第二話 山中の弓聖(上)
私の腰の痛みと肩の痛みを癒してくださり、オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』という書籍の存在を教えてくださった、東心斎橋整骨院・はりきゅう院の院長先生に、感謝を込めて。
1
「隊長さん。あそこが、ヤダーじいちゃんの小屋だけん」
「おお、そうか。案内ご苦労だった。ほら、約束の礼金だ」
「あんがとう。えへへ」
少年は、謝礼の小銭を受け取ると、腰に吊った袋にしまい込み、小屋に駆け寄って、扉を開きながら声を上げた。
「ヤダーじいちゃん!」
「おお、カイか。どうしたんじゃ、こんな時間に」
「隊長さんを案内してきたんよ」
「隊長さん? 軍人さんかの」
「うん。ヤダーじいちゃんに用があるゆうて、父ちゃんに、ここの小屋の場所聞いたんよ。そしたら父ちゃんがおいらに、連れてったれって」
「そうかそうか。よう案内してくれたのう」
私は、そんな会話を聞きながら、馬の紐を、小屋の前の立木に繋ぎ、扉へと歩いた。
「入らせていただいてよろしいでしょうか」
「おう、おう。入りなされ。外は寒いじゃろう」
「失礼いたします」
小屋の中に入り、扉を閉めると、一礼して身分を名乗った。
「私は、ライゴウ将軍配下で百人長を拝命しております、マスカー・エルドと申します」
「ほう。その若さで百人長さんかや。大したもんじゃ。ところで、カイはもう帰してやってええかのう」
「あ、はい」
「カイ。この干しリーラをやろう」
「ありがと。おいら、これ大好きなんだけん」
「はは。じゃあ、暗くならんうちに帰るとええ」
「うん。じいちゃん。またね。隊長さん、ありがと」
「こちらこそ、ありがとう。気をつけて帰りなさい」
少年は、小屋を出て扉を閉めた。足音が遠ざかっていく。
私はあらためて、老人に深々とお辞儀をした。
「弓の達人ヤダー老師にお会いでき、光栄に存じます」
「わしはそんな大層な人間じゃないぞい。それで、何のご用かの」
私は懐から手紙を取り出して、老人に渡した。
「ライゴウ将軍から老師へとことづかってまいりました」
「そうかの。じゃあ、読ましてもらうかのう。あんた、その外套は脱いで、そっちに掛けるとええ。それで、そこらに座るとええ」
「はい。失礼します」
衣紋かけもハンガーも見当たらないが、木を組んで作った壁から、枝が所々に突き出していて、服や雨具が引っ掛けてある。その真似をして、突き出た枝に外套を掛けた。
座ろうとしたが、どこに座ればいいのか。
この小屋には椅子というものがない。扉の前は土が剥き出しになっていて、かまどや水桶があり、その奥には五十コルスほどの高さの板場となっている。板場の中央は四角く切り取られて囲炉裏となっている。
「失礼します」
そう言って、くるりと体の向きを変え、板場の端に腰掛けた。これだとヤダー老師に尻を向ける格好になるが、致し方ない。座れと命じられたのだから。
パチパチと薪が燃える音をしばらく聞いていると、遠くで何かの鳥が鳴く声が聞こえた。
やがて、かさかさと音がした。手紙を畳んでいるのだろう。
「将軍のご依頼は承知した」
その返事を聞いて、私はほっとした。だが同時に、少し残念にも思った。
この老人が依頼を断った場合、無理押しはせず、引き下がるように命じられている。その場合、老人に依頼するはずだった任務に、私が挑むよう命じられている。
老人が断れば、将軍は失望するだろう。将軍を失望させるのは嫌だった。だから、老人が任務を引き受けてくれとほっとした。だが、この困難な任務に挑戦してみたいという気持ちもあったので、そこは少し残念だった。
「じゃあ、明日出かけるとするかの。あんた、下の温泉街で泊まるとええ。わしが明日の朝迎えにゆく」
「あの。できれば、ここに泊めていただけないでしょうか」
「ここにい?」
「はい。手紙に書いていない経緯や状況について、お話しするよう命じられております。それに、得難い機会でありますので、老師のお話も色々と聞かせていただきたいのです」
「そりゃまあ、泊まりたいちゅうんなら泊まったらええが、寒いぞな」
「私は軍人であります。食料も持参いたしております」
2
小屋に泊めてもらえることになった。
泊まりたい理由として述べたことは嘘ではない。色々と説明しておくべきことはある。
だが本当のところ、私はこの老人が、将軍の期待するような人物なのかどうか、怪しんでいた。
世に隠れた弓の名人だと、将軍は言った。
だが、とてもそんなふうには見えない。
私が老人を見た第一印象は、猿だ。
しなびた小さな猿が、薄汚い毛皮をまとっている、というようにしか見えない。
毛皮には袖がなく、がりがりに痩せた頼りない腕が、ひょこりと毛皮から突き出ている。
背中を丸め、藁か何かで編んだ丸い敷物に、だらりと座った姿からは、覇気も生気も感じられない。
禿げかかった頭に残るまばらな毛髪が、頼りなげにふらふら揺れている。
これが本当に将軍が頼りにした名人なのだろうか。
ひょっとして別人なのではないか。
あるいは、老化によって衰えて、将軍の知る人物とは別人のようになってしまったのではないか。
場合によっては、この老人に任せることはやめて、私が代わりにやったほうがいいかもしれない。
ただし、小屋の後ろの壁には、大小七張りの弓が掛けてある。七つとも、粗野で無骨な作りではあるが、使い込まれた弓だ。特に一番大きな長弓は、かなりの威力と飛距離を持つだろう。この老人があれを使いこなせるというのなら、やはりこの老人が将軍の言う名人なのかもしれない。
そこのところを見極めるため、私はここに一晩泊まりたいと願い出た。
失敗するわけにはいかない任務なのだ。
3
馬を土間に入れるよう言ってくれたのはありがたかった。
この小屋は、山をそれなりの高さまで登ってきた場所にあるので、夜は冷えるだろう。
老人は私に薪を割るよう告げると、土間に藁を敷き、桶に水を汲んで馬に飲ませてくれた。その動きはてきぱきしていたし、何より馬を大事にしてくれたことに、私は感謝と敬意を覚えた。
私が小屋の中に持ち込んだ長弓と矢筒を見ても、老人は何も言わなかった。
私の弓は、都にある有名な工房で作られた逸品で、勁く美しい。矢もまた、一本一本が丹精込めて作られた優れた品だ。弓術を学んだものなら、興味を引かれずにはいられない品だ。だが老人は、
「大きな弓じゃなあ」
と言ったきり、あとはちらりと見ようともしなかった。
戦況について説明し、老人に与えられた任務が、わが国の存亡にも関わる重要な作戦であることを伝えた。老人は、気持ちを昂らせる様子もなく、萎縮する様子もなく、ただ静かにうなずきながらそれを聞いた。
私は、老人の弓に関する知識や経験を探ろうと、いろいろな論議を仕掛けたが、老人は乗ってこなかった。
老人の話は、麓に近い温泉街にいる女性たちのことばかりだった。どの女性は胸が柔らかいとか、どの女性はお尻の触り心地がいいとか、ちびちび酒を飲みながら老人は楽しげに語った。温泉街にはそういう商売をする女性がいるものだが、この老人は、この年で通っているのだろうか。と思ったとき、私は少しばかり不満げな表情をしてしまったようだ。
「か、か、か。そう、うろんげな顔をしなさんな。女の温もりはええもんじゃぞ。人として生きる幸せを教えてくれる。人としての幸せを知らんような者に、弓の極意はつかめんぞ」
女遊びをすることと、弓術の修業に、一体どんな関係があるというのか。このときの私には、老人の言葉は全く響かなかった。
4
温泉街に馬を貸してくれる店があり、ヤダー老人はそこで馬を借りた。
われわれは、西の山岳地帯に向かって馬を走らせた。
老人の馬には、袋に入った中型の弓がくくりつけられている。老人がこの弓を選択したことで、私の不信感はますますふくらんだ。というより見限った。
当然、一番大きな弓を持っていくものだと思っていたら、老人が手に取ったのは、二番目に大きい弓でさえなく、中ぐらいの大きさの弓だったのだ。
さすがに黙っていることはできず、この任務には長弓が必要でしょう、と私は言った。
だが老人は、わしはこの弓を選ぶ、と答えた。
たぶん力が衰えてしまって、もう長弓は引くことができないのだろう。
私はそう思うと同時に、ある覚悟を決めた。
その覚悟とは、この老人が矢を射るとき、私も射る、という覚悟だ。将軍の指示には背くことになるが、この老人に任せるわけにはいかない。
5
小屋を出発して三日目の朝、私は、野営場所の近くで、朝食前の日課である体操をしてから、右手に弓射用の革手袋をはめ、長弓を引き絞る稽古をした。
この稽古をするとき、私は、矢をつがえて弓を引く。できるだけ実際の感覚に近づけるためだ。
強い弦を張った長弓を引くためには、非常に大きな力がいる。
しかも、引き絞った状態で、矢を放つべき瞬間を待たなければならない。
だから弓術師というものは、腕の筋肉を極限まで鍛えねばならない。
私は体格もよく、筋肉も鍛え抜いている。
その私であっても、体調が悪ければ、この長弓を引き絞って揺るぎもせずに静止状態を保つことはできない。
この日の私は、体調は悪くなかったが、心に乱れがあった。だから、矢の先が静止せず、ふるふると震えた。何度も試みたが、どうしても矢先が止まらない。
「矢先が定まらんのう」
老人が声を掛けてきた。
私の練習を老人が見ているのには気づいていた。出発する日の朝は老人の小屋の外で練習をしたし、二日目の朝は宿の外で練習をした。だから老人が私の練習を見るのは今朝が初めてだ。野営した場所のすぐそばで練習しているのだから、見られても文句はない。というより、鍛え抜いた弓術士のわざを見せつけてやりたかった。その邪念が矢先を乱した。
「どうすればいいでしょうか」
何か助言でもできるものならしてみろ、という思いで私は尋ねた。
「そうじゃなあ。ちょっと貸してみ」
老人が右手を差し出した。
私は、何を言われているか分からなかった。だから、何もしなかった。少しばかりの時間のあと、老人がもう一度言った。
「その弓、ちょっと貸してみ」
私はようやく何を言われたか分かった。だが、この弓を受け取って、一体どうするというのか。まさか、見本を見せてくれるというのか。面白い。見せられるものなら見せてもらおう。
私は老人に弓を渡した。矢は渡さなかった。
「よく見とるんじゃぞ」
老人はそう言うと、左手で弓柄を掴み、素手のままの右手の指先で弦を掴み、目を閉じて、何かに祈るかのように、びいん、びいん、びいん、と三度弦を弾いた。
私はその姿に何かしら厳粛なものを感じ、はっとした。
老人は、眼をうっすらと開け、半眼のまま、ゆっくり息を吸った。そして、体をいくぶんそらしながら、弓をすうっと打ち起こした。弓を持つ左手は、高々と天を突き、弦を持つ右手はその真下にある。
ゆっくりと、弓が前方に打ち下ろされてゆく。
老人の左腕は驚くほど長く伸び、弓を前方に突き出す。
弓が打ち下ろされてゆくに従い、弓と弦は引き分けられてゆく。大きく、大きく引き分けられてゆく。
まるでおもちゃの弓を引くようだ。あの強靭で頑固で思い通りにならない弦が、何の抵抗もないかのごとく、大きく大きく引かれていく。
今や弓は完全に引き絞られた。
まるで満月のようだ。
私は思わず歩み寄って、老人の腕をしげしげと見つめた。
相変わらず寒さなど知らぬげに、裸の腕が毛皮の服からひょこりと突き出ている。その腕をじっと見た。
これほどの力を込めているのだから、はちきれんばかりに筋肉が膨れ上がり、筋が浮き出ていてよいはずだ。弓の力に耐えきれず、ぷるぷると震え出してよいはずだ。
それなのに、か細い腕は、さほど力を込めている気配も見せず、揺れも震えも見せず、引き絞ったままの弓を保っている。
満月のごとく弓を引き絞り、その状態を維持して矢を放つ瞬間を待つことを、満を持するという。
今まさに私の目の前には、満を持している、その見本がある。その見本を見せてくれているのは、筋骨隆々とした弓術士ではなく、枯れ木のような老人なのだ。
どれほどの時間がたったろう。突然老人の指から弦が離れた。
放たれた矢が、木立を抜けて、遥か遠くに飛び去る光景を、私は幻視した。
老人は、架空の矢を射たあと、しばらくその姿勢のままで、何かを見届けてから、構えを解いた。
「見たかの」
「は、はい」
「何を見た」
「あなたの細い腕が、震えもせず、力みもせず、剛弓を引き絞るのを見ました」
「あんたはどうやって弦を引くかの」
「両腕で。肩の筋肉で。そして全身の力で」
「それは力任せの引き方じゃなあ。それも一つのやり方ではあるがのう」
「老師はどうやって弦を引いたのですか」
「呼吸で引くんじゃ」
「呼吸で……引く」
そのあと老師は、もう一度見本を見せてくださった。
私は老師がどういう具合に呼吸をしているのかを、見つめ、感じ取り、ただそのままを記憶しようと努めた。
今教わったことは、とても大事なことだ。だが、たぶんすぐには真似できない。練習に練習を重ね、いつかたどり着くのだ。そのたどり着くべき境地を、今見せていただいたのだ。
私の心は感動で満たされていた。夢見心地のまま、老師が返してくださった弓を受け取った。
「そういえばさっき体操をしとったが」
「はい」
「身を屈めるのが苦手みたいじゃのう」
「はい」
私は筋肉の鍛え方については人後に落ちないが、体の柔らかさは人に劣る。
「身を屈めようとせんのがコツじゃぞい」
「は?」
「見とれよ」
老師は、足をそろえて立ったまま、上半身を折りたたみ、だらんと両手を垂らした。
「わしは体を曲げたりせん。手を地に突いたりせん。絶対にそんなことはせんぞ」
そう言いながら、老師は足を全く曲げもせず、両手の手のひらをぺたりと地につけた。
「あっ」
「分かったかの」
「体が柔らかいのですね」
「あほ。そうじゃない。ええかの。何かをしようとすると、人間の心と体というのは不思議なもので、そんなことはできない、させない、という動きが心と体に起こるんじゃ。じゃからの。そんなことはせんぞ、と自分に言い聞かせておいてから、すっとやると、できないと思ったことができてしまう」
「はあ?」
「これは、理屈で聞くと難しいようじゃが、実際にやってみると、意外と簡単にできる。これができると、いろいろなことに応用が効く。弓を引くのにもじゃ」
「は、はい」
6
七日目の夕刻、サンガ村に着いた。
「エルド様!」
「おお、タジン。敵はどうしている」
「まだ連絡が来ません。明日ぐらいには、ハリド平原に入るのではないかと思いますが。リークスが見張っています。敵を見たら、すぐにこちらに帰ってきます」
「そうか。ご苦労」
よかった。間に合った。十分間に合うだろうとは思っていたが、万が一間に合わなかったら、将軍の作戦が破綻する。
最低でも一日は余裕があるわけだ。老師と私はサンガ村で体を休めた。
翌日、リークスが帰還した。敵が来たのだ。ということは、今夜敵は山の向こう側で野営して、明日山に入る。
我々はもう一日サンガ村で過ごし、翌朝早く村を出て、タジンの案内で山に入った。
やがて馬では進めなくなり、木立に馬を繋いで、木々の間を歩いて進んだ。
タジンはサンガ村の出身であり、迷いなく進んでいく。リークスも難なくついてゆく。ヤダー老師もひょいひょいと進む。だが私は、鎧のあちこちが木々の枝に引っかかり、革靴が、長く伸びた草や落ちた枯れ枝に絡み、何より長弓と長い矢筒が邪魔になって、皆の足手まといになってしまった。
「エルド様。ここです」
現場を見て、私は絶句した。
「ここなら敵が丸見えです。そして安全に狙撃できます」
確かに向かい側の山の道を通る敵軍を、この斜面からなら狙えるだろう。敵が通る道は、こちらの山には通じていないので、追われる心配もない。こちらの山の斜面には木々が生い茂っていて、身を隠したまま敵を待ち構えることができる。
しかし、遠すぎる。
向かい側の山の道まで、およそ百五十タール、あるいは百七十タールほどもある。矢を届かせることは簡単だが、敵将を狙い撃ちにするのは無理だ。
「少し距離がありますが、エルド様なら十分狙える距離です」
私は二百タール先に樽を置いて弓で狙う練習をすることがある。風がなければ、十矢のうち八矢を当てることができる。驚異的なわざだと周囲からはいわれ、自分でもいささかの自負はある。
だが、地面に置いた樽を狙うのと、馬に乗って移動する人間を狙うのとは、全く違う。しかもここは山の上であり、谷を挟んだ向かい側の山を通る敵を狙うのだ。谷には風が吹いている。さほど強い風ではないが、距離があるからどうしても矢は流される。
長弓に強く弦を張れば、四百タールかそれ以上の距離を飛ばすことは可能だ。訓練された弓兵隊なら、二百タール先の敵軍に矢の雨を降らすことができる。だが精密射撃というのは別物なのだ。
そして今回の場合、ただの一矢で敵将を仕留めねばならない。最初の矢が当たらなければ、敵は護衛の兵たちに囲まれてしまう。
タジンには、そういうことが分かっていない。
7
私が途方に暮れていると、ヤダー老師がのんびりとした声を発した。
「なるほどのう。こりゃええ場所じゃ。よう見えるわい。エルド殿」
「はい」
「敵軍は大軍じゃ。歩兵もおる。行軍には時間がかかるじゃろう。こちらは腹ごしらえといこうじゃないか」
われわれは弁当を食べた。気持ちが少し落ち着いた。
「さてとのう。エルド殿」
「はい。何でしょう」
「お二人の兵隊さんには、馬を繋いだところまで戻って待機してもらうのがええじゃろうな」
「はい。そうさせます」
私はタジンとリークスに、馬のところまで戻って待機するよう命じた。二人の表情は、残りたい、と訴えていたが、上官の命令は絶対だ。おとなしく山道を戻っていった。
「案内なしで帰れますでしょうか」
「それは大丈夫。あんたのその兜は、脱いで木の陰に隠しといたほうがええ」
私の兜には中央に角が突き出ており、赤い紐飾りが付いている。これは遠方からでも目立つだろう。そんなことにも気づかなかった自分に苦笑して、兜を脱ぎ、木の陰に隠した。
無言の待機が続いたあと、私は老師に尋ねた。
「試射をなさったほうがよいのではありませんか」
まだ敵はいない。今のうちに試射をしておけば、どの程度矢が流されるかを知ることができる。
「いや。せんほうがええじゃろうな」
なぜ、試射をしないほうがよいのか。試射した矢を、敵兵が見つける可能性がないとはいえないからか。いや、たぶんそうではない。そうではなく、試射してしまえば、風の影響を知ることができるが、風の状態はその時々で違う。風の影響を知ることが、かえって邪魔になる。そういうことなのではあるまいか。
それとも、ただ一度の射撃に精魂を込めるために、試射などはしない、ということなのかもしれない。
ともあれ、私はそれから無言を貫いた。老師には老師のお考えがあり、やり方がある。老師の妨げになるようなことをしてはならない。
8
緊張を伴う待機時間がずっと続き、いささかぼうっとしていた私の耳に、物音が聞こえた。まだ大きな音ではないが、大勢の人間が移動する音だ。蹄の音、鎧の音、馬車の音、ざわざわとした気配。軍勢だ。無言の軍勢が近づいてくる。
老師にそのことを告げようとして、思いとどまった。
老師は、草の上に座りこみ、両膝の上に手を置いて柔らかに指を曲げ、目は半ば閉じていて、深くゆっくり呼吸をしている。
(老師は心気を整えておられるのだ)
(邪魔をしてはならない)
やがて軍勢の音が近づいてきた。
老師はすっと立ち上がり、弓を取り、矢をつがえた。やはり素手のままだ。
矢も奇妙な矢だ。矢羽の代わりに、さらさらした鳥の尾を矢尻に突っ込んである。
こんな矢がまっすぐ飛ぶものなのだろうか。
老師は弦を引き、満を持して標的が現れるのを待った。
峠の角にまず姿を現したのは、鎧を着けた騎兵だ。次も同じだ。そのまた次も同じだ。
その後に現れた人物を見て、私は、はっと息を飲んだ。
巨馬にまたがる巨漢。赤黒い鎧。真っ赤な陣羽織。
ダイソード将軍だ。
他国を震え上がらせるモウグ国の四鬼将軍の一人、〈赤蠍〉のダイソード。
今回の侵攻軍のうち、北路からわが国の都を脅かさんとする軍団の指揮官。
三人の騎兵に先導させ、軍団の先頭を進んでいる。これこそまさにダイソード将軍だ。 これだけ離れて身を隠していても、その圧倒的な武威に、思わず身構えてしまった。
老師は、と見れば、木石と化したように、ただじっとしている。
私は大きく息を吸い込んだ。山の空気が、縮こまった肺腑を、ぎしぎしと押し広げる。
私は、かっと目を見開き、わが国を侵さんとする暴虐の将軍をにらみつけた。
将軍の後ろからは、精鋭たちが次々に姿を現す。幸いなことに、弓兵の姿はまだない。後ろのほうにいるのだろう。
(それにしてもダイソード将軍の鎧のなんと重厚なことよ)
(あれでは腹に当たっても胸に当たっても致命の一撃とはならないのではないか)
絶命させずとも重傷を負わせることができれば、この軍団の侵攻はにぶる。この軍団の強さは、ダイソード将軍の比類なき武威にある。ダイソード将軍が先頭に立てなければ、軍団の突破力は半減するはずだ。
私は、祈るような気持ちで、その時を待った。
矢が放たれた。
しゅわり、という風切り音が私にそれを教えた。
虚空を飛ぶ矢を見たような気もするし、見なかったような気もする。
空を走る音は聞こえなかった。
風だ。
谷を渡る風の音が、矢音を消したのだ。
だが、私の目は確かに見た。
ダイソード将軍の喉元に、一本の矢が突き立つのを。
将軍の巨躯がぐらりと揺れて、馬上から落下した。
「ほら。行くぞな」
老師に声を掛けられ、私は急いで兜を拾い上げ、一度後ろを振り返った。
騎兵が一人、こちらを指差して、何かを叫んでいる。
私は、老師の後を追って走り出した。長弓と矢筒はここに捨てていく。逃げるのに邪魔だ。
木々の間を迷いもなく駆け抜ける老師の後ろ姿を見て、やっぱり猿だな、と私は思った。
サンガ村に帰り、食事をしたあと、老師とは別れた。
私は至急ライゴウ将軍のもとに帰参し、首尾を報告しなければならない。
タジンをお供につけます、と申し出たのだが、断られた。のんびり一人で帰るそうだ。
私は、老師にお渡しする謝礼を持参していないことが気になったが、それはライゴウ将軍が手配されるのだろう。とにかく、老師はわが国の恩人だ。これで敵軍を押し返す見込みが立つ。
9
レン国は、東を蒼海に抱かれ、西は山岳地帯に囲まれ、北は荒涼とした未開の土地に面していて、最南端ではわずかにパンド国と国土を接している。
中央諸国からは遠く、従って国々との交流も浅く、中央の国々の栄枯盛衰を遠望しつつ、国力を培ってきた。
ところが、前王の時代に国内が乱れ、その隙を南のパンド国につけ込まれ、属国に近い扱いを受けるようになった。
パンド国は、蒼海に突き出した半島を主な国土とする国で、いつの頃からか優秀な学者や芸術家が集まるようになり、良質な工芸品が作られるようになり、優れた政治家や将軍が相次いで現れ、文化の花咲き誇る一大強国となった。初めは東の辺鄙な国だと見られていたが、近年では国々の衝突が起きたとき、パンド国に仲裁を頼むのが当たり前となってきた。いわば諸国の盟主に近い立場にある。その裕福で誇り高いはずの国が、レン国の乱れを見て欲心を起こし、急に攻め入って都を陥落させ、その富を奪ったのである。
幸いに、レン国の前王の長子は英邁な人物で、若くして王に即位するや、優秀な人材を集めて国力を養い、ついにパンド国から独立することができた。
そうしたところ、今度は西のモウグ国から狙われるようになった。モウグ国とレン国との間には、もともといくつもの小国があったが、モウグ国は十数年ほどの間にその国々を攻め滅ぼして自国に取り込んだ。その結果、レン国は、その国土の西半分で、モウグ国と国境を接するようになったのである。
あるとき、モウグ王は、レン王に、無理難題を吹き掛けた。レン王がこれを断ると、無礼であると非難して軍を起こした。
なぜモウグ国はレン国に戦を仕掛けたのか。
レン王とライゴウ将軍の見るところでは、モウグ王の真の狙いはパンド国だ。レン国を征服することでレン国の財と兵をわがものとし、増大した武力をもってパンド国に侵攻し、併合するのだ。パンド国を飲み込めば、モウグ国は、どんな国も対抗できない大国となる。そしてゆくゆくはすべての国を併呑して統一国家を築き、唯一の王となるのが、モウグ王の野望なのだ。
モウグ王の狙いが分かるレン王は、パンド王に同盟を持ちかけた。ところが、それに先んじてモウグ王はパンド王にへりくだって多大な財物を贈った。この気前のよい贈り物にすっかり気をよくしたパンド王は、レン王と協働してモウグ王と戦うことに難色を示した。
モウグ国の南側にある中央諸国にも働きかけてはいるが、その効果はすぐには現れない。
レン国は、強大な軍事力を持つモウグ国の侵攻を、独力で防がなくてはならなくなった。
モウグ国は、四つの軍団のうち三つの軍団を差し向けた。その一つ一つの軍団が、レン国の全軍を数で大きく上回る。それぞれの軍団長は、モウグ国が誇る四鬼将軍のうち三将だ。
南路から攻めるのは、スタール将軍。
中央路から攻めるのは、シリンダー将軍。
北路から攻めるのは、ダイソード将軍。
いずれも百戦錬磨の名将で、数々の武勲を挙げている。スタール将軍は手堅い戦いをし、シリンダー将軍は奇策を好み、ダイソード将軍は火のような猛攻をする。
陣容と侵攻経路を隠そうともしないのは、レン国の戦力を分散させるためだ、とライゴウ将軍は看破した。そこでライゴウ将軍は、全軍をもって南路の敵に当たることにした。
山地を越えて中央路を来るシリンダー将軍は政敵の多い人物だ。最大の政敵である大臣に賄賂を贈り、シリンダー将軍が更迭されるように働きかけた。
そして同じく山地を越えて北路を来るダイソード将軍には、ヤダー老師を差し向けたのである。
10
モウグ国侵攻軍のうち、南路から来たスタール将軍は、ライゴウ将軍の神技のような指揮によって打ち破られた。
中央路から来たシリンダー将軍は、更迭され、これを不服として反乱を起こした。このまま国に帰ればあらぬ疑いを掛けられて処刑されるという不安もあったようだ。結局、部下に裏切られて横死した。
北路から来た軍団は、ダイソード将軍の死後、指揮権を巡って争いが起き、ぐずぐずしている間に、戦争が終わってしまった。
戦争を終わらせたのは、中央諸国への働きかけだ。これ以上モウグ国が大きくなることを、どの国も望んでいない。だからレン王の働きかけに呼応して、モウグ国の動きを牽制してくれた。
最も信頼するスタール将軍が敗北し、他の軍団もうまく機能しておらず、周辺国の状況も不穏であると見て、モウグ王は、さっさと戦争を終結させてしまった。レン王に使者を送り、レン王とライゴウ将軍の武勇を褒め称え、無礼であるという批判は取り消すと申し出て、少なからぬ黄金を献じたのである。
こうして戦争は終わり、国は守られた。だが、モウグ王が野望を捨てたとは思えない。
私は昇進し、多くの兵を任される立場となった。兵たちを鍛えると同時に、自身の武技にも磨きをかけている。
いつかまた老師にお会いして、教えを受けたいものだと思っている。
その願いは四年後にかなうことになる。
[第二話に続く]




