ライゴウ大将軍からそう告げられたとき、私はモウグ国前王の正気を疑った。
一万二千の兵力で、今のわが国の軍勢に勝つことはできない。諸国の王も軍勢を率いて集結中であるから、なおさらだ。しかも孫たる新王も会盟に出席する。会盟の最中に会盟をしている国に攻め入るようなことをすれば、新王は問責され、体面を失うばかりか、幽閉されて身代金を要求されることさえあり得る。
だが、ライゴウ大将軍のお考えは違った。会盟が整えば、国境が確定してしまい、モウグ国は正式に国土の半分以上を失ってしまう。しかし、モウグ軍をわが国の軍が迎え撃って戦闘が起きれば、戦争はまだ終わっていないということになり、会盟の正当性が大きく損なわれる。しかも、会盟の最中に侵攻するということは、モウグ国がわが国の武威に服していないということであり、有体に言えばなめられているということだ。レン王陛下の威信に傷が付く。
しかも、たぶんアスタル将軍は、わが国の軍とまともに戦おうとはしない。村や街を焼き払っては山野に隠れることを繰り返す。そうすることで、会盟に参加する諸侯を恫喝するのだ。次はお前の国の村や街を焼いてやると。
そもそも諸国の王たちは、モウグ国前国王を恐れている。一代で国土を広げ、目覚ましい国力の伸長を実現したこの異質な思考の持ち主に、恐怖を抱いている。
そしてまたアスタル将軍は、四鬼将の最後の一人にして不世出の名将だ。〈龍眼のアスタル〉の名に畏怖を覚えない王はいない。
モウグ国前王の命を受けたアスタル将軍が自国で暴れ回るかもしれないと考えただけで、諸王は落ち着きを失う。会盟はまともに進まないだろう。敗戦国であるはずのモウグ国にひどく有利な盟約となる可能性さえある。
このように状況を分析してみせた上で、ライゴウ大将軍は、だからその芽を摘む、と言った。
「軍と軍との戦いにはしない。アスタル将軍一人を射殺す。頭を潰せば、軍団はモウグに引き返すか、山野に溶けて消え去るだろう」
それがライゴウ大将軍の予測であり狙いであるというなら、私はそれに従うだけだ。
できればその任務は私に与えていただきたかったが、ヤダー老師のご出馬を仰がなければならないと大将軍はお考えなのだ。
ライゴウ大将軍は、地図を用意なさっていた。その地図には、敵の進路と、おおよその到着日時まで記してある。
「ヤダー殿に私の手紙を渡し、この地図をお見せするのだ。あとは万事ヤダー殿のご指示に従え。お前は兵装を脱ぎ、浪人のような姿で行動せよ。弓は持っていくな。ヤダー殿の馬を用意して行け」
5
ヤダー老師の新居は、こぢんまりした、こぎれいな家屋で、中に入ってみると、机と椅子と暖炉がある、普通の作りになっていた。考えてみると、前の作りはエタール国風だったのかもしれない。エタール国は、ヤダー老師とライゴウ大将軍の故郷だ。滅びてしまって今は存在しない国である。
手紙を読み、しばらく地図を眺めたあと、今度も老師はあっさりとご依頼は承知したと言い、手紙と地図を暖炉で燃やしてから、簡単に身支度を済ませた。
「すまんが、一度神殿に寄っていきたい」
「は? 神殿というと、マースカリウス神殿ですか」
「そうじゃぞい」
中腹の温泉街から山を東に登るとマースカリウス神殿があり、西に登るとこの山小屋がある。中腹の温泉街は神殿への参拝者が宿泊するため、宿の数も多いし、遊び場も多い。
神殿に着くと、老師は私を外に待たせて中に入っていった。大勢の参拝客の中に溶けていくように、姿が見えなくなった。かなり長い時間のあと出てきたが、以来老師は無言になった。
とにかく全く言葉を発しないのだ。私が話しかけても返事がない。目を合わせることもない。
ただ黙々と老師は進んだ。私は付いていった。野営の準備は一緒にしたが、やはり言葉を交わすことはなかった。
六日目に山岳地帯に入った。老師は迷いなく進んでいく。地図が頭に入っているのだろう。私はその背中を無言で追った。
八日目に馬を走らせていると、老師が馬足を緩め、左の藪の中に馬を乗り入れ、馬を降りた。私も同じようにして身を潜めた。
すると前方から騎馬が二騎駆けてきた。偵察だ。二騎が過ぎ去ってから、再びわれわれは前進した。
九日目には崖の上に出た。老師は崖下の前方をにらみつけてから、再び馬上に戻り、前進を再開した。私も地図をおよそのところは記憶していたから、老師の狙いに見当がついた。敵軍が近づいていたら、あの場所から狙撃したのだろう。だが、敵がまだ遠いので、より有利な狙撃地点目指して移動しているのだ。
十日目に着いた場所で翌日も過ごした。つまりここで敵を待ち受けるのだ。
山岳地帯に入ってから、火は焚いていない。焚こうとしたら止められた。なぜだろうと思っていたが、偵騎を遠くまで放っているのを見て納得した。煙を見とがめられないためだ。
もう六日も、温かいものを食べていない。水に浸した硬いパンと、干し肉と、干し果物で腹を満たしている。老師は山の中で水場を見つける達人だった。やはり猿だな、と考え、おかしくなった。
6
十二日目の昼過ぎ、老師は崖の割れ目をつたって下におり、天然の洞窟のようになった場所に陣取った。
どうしてこんな場所をご存じなのだろうと考え、ようやく気がついた。ここはもとエタール国があった場所だ。正確にはどこが国境だったのかよく知らないが、この辺りはエタール国の版図だったはずだ。たぶんこの山岳地帯は、老師がよくご存じの場所なのだ。
来た。
兵士たちが来て、騎馬隊と弓隊が来て、荷馬車が来て、設営が始まり、天幕が張られ、多数のかまどが作られた。
やがて食事が始まった。だが、天幕の中には誰も入っていない。天幕を張るということは、ここに最上位者が来るということだ。つまり標的たるアスタル将軍がここに来るはずだ。だが、来ない。やがて天幕の四隅に護衛の鎧兵が立った。
山の夕日は落ちるのが早い。
あっという間に日が暮れた。所々にかがり火が炊かれている。特に天幕の前には大きなかがり火が燃えていて、夜の谷を煌々と照らしている。
と、近くで食事をしていた兵士の一人が立ち上がって天幕に近づいてきた。
かがり火がその顔を照らす。それを見て老師が動いた。
弓を取り、矢をつがえ、高々と天に弓を掲げて打ち下ろし、弦を満月のように引き絞る。
すると、あの兵卒のような男がアスタル将軍なのか。
遠いことは遠いが、絶好の撃ち下ろしであり、風もない。相手は鎧など全く着けていないのだから、胸でも腹でも狙い放題だ。あれがアスタル将軍なら、私でも必中の矢を放つことはできる。
アスタル将軍は、かがり火の前で、護衛の兵に話しかけている。鎧兵は士分であり、つまり貴族だ。その鎧兵がかしこまった様子を見せている。なるほどアスタル将軍に間違いない。
私は、自分が矢を放つような気持ちになって、アスタル将軍をにらみつけた。
アスタル将軍が顔を上げてこちらを見た。といっても、今日は雲が空を覆っていて、月も星も隠れている。あの場所からわれわれが見えるわけはない。
突然アスタル将軍が何かを叫び、かがり火を蹴倒した。近くの兵が砂を掛ける。
かがり火が次々消えてゆく。谷底の野営地は、あっという間に真っ暗になってしまった。なまじこちらもかがり火を見ていたので、かがり火が消えると、谷底は闇に沈み、何も見えない。
失敗だ。すぐに兵たちが回り込んで崖を登り、ここにやってくるだろう。どうして感知されたか分からないが、もはやアスタル将軍を狙撃するのは不可能だ。
そう思って横に目をやると、暗闇の中で老師が弓を構えたままなのが分かった。
いったい何を待っているのだろう。
すると老師が矢を放った。いや。矢が老師の指から離れた。
ほとんど同時に何かが下から飛んできて、私と老師の間をすり抜けて、後ろの岩に突き刺さった。
私は近寄って、目をこらした。
矢だ。
一本の矢が斜め下から上に向かって、岩に突き刺さっている。
誰がこれを射たのか。
もちろんアスタル将軍だ。
二百タール上方の、百タールほども離れた岩の割れ目に、見事に矢を届かせたばかりか、岩に突き立つほどの威力を矢に持たせたのだ。
何という神技。
その目でにらみつけた敵は、どれほど遠方であっても必ず射抜くことから、〈龍眼のアスタル〉と呼ばれた稀代の弓術士の絶技を、今私は目にし耳にし体に感じることができたのだ。
老師が弓を仕舞って逃走を始めた。私もその後に続いた。
7
敵は追ってきたかもしれないが、その追跡は執拗なものでも大規模なものでもなかった。老師と私は格別の危険に遭うこともなく帰還し、神殿に詣でた。
神殿から出てきたとき、老師は弓と矢の入った袋を持っていなかった。ということは、マースカリウス神に、あの弓と矢を奉献したのだろうか。
神殿から出てきた老師は、久しぶりに声を出し、話をしてくれた。いつものようにひょうげた物言いをする老師に、私の心はようやく温かみを取り戻した。
ふと思った。老師は神殿に参拝して神を迎え、神と共に死地に赴いたのではないか。そして神の助けを借りて、いや、神の力によって任務を果たし、神を神殿にお返ししたのではないか。
私たちは、老師の家に帰らず、温泉街の宿に泊まった。そして、ゆっくりと温泉に浸かり、うまい料理を食べ、うまい酒を飲んだ。
心地よく酔ったころ、私は老師に尋ねた。
「矢は届いたのですか」
「ああ。天幕の中に入っとったみたいじゃなあ。そんな手応えじゃった」
「見えないのに、なぜ分かるのですか。なぜ見えないのに当てることができるのですか」
老師は、眉を妙な形に曲げて、私の顔を見上げた。
「そういえば、そこは教えとらんかったのう」
「そことは、どこですか」
「的の狙い方じゃ」
「ぜひお教えください」
「狙わんこっちゃな」
「は?」
「射手が矢を射て的に当てようとすると、自分の目で的の位置や距離を測り、自分の力や技量で的を狙うことになる。わしのはそれとは違うぞい」
「どう違うのですか」
「弓を構えたら、もう的は見んのんじゃ。そしてじっと待つ。そうすると、的のほうがこちらに近づいてきて、わしの中に入ってくる。そのときおのずから矢が離れ、気がついたら的に中っとるんじゃな」
私は酔い過ぎたのだろうか。老師のお言葉が少しも理解できない。理解できないが、記憶しよう。そしてたぶんこの教えは、私が生涯かけて弓の技を磨く、その道を照らし続けてくれることになるのだろう。
翌朝、私は老師に別れを告げ、馬を駆って都に急いだ。老師はもう二、三日、温泉宿に泊まるということだった。
ライゴウ将軍は、床に横たわって目を閉じたまま私の復命を聞き、静かにうなずいて、ご苦労であった、と言った。
8
二年前、モウグ国の侵攻を押し返し、逆にあちらの領土を削り取った戦勝のあと、王宮で宴が行われた。
その場にはキュータン師がおられた。王軍弓術師範を長く務めた人物で、わが国で弓術を志す者なら誰でも名を知る名手だ。
あいさつを交わすなかで、私が、ヤダー老師と面識があり、二度教えを受けたと話すと、キュータン師は興奮した様子でヤダー老師のことを教えてくれた。
ヤダー老師は、諸国の弓術士から仰ぎ慕われた名人で、その門下からは多くの名手が生まれた。彼らはさまざまな国で士官し、功績を上げ、栄達を果たした。その門下生たちの名を聞いて、私はとても驚いた。いずれも弓の名人達人として名を馳せた豪傑たちだ。あの老師は、そうした名人達人たちを育てた人だったのだ。老師は世に隠れた名人などではなく、世に知られた名人だったのだ。私が知らないだけだったのだ。
そのとき老師の弟子にはこんな人がいると聞いた中に、アスタル将軍の名があった。
アスタル将軍の名はもちろんよく知っていた。最近私は、まるでアスタル将軍のようだ、と褒められることが多いし、私自身も、自分の将としてのありようが、噂に聞くアスタル将軍に似ているとは思っていた。まさかそのアスタル将軍がヤダー老師の弟子だったとは。
アスタル将軍がヤダー老師の弟子であることを、ライゴウ将軍は知っていただろうか。知っていたに違いない。知っていて、老師にこの任務を依頼したのだ。
私は老師にこの依頼をするべきではないと思い、ライゴウ大将軍に、この任務は私が当たらせていただくわけにはいきませんか、とお尋ねしたが、ライゴウ大将軍は、これはヤダー殿にお願いすべきことだ、と首を振った。
これはヤダー殿にお願いすべきことだ、というのはどういう意味だったのだろう。
老師に地の利があったからか。
弟子の始末は師匠がするべきだということなのか。
ヤダー老師でなければ〈龍眼のアスタル〉には勝てないということなのか。
分からない。
ただ分かるのは、こちらの気配にアスタル将軍が気付き、かがり火を蹴倒した時点で、私には不可能な任務となったということだ。あの状態では、どんな弓術士も標的を射抜くことなどできはしない。
いや、ヤダー老師はそれをした。アスタル将軍もそれをした。
危うくおのれを射殺すところだった弟子の矢を見て、ヤダー老師はどんな思いを抱いたのか。
アスタル将軍は、おのれを殺すのが敬愛する師匠だと、気付いたろうか、気付かなかったろうか。
よく分からない。
ただ分かるのは、あのときあの場で、われわれ凡人とは隔絶した神技を持つ弓術士同志の、凄絶な妙技の応酬があったということだ。
何度も何度もあの場面を心の中で振り返った。
見えない相手を心にとらえて、闇を通して対峙する二人の弓術士。
相手は天幕に隠れたような手応えだったと老師はおっしゃった。
ということは、老師の矢は、天幕を突き抜けて相手に届いたのだ。アスタル将軍の矢も、天幕を突き抜けてこちらに届いたのだ。信じがたいことだが、それがあの場で起きたことなのだ。
もしかすると、あのとき二人にとって、どちらが師でどちらが弟子かなどということは、問題ではなかったかもしれない。
どちらが死に、どちらが生きるかなどということも、問題ではなかったかもしれない。
あのような出来事がこの世で起きたというのは、一つの奇跡だ。
その奇跡に立ち会うことができた私は、ただただこの道の奥深さに感じ入り、日毎に募る感動を噛み締めている。
[終わり]




