第43話 成功とささやかな抵抗
勇者一課のフロア、神崎は端末の前に座り、画面の角に表示された小さな文字列を見ていた。
『E-ACD-08 学院葬/英雄候補誓い:完了』
完了。そんな言葉で終わるには、あまりにも重い。完了は終わりの別名で、終わりは区切りの別名で、区切りは整形の別名だ。整形した瞬間に痛みが消えるわけではないのに、仕事はそれを消える前提で進む。
机の端には、昨日の現場シミュレーションをするために使った紙片が一枚だけ残っていた。避難誘導のために走り書きした矢印と、通路名と、人の流れを二本に絞るための短い指示。この紙は、現場では命のためのものだった。ここでは、手順のためのゴミだ。捨てればいいのに、捨てられない。
隣の席では誰かが、コーヒーの紙カップを机に置いた。置いた音がやけに大きい。指先は冷たかった。温度を確かめるように、親指で人差し指の腹を擦る。摩擦だけが現実だ。
タブレットに通知が重なった。
『ナレッジ登録:承認待ち(1)』
神崎は指で開く。画面が切り替わると同時に、目の奥が一瞬だけ疼く。現場の光景が、ここに引っ張られる。引っ張られて、薄くなる。薄くなるから、また思い出そうとしてしまう。思い出そうとすると、仕事の文字列が割り込む。割り込むことが、制度の強さだ。
◇ ◇ ◇
ナレッジ管理画面には、どの案件も同じ顔をして並んでいる。日付、ライン番号、イベント番号、タグ、評価。死の種類も、救いの種類も、似た並びに押し込まれる。どれも同じ長さの欄に収まり、同じフォントで表示される。
今回の登録名は、すでに形になっていた。
『第2781ライン E-ACD-07 王立学院防衛戦:テンプレ強度最適化/RSI割れ軽減事例』
タイトルだけで、胸が少し悪くなる。ここに入った瞬間にレオナの名前は消える。消えるのではない。消してもいい形に置き換えられる。
神崎はページをスクロールした。第35号様式(事後)から第29号様式(監査方針)への実績反映が、淡々と並ぶ。
『学生死亡:テンプレ想定(多)→実測(無)
教官死亡:1(レオナ教官)
退避完了率:高
CCRリスク:低下
中長期RSI:安定(喪失焦点化により回収線確保)
登場人物福祉指数:安全域
監査方針適用結果:有効』
数字はきれいだった。きれいすぎる。きれいな数字は、どこかを汚して成立する。神崎は指を止め、ひとつの小さなリンクを開く。『タグ自動付与ログ』。機械のように、しかし人間の手で作られた機械らしく、丁寧な文章が並ぶ。
『象徴喪失:教官戦死』
『避難達成:高』
『回収線:確保』
象徴喪失。記号のように置かれた言葉が、喉の奥の骨をさらに押す。骨は刺さっているのに、どこに刺さっているのか自分でも分からなくなる。分からなくなるのが怖い。分からないと、また同じことができてしまう。
周囲の声が、仕事の温度で落ちてくる。
「割れなかったな」
「次のラインでも使える」
「良い調整だよ、これ。テンプレ濃度も落とせてる」
誰も間違ったことを言っていない。だから、反論できない。反論すると、自分が間違いになる。神崎がここで持てる言語は、彼らと同じ言語しかない。
別の机では、誰かが事後の『CCRリスク』について、軽い口調で雑談している。炎上を避けるために、喪失を一点に寄せる。寄せるために、誰かの背中をひとつだけ選ぶ。背中は、数字の中では軽い。
雨宮が、画面を覗き込みながら肩をすくめた。
「また一冊、マシな勇者地獄の教科書が増えた」
冗談なのはすぐに分かった。冗談の形をした安全装置。笑うでもなく、怒るでもなく、その言葉で空気を整えて終わらせる。
神崎は返せなかった。返す言葉を持った瞬間、手がもっと冷たくなる気がした。冷たくなるのは、痛みが引くからだ。痛みが引くのは、慣れが始まるからだ。
承認ボタンが画面の右下で待っていた。押せば登録される。登録されれば、次に渡る。次に渡れば、同じ構図が別の場所で繰り返される。それが制度だ。
神崎は、指を止めたまま、『教官死亡:1(レオナ教官)』の行を見続けた。括弧の中の名前は、まだここにいる。括弧の外に出た瞬間、数になる。数になった瞬間、説明になる。説明になった瞬間、正当化になる。
それでも、仕事は止まらない。止めると、もっと雑になる。雑になったら、救える数が減る。その理屈を自分が一番知っている。昨夜、現場でそれを身体でやった。導線を絞り、情報を選び、役割を固定した。救った数の背後に、選ばれた一つがある。その一つに、レオナが座った。
神崎は承認を押した。
保存の音が鳴った。小さく、しかし確実に。保存の音の直後に、画面の右端に『案件テンプレ化:推奨』が表示される。推奨。次の地獄への引き継ぎ。これで終わりではなく、これで続けやすくなったという意味。
神崎は、瞬きの回数が増えるのを自覚した。涙ではない。乾燥だ。乾燥していくのが怖い。
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、勇者一課の空気は薄い乾燥を帯びていた。給湯室の前で、雨宮が紙カップを揺らす。カップの中身は残っていない。残っていないものの重さだけが、手首にかかっている。
神崎は、視線を合わせないまま、言った。
「……割れなかった、で済ませていいんですか」
声は小さかった。問いというより、確認に近い。自分の言葉が自分を刺さないように、刃を丸めた発音だった。
雨宮はすぐに答えない。廊下の先で誰かがプリンタの紙詰まりを直している音がする。その間に、勇者一課の世界はちゃんと回っている。
「済ませるんじゃない」
雨宮は、カップをゴミ箱に落とした。軽い音がした。
「そうやってしか次に渡せない」
神崎の喉が、細く鳴る。何か言えそうで、言えない。
雨宮は続けた。
「割れたら、もっと雑になる。雑になったら、救える数も減る」
救える数。神崎の脳内で、医務室の名簿が一瞬だけ蘇る。指で行をなぞって、生存確認をつけていく作業。『生存』の丸が増えるたびに、胸の奥が軽くなるのに、レオナの欄だけが空白のまま残っていた。空白が最後まで埋まらないから、軽さが重さになる。
神崎は、苦い笑いのような息を吐いた。
「正しい説明ができるほど、嫌になりますね」
雨宮は、慰めるような顔をしない。ここで情を出すと、情が燃料になる。燃料は物語を回す。勇者ラインは、それで回ってきた。
「嫌になれるうちは、まだ大丈夫だ」
言い方が、優しくない。けれど、優しさがないぶん嘘がない。神崎は少しだけ救われる。救われてしまうことがまた嫌だった。
神崎は、宣言をしない。宣言は旗になる。旗は次を呼ぶ。次を呼ぶほど、人は燃料にされる。
「……公的ログは、いつも通り整えます」
雨宮は頷いた。仕事の返事だ。
神崎は、続けた。
「でも、整えきれない部分も、別で残します」
雨宮は、目だけで見た。否定もしない。肯定もしない。許可がないのに、止めもしない。その曖昧さが、この部署の温度だった。
「好きにしなよ。ただし、燃やさないように」
雨宮の声は軽い。でも、神崎はその言葉が重いのを知っている。燃やすな、は、燃やされるな、とも違う。燃やさせるな、とも違う。燃やすという行為を、当たり前にしないでいろ、という意味だ。
神崎は頷いた。頷くと、首の後ろが少し痛んだ。身体は昨夜をまだ覚えている。覚えているうちに、言葉を残さなければならない。
◇ ◇ ◇
自席に戻ると、ナレッジ管理画面はすでに別の案件を提案してきていた。『次に使えるテンプレ』が自動で表示される。制度は続く。淡々と、何事もなかったように。
神崎は画面を閉じ、自分の個人領域を開いた。非共有。下書き。ローカル。誰にも見せないための場所。見せないからこそ残せるものがある。
新規メモを作る。タイトルは短くした。
『E-ACD-07 外側』
カーソルが点滅する。点滅の速度が、心拍より少し速い。神崎は二つの欄を作った。対比のためだ。対比は嫌いだ。対比は演出だ。演出は燃料だ。だが、対比しないと、何が失われたかが分からなくなる。
まず、公的欄。
『公的:E-ACD-07評価
・テンプレ強度の最適化によりRSI割れ軽減
・喪失の焦点化により回収線確保
・監査方針適用結果:有効』
指が止まる。ここまでは、ナレッジの写しだ。制度の言語だ。書ける。書けてしまう。書けてしまうことが怖い。
次に、私的欄。
『私的:外側メモ』
神崎は一行目を迷った。名前を書くのが怖い。名前を書くと、物語の燃料になる気がする。燃料にしたくない。ただ覚えていたい。覚えるために書くのに、書いた瞬間に燃料化する恐怖がある。
神崎は、名前を一つだけ書いた。レオナではなく、レオナ以外の名前を。レオナの名前はもう括弧の中に入った。括弧の中から、ここに引き戻す勇気がまだない。
『生存確認:第七棟二年、右腕骨折(名前:…)』
『生存確認:一年、呼吸困難、治療後安定(名前:…)』
『生存確認:寮監、軽傷(名前:…)』
断片でいい。全部を書かない。全部を書くと一覧になる。一覧は数になる。数は最適化される。最適化は正当化される。
それでも、神崎はもう一つだけ付け足す。名もない学生たちの『助かった』が、実在することを忘れないために。
『廊下で泣いていた子は、泣いたあと笑った。助かったと理解したからだ。笑ったあと、吐いた』
それはきれいな文章じゃない。きれいじゃないから、燃えにくい。燃えにくい形のまま残したい。
そして、核心の一文だけを書く。
『死を燃料にしない。ただ覚えていたい』
書いた瞬間、胸が少しだけ痛む。痛むのに、落ち着く。痛みが落ち着きに変わるのが一番怖い。慣れが始まるからだ。慣れが始まると、次は手が冷えなくなる。冷えなくなった手で、同じ盤面を作れるようになる。
神崎は、カーソルを次の行に落とし、葬儀の場面を思い出した。リアムが言葉を詰まらせた時間。あの遅れは、整っていなかった。整えられていなかった。神崎は、あの不格好さを救いだと思った。
引用しない。引用は切り抜きになる。切り抜きはタグになる。タグは次を呼ぶ。次は燃料を求める。
神崎は、観測として書いた。
『学生代表は言葉を増やさなかった。燃やさないためだと思った』
その一文の後ろに、神崎は自分の手の冷たさを書けなかった。書こうとすると、正当化の文章になりそうだった。『私はこういう理由でこうした』という形になってしまう。形にした瞬間、整う。整った瞬間、罪が軽くなる。軽くしたくない。軽くすると、またできてしまう。
神崎は、代わりに短く書いた。
『盤面を作った』
さらに、もう一行だけ増やす。これは言い訳ではない。言い訳に見えない形で、自分を縛るための釘だ。
『助けるために冷たく整えた。だから、手が冷たい』
書いてしまったことを後悔しそうになる。後悔は、自己憐憫に似る。自己憐憫は、燃料にされやすい。神崎は息を止め、心の中で線を引く。ここまで。これ以上は、物語の語り口になる。
最後に、神崎は未来を明言しない。明言は旗になる。旗は燃料を集める。燃料は人を焼く。
神崎は、たった一行で終わらせた。
『次が来ても、来なくても、この外側だけは残す』
保存を押した。
小さな音が鳴った。ナレッジ登録の保存音より、ずっと小さい。けれど、その小ささが、神崎には確かだった。
神崎は画面を閉じ、椅子に背を預けた。目を閉じると、昨夜の走り回る足音が戻ってくる。指示を出す自分の声が戻ってくる。冷たく、短く、優しくない声。優しさがない方が、現場が動いた。現場が動いたから、助かった数が増えた。増えた数の分だけ、レオナが一人で戦った。
喉の奥に骨が刺さっている。抜けない。抜けないから、飲み込めない。飲み込めないから、燃やせない。
フロアの向こうで、誰かが次の案件の通知を開く音がした。制度は続く。物語世界は続く。だが、少なくとも今、神崎の中でひとつだけ続かないものがある。
燃料にしない。
ただ覚えていたい。
そのために、今日も文字を残す。
そして、その文字が誰にも読まれないことを祈る。読まれないまま残ることが、この場所でできる一番小さな抵抗だと、神崎は知っていた。
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