第二話 山中の弓聖(中)
1
見えた。
懐かしい山小屋だ。
四年前に見たと同じ、慎ましやかで質素な小屋だ。
そのことに懐かしさを覚えるとともに、いぶかしさを感じた。
ライゴウ将軍は、四年前の老師の功績に対し、相応の褒賞というか謝礼を届けたはずだ。そうしたことをないがしろにする人ではない。だから、この小屋は、綺麗で大きなものに建て替えられていると思った。少なくとも、隙間風が吹き込まない程度の修繕はなされているものと思っていた。だが、こうして見たところ、何の変わり映えもない。
「失礼します。ヤダー老師、ご在宅でしょうか」
「おお、どなたかな? 入ってきなされ」
「失礼します。老師。お久し振りでございます」
「おおっ。あんたか。あんたは……誰じゃったかな?」
「ライゴウ将軍の配下で、千人長を拝命しておりますマスカー・エルドでございます」
「あ、思い出した。あのときのお人じゃな。四年前じゃったか。あのときは百人長じゃなかったかのう」
「はい。お取り立ていただきました」
「その若さで千人長とは、大したもんじゃ。将軍様か」
「いえ。位階は千人長に引き上げていただきましたが、役職は大隊長です」
「ほえ。千人長で大隊長とは。今のレン国軍は、ずいぶん層が厚くなったんじゃなあ」
そうなのだ。
四年前には、国軍の総勢でも五千人に届かなかった。それが今では一万五千を越え、将軍も六人いる。国は富み栄え、工業生産力も向上し、装備もよくなった。今や、パンド国やモウグ国という二大強国や、西方の雄であるソダ国や、南方で勢力を持つシンラ国などには及ばないにせよ、わが国の軍事力の高さは、諸国の中でも有数のものだ。
「まあ、座んなされや。茶でも進ぜよう」
「はい。ありがとうございます」
あの渋い茶が、また飲める。思わず私は口元をほころばせた。
2
ライゴウ将軍の手紙を読み終え、老師は、ふうっとため息をついた。
「今度はちょっと遠いのう」
「はい。パンド国との国境までお出ましいただきます」
「あんたが万事手配してくれるんじゃな」
「はい。現地に部下たちを派遣して、地理を確かめ、漁師を雇うなどの手配をさせております。ここには二人の部下を連れてまいっており、老師にお乗りいただく馬も連れてきております。一度だけ野営をしていただきますが、必要な物や金はこちらで用意してございます」
「準備万端というわけじゃ。ちょっと待っとれ」
老師は壁から中程度の大きさの弓を外し、五、六本の矢を無造作につかむと、細長い袋に入れて口を縛った。そして吊ってあった手拭いを腰に結んだ。
「お待たせしたの。では、行くぞい」
3
翌朝、宿屋の外で私は日課の鍛錬をした。二人の部下も鍛錬をしている。
途中から老師が出てきて、こちらを見ているのには気づいていたが、お互い話しかけることはなかった。
私が上半身をはだけて、右手に手袋をはめ、左手に滑り止めの革帯を巻き、矢をつがえて長弓を引き絞り、満を持した姿勢をしばらく保ち、それから弦を緩めると、背中から声がかかった。
「こりゃ驚いた。あんた、引き分けができとるじゃないか」
「引き分け、というのは弦〈つる〉を引く動作のことですね」
「そうじゃ」
「四年前、老師に見せていただいた手本を、私は心の中に刻み込みました。そして、それに近づくよう、毎日練習をしました。今、引き分けができているとおっしゃっていただき、何物にもまさるうれしさを覚えております」
「その持って回った言葉遣いは何とかしてくれんかのう。しかしあんた、一回見ただけで覚えたじゃと?」
「老師のお姿をおぼろげに記憶したにすぎません。そのお姿の通りにと思ってやってもやっても、老師のようにはできませんでした。そのうちに思い出しました。弓は呼吸で引くのだと教えていただいたことを。そして、やろうと思わず、しないと思ってすると、できないことができることがあると教えていただいたことを」
「あ、身を屈める動作のことじゃったか」
「はい。それで、そちらのほうもずっと取り組んでいたのですが、ある日ふとできたのです。体を曲げようと思わずに、ぺたりと手を地につくことが」
「なるほど、なるほど」
「そこで思ったのです。弓を引くのも同じではないかと」
「ほう!」
「私はいったん弓を引くのをやめ、ただ呼吸の練習をするようになりました。息を吸う練習です。正しい呼吸とは、どのような呼吸なのか。それを求めて、老師の呼吸を思い出しながら、毎日毎日息を吸いました」
「なんとのう」
「するとある日、吸った息が、腹の底で力の塊になったような気がしたのです」
「おお! それを丹田〈たんでん〉というのじゃ。それで?」
「次に矢をつがえた弓を持って、呼吸をしました。頭の上に構えた弓を振り下ろして弦を弾きながら息を吸うのですが、どうしても弦を引くほうに気を取られてしまいます。つまり弦を引こうとしてしまいます。そうすると、どうしても肩や腕の筋肉で引いてしまいます。これでは呼吸で引くことにならない、と思いました」
「ふむふむ、ふむふむ。それで、それで?」
「だから私は、繰り返し繰り返し自分に言い聞かせたのです。私は弓を引いたりしない。私は弓を引いたりしない。そう自分に言い聞かせつつ弓を引き、それでいて弓を引いていることに心を向けず、ただただ正しく呼吸することに心を振り向けたのです」
「まさにそれじゃ。それでいいんじゃ」
「あるとき、呼吸するのに夢中で、弓を引くのを忘れました。そう思いましたが、それは勘違いで、実はちゃんと弓を引いていました。それなのに、肩や腕や脇腹にほとんど力が入っていないのです。私は呼吸で弓を引くことができたのです」
「でかした!」
「それからしばらくは、同じことができませんでしたが、繰り返し繰り返し練習するうちに、やっとできるようになってきました。これはごく最近のことです」
「見事、見事。あんたは大したお人じゃなあ」
「でも、そこから先が分かりません」
「かっ、かっ、かっ、かっ、かっ。そうか、そうか。分からんか。それはええ。そこに分からんことがあると気づいたのはえらい。あんたが分からんことを当ててみようか。どうやって矢を放ったらええかが分からんのじゃろう」
「はい。老師が二度弓を引く手本を見せてくださいましたが、そのときは矢をつがえていませんでした。そして、老師がダイソード将軍を狙撃されたとき、私は老師の手元を見ておりませんでした。ですから、手本とすべきものを私は知らないのです」
「よっしゃ。見本をお見せしよう」
老師が左手を差し出したので、私は弓をお渡しした。
老師は、左手で弓柄を掴み、右手の親指と人差し指と中指の三本の指で弦を掴み、目を閉じて、祈りを込めるかのように、びいん、びいん、びいん、と三度弦を弾いた。
私は弦の音が自分の体に染み渡るのを味わった。弦の音によって、夏の朝の木々のざわめきは鎮められ、空気が澄み渡ったような気がした。
次に老師が右手を差し出したので、私は矢をお渡しした。
老師はすうっと弓を頭上に持ち上げ、目を半眼にして、ゆっくりと、しかしよどみなく、引き分けを行った。
長弓は、満月のように引き絞られ、ぴたりと止まった。
私は思わず老師のそばに歩み寄り、弦を握るその指先を、至近距離からまじまじと見つめた。
あり得ないものを、私は見た。
二タールの長弓に、最高に勁く弦を張ってあるのだ。人差し指、中指、薬指の先を鉤爪のようにしっかりと折り曲げて、指の力の限りを込めて弦を掴み、親指でしっかり押さえるのでなくては、弦を引いた状態を維持できるわけがない。
そのはずであるのに、老師は親指、人差し指、中指の第一関節の腹の部分で軽くつまむように弦を持って、引き絞った弓を維持している。しかも、腕も、肩も、格別に力を込めているようには、どうしても見えない。
私は老師の顔を見た。静かな顔だ。生きている人間というより、静かな石像のようだ。首筋にも力の入っている様子はない。
再び私は老師の右手を見た。やがて矢が放たれる瞬間の指の動きを見定めねばならない。全身全霊を込めて凝視した。
だがその時は、やって来ない。老師は微動だにせず、ただ時間だけが過ぎてゆく。
ぴちぴちぴち、と小鳥のさえずりが聞こえる。
物音を聞くようでは集中ができておらんぞ、と自分に言い聞かせ、ただ老師の右手に集中した。
永遠に続くかと思われた時間のあと、何の予告もないまま、矢は射出された。
私は目で見たものが信じられず、そのまましばらく老師の右手を呆然と見つめ、それから矢の飛んだ先に視線を送った。
部下二人が三十タールほど先に立っている木に駆け寄り、何かを指さして、何事かを話し合っている。
「ばかな。こんなことが」
「でも、これは今放たれた矢だ」
「信じられん」
私はその木に歩み寄った。
まだ若いゾバの木で、太さは四十チムはあるだろう。
その木に矢は深々と突き刺さり、向こう側に五十チムほども飛び出している。
軍では矢の長さは統一しているが、私は自分の体にあった特製の矢を使っており、老師にお使いいただくには、いささか長すぎる矢なのだが、その長すぎる矢の根本近く、あと数チムで矢羽が木の幹に食い込むところまでめり込んでいる。
部下二人は、私の弓術の弟子でもある。二人とも、腕前は確かだ。だからこそ、老師が放った矢が見せた貫通力のすさまじさが分かるのだ。
しかし私は、それ以上に信じ難いものを見た。
「老師」
「何じゃな」
「あなたは矢を放つ動作をなさいませんでした」
「ほう。よう見たのう」
「矢を放つための動きを指が全くしていないのに、突然、矢が放たれました。まるで……」
「まるで、何じゃな?」
「熟した果物が枝から落ちるように」
老師は、細い目を見開いて、まじまじと私を見た。
「それを自分で掴んだんか。なんとのう。驚いたわい。あんたのような人は、今まで見たことがないわい」
「どうやって矢を放ったのですか。どう指を動かしたのですか。どうぞお教えください」
「ええ質問じゃぞい。ええかな。弓術士はよく、矢を放つという言い方をするがの。わしはそうは言わん。矢が離れる、と言う」
「矢が、離れる」
「矢を放とうと思うな。自分が射ると思うな。ただ満を持して待てばええんじゃ」
「待つ……。待つというのは、何を待つのですか」
「その時が来るのを待つんじゃ」
「その時が来たことは、どうやって知ることができるのですか」
「知る必要はないぞい。その時は、あちらのほうからやって来る。その時がくれば、おのずと矢離れは生ずる」
「矢離れが……生ずる」
私は、老師のお言葉を咀嚼しようと努めた。しかしそれはできなかった。だから一言一言を脳裏に刻み込んだ。いつか分かる日が来るまで、決して忘れないように。
4
二日目は、家業の傍ら宿屋をする民家ではなく、旅人を泊めることを生業とする宿屋に泊まった。部下二人は自分たちの部屋で夕食を取らせ、私は老師の部屋で一緒に食事を取った。
「私は老師にお詫びしなくてはなりません。誠に申し訳ないことになってしまいました」
「何のことじゃろうかの」
「四年前、ダイソード将軍を射抜いた、あの奇跡の矢を放ったのは私だと、世の人々は思っているのです」
豪傑ダイソード将軍が山道を行軍中、彼方から飛来した一本の矢に射抜かれて死んだという話は、またたく間に広まった。私がそちらの方面に派遣されたことは、知る人は知っていたので、私がやったのだという噂になった。正面切って私を称賛する人さえいた。私はそのつど、射たのは私ではないと言ったのだが、老師の名は出すなとライゴウ将軍に命じられていたので、誰が射たかを言うわけにはいかなかった。悪いことに、現地に伴った二人の部下が、あれは私の仕事だと思い込んでいた。そして、いつの間にか、あれは私のなしたことだと、国中の人々が、いや他国の人々までが信じ込んでしまった。
隠れた場所から暗殺したので、国の名誉のために、自分のしたことだとお認めにならないのですね、などと言う者がいたが、それは違う。わが国とモウグ国は戦争状態にあり、ダイソード将軍はわが国の領土を侵犯した。軍事行動の最中の敵を襲撃することの何が卑怯か。あれは奇襲ではあっても暗殺ではない。油断したダイソード将軍こそおのれを恥じるべきであり、敵の虚を突いたライゴウ将軍は見事というほかない。
「ああ、それは知っとる。それがどうかしたんかの」
「心ならずもあなたの名誉と手柄を私は奪ってしまいました。おわびのしようもありません」
「わしの手柄ではないのう」
「は?」
「あれはわしが思いついたことではないし、わしが段取りをしたわけでもない。そういう状況を作る働きをしたわけでもない。ここにうまそうな料理が並んどるが、食べてうまかったら、あんたは包丁に感謝するんか。そうじゃのうて、料理を作った料理人の腕を褒めるんじゃないかのう」
「それはそうです」
「そして献立を整え、材料を用意し、部屋の調度と料理の器を揃え、うまい酒を準備し、よい料理人を雇い、使用人たちを指揮して、気持ちのよい夜を過ごさせてくれた宿の亭主の手腕に感謝するんじゃないかのう。四年前のことでいえば、宿の亭主がライゴウ将軍で、料理人があんたで、包丁がわしじゃな。包丁の手柄じゃない。そもそもわしがあんなめんどくさい仕事を引き受けたのは、ライゴウ将軍が積み上げた徳のなせるわざじゃ。じゃから手柄はライゴウ将軍のものじゃ。そのライゴウ将軍が料理人のあんたを立てるなら、わしに何の文句もないぞな」
「そこが不思議なのです。四年前も今回も、ライゴウ将軍の手紙一つで、老師はご出座くださった。困難と危険を顧みず。いったいそれはなぜなのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「聞きたけりゃ話すが、とにかくまず飯にしようぞな」
料理を食べ、酒を酌み交わしながら、老師は昔語りをしてくださった。
老師は、エタール国の生まれだった。エタール国は、わが国の西側の山岳地帯の中にあった国で、モウグ国に滅ぼされてしまった。ライゴウ将軍が、もともとエタール国の将軍であり、国が滅亡したあと、招かれてわが国の将軍となったことは知っていた。お二人は同郷だったのだ。
老師がエタール王に招かれて、都で弓を教える仕事をしているとき、故郷の村が盗賊団に襲われた。家々が焼かれ、少なくない人が死んだが、部下を率いてライゴウ将軍が駆け付け、盗賊団を討伐した。老師の父母と兄一家は全員無事だった。
そのとき老師はライゴウ将軍に、三矢を捧ぐ、と誓いを立てたという。つまり、ライゴウ将軍の求めに応じ、三度弓の技を振るうということだ。
私は感動した。何という誓いなのか。達人である老師の誓いは尊い。誓わせたライゴウ将軍も偉大だ。そしてその誓いに基づき出馬を求めたライゴウ将軍と、求めに応じて潔く死地に赴いた老師との交わりの、何と見事なことか。人も国も欲望によって動き、利が至上の価値とされるこの時代に、恩義と信義によって結ばれた、こんなにも淡く、こんなにも清らかな、人と人との交わりがあるとは。そこには、私ごときが口を挟む余地はない。その交わりに触れることができた幸運を神々に感謝するだけだ。
とはいえ、そうしてみると、少し気になることがある。褒賞のことだ。家族を助けられた恩を返すために弓の技を振るったのだから、老師は見返りなど求めないだろう。一方ライゴウ将軍は、命懸けの任務に老師を駆り立てて、その働きによって国が救われたというのに、何の褒章も与えないような人ではない。何か褒章はあったはずだ。だが、財や名誉を老師は受け取らないだろう。目に見える形で老師に報いようとすれば、むしろ老師は不快に思われるかもしれない。
となると、直接老師に関わらないところで、しかし老師が喜び、老師がありがたいと思う何かを、ライゴウ将軍は行ったに違いない。老師のほうでも、ライゴウ将軍の人格と見識を信頼して、自分の知らないどこかでライゴウ将軍が何かをしてくれていることを察し、楽しくも思い、満足してもおられるのではないか。さらに、老師がそのような受け止め方をなさることを知っているから、ライゴウ将軍は、平然と依頼の手紙を出せるのではないか。
そんなことを心中で思い巡らしながら、私は老師と酒を酌み交わし、この上なく心地よい夜を過ごした。
5
「いかがでしたか」
「うん、うん。確かに金色の房を付けた将がおったわい。魚も釣れたぞい。今夜はこの魚で一杯やろうじゃないか」
老師がこうおっしゃるということは、オウエン大将軍の兜の金の房を確かに撃ち落としてくださったのだ。
任務は終わった。成功だ。あとは帰ってライゴウ将軍に復命するだけだ。パンド国の軍勢を監視する役目は、ほかの隊が受け持っている。ただし、復命は急がなくてよいと言われている。今夜は、少しばかりよい宿で、老師をおもてなししても構わないだろう。
それにしても今回の任務は意味が分からない。
国の大きな危機なのである。国土の半分が削られようとしている。しかもその半分は、肥沃な農地と豊かに栄えている都市部であり、ここを奪われたら国は滅びに向かうしかない。
この事態を招いた元凶はモウグ王である。四年前の侵攻が頓挫して、ただちにわが国と話を結んだが、わが国土を望み見るその欲望の炎は一層激しく燃え盛り、直ちに驚くべき手立てを講じた。
まず、自身の実子である娘をパンド王の側妃に差し出した。これは、自国がパンド国の属国かそれに近い立場だと宣言したに等しい。
続いて、パンド王の娘を自身の太子の正妃に迎えた。つまり、次の代になるとパンド王の子がモウグ王となるのだ。
ここまでされたのでは、パンド王としては、モウグ王が自身の権威に伏し、パンド国を盟主と認めてその風下に立つ決心をしたと考えざるを得ない。
そのほかにも、さまざまな手管を講じて、モウグ王はパンド王の自尊心をくすぐり続け、強い信用を得るに至った。
その上で、モウグ王はパンド王に持ちかけたのだ。
「レン国は、パンド国が王の中の王となることに賛同しようとせず、自国の利益ばかりを求めております。これは無礼の極みであり、国々の平和と共存を危うくするものです。この際、パンド国とモウグ国でレン国の国土を削り取り、分け合って、かの国に無礼を反省させると共に、パンド国とモウグ国を一層繁栄させようではありませんか」
無論これは、やがてモウグ国がパンド国を征服するための準備にすぎない。レン国に得たパンド国の支配地を、モウグ国はいとも簡単に飲み込むことができる。そうして拡大した侵攻路から、油断しきったパンド国に攻め入り、モウグ国は唯一絶対の大国となるのだ。
モウグ国の思惑を、レン王の命を受けた説客たちがパンド王に訴えたが、自尊心が肥大したパンド王は耳を傾けなかった。
そして今回、パンド王は、諸国安寧のためと称し、レン国、パンド国、モウグ国の三国会議を提案した。開催場所はレン国の都である。そして、なんと王太子を使者として差し向けた。モウグ国からは外交担当の大臣が来るという。
会議の狙いははっきりしている。レン国の国土の半分を、パンド国とモウグ国に差し出せというのだ。そんな要求には応じられない。しかし、パンド国からは、王太子の護衛として、オウエン将軍が三万の大軍を率いてやって来る。オウエン将軍は、不敗の名将であると共に、非凡な外交官であり、パンド国の軍事外交の支柱である。そして王太子を外交特使として派遣するというのは、最大限の礼を尽くすことである。最大限の礼を尽くしたにも関わらず、レン国がその提案を拒否すれば、オウエン将軍率いる三万の軍勢が、レン国の都を火の海とするだろう。
仮に三万の軍勢を押し返すことができたとしても、パンド国には十二の軍団があり、総勢十五万の兵力がある。全面戦争になれば、待つものは絶望だ。しかも、モウグ王は、彼を崇拝する五万の兵を抱えている。合計二十万の兵力の前には、レン国一万五千の兵など、蟷螂の斧に過ぎない。
そんな状況で、ライゴウ将軍は、オウエン将軍の狙撃を老師に依頼した。私には理解不能だった。仮にも相手は、現時点では侵攻軍ではなく外交特使だ。王太子が単なるお飾りであって、実質の外交特使がオウエン将軍であることは、誰の目にも明らかだ。しかもその命を奪うというならまだ分かるが、兜の角に付けられた金色の飾り紐を撃ち落とせというのだから、訳が分からない。そんなことをすれば、相手は激怒するだろう。いったい誰にどんな利益があるというのか。
とはいえ、ライゴウ将軍の命なのだ。私はその命を果たすため、最大限の努力をするだけだ。
作戦自体は単純なものだ。敵は大軍であり、襲撃を予想していないし、襲撃されても兵力で上回る。従って、水の確保のしやすい大河に沿って悠々とやって来る。歩兵を抱えた軍団の進軍速度は一定だから、地点ごとの到着期日はほぼ確実に予測できる。こちらは、漁師を雇って川に舟を浮かべ、釣りをしながら敵を待ち構え、狙撃をして、あとは舟で逃げればよい。当然ながら、川の流れが早くなる地点で狙撃を行うことになる。
兵を置けば見つかったとき言い逃れができないし、人数が多くなれば見つかりやすい。だからこの任務は、老師と漁師の二人以外、現場には行かない。釣りをするふりをしながら待機するはずが、本当に釣りをしていたというのは驚きだったが。しかも、老師と漁師は張り合って魚を釣ったようで、食べきれずに余った魚は宿に売った。
6
パンド国の一行は、途中で引き返した。
私も驚いたが、たぶんもっと驚いたのはモウグ国の大臣だ。パンド国の特使一行と共にわが国を追い詰めるはずが、パンド国一行が突然引き返したのである。
そのことをモウグ国の大臣に告げたのは、わが国の人間ではなく、パンド国の人間だったが、この突然の裏切りに、モウグ国の大臣は激昂して大声を発したので、すぐにこちらにも伝わった。
そののち、わが国にもパンド国から正式に通達があった。オウエン将軍が突然発病したので、伝染を防ぐため、特使団は分散して帰国するというのである。
もちろんこれは言い訳にすぎない。将軍一人が病に罹ったとしても、王太子が特使として来訪するのに、何の支障もないはずだ。
だからこれは、あの一本の矢がもたらしたことなのだ。
いったいなぜ、兜の紐飾りを撃ち落としただけで、あの悪名高いオウエン将軍が引き返したのか。
私はライゴウ将軍に、そのことを尋ねた。だが返事はなかった。つまり、自分で考えろということだ。
考えに考えて、およそこういうことだったのだろうかという推測は立った。
あれは、わが国の覚悟を示す行いだったのではあるまいか。
われわれは、オウエン将軍の兜の紐飾りを狙撃した。三万の軍勢に守られながらも、オウエン将軍は自分の紐飾りを守ることができなかった。ということは、オウエン将軍の命を取ることもできたということであり、王太子殿下のお命を縮め参らすこともできたということである。そして、敵の油断を突くだけの知略と人材はある、ということでもある。そんなことをすればパンド国の怒りと報復は熾烈なものとなる。それでもわれわれは、その道を選ぶと、あの一矢はオウエン将軍に告げたのだ。
たとえ全面戦争になっても、われらは降伏しない。最後の最後まで戦い抜く。レン国の被害は多大なものになるかもしれないが、パンド国も傷つき疲弊する。
こちらの国に踏み込んで侵略するのだから、地の利と人の利はレン国にある。レン国の庶民のことごとくが、潜在的な密偵となり、暗殺者となり、裏切り者となる。どれほど兵力を注いでも、北に広大な荒地を抱えるレン国の兵と民をことごとく捕殺することはできない。レン国の民は、永遠にパンド国を憎み、抵抗し続ける。それでもレン国の国土をむしり取る覚悟があるのか。あるのなら踏み込んでこい。待つのは終わりのない地獄だぞ。
そういう思いを、ライゴウ将軍は、老師の一矢に込めたのではあるまいか。そして知将にして老練な外交官たるオウエン将軍は、その一矢の意味を正しく受け止め、それはパンド国のためにならないと判断した。だから、一身に責任を負う形で軍勢そのものを引き上げた。そういうことなのではあるまいか。
さらに想像の翼を広げるなら、見識豊かなオウエン将軍には、今のパンド国はモウグ国の思惑に踊らされているが、真に警戒すべきはモウグ国であってレン国ではなく、むしろモウグ国に敵対した場合に味方として頼れるのはレン国だ、という考えがあったのかもしれない。つまり、兜の房を落とした決意の示し方は、オウエン将軍に、宮廷での論争の根拠を与えるものだったかもしれない。
そのように推測してみたが、本当のところはよく分からない。
結局、オウエン将軍は、将軍を解任され、閑職に落とされた。それがパンド国の軍事力の著しい衰退を招くきっかけになるとは、このときの私は思いもしていなかった。
[第三話に続く]




