第42話 葬儀と誓い
講堂の扉を開けた瞬間、神崎は鼻の奥に刺さる匂いに足を止めた。花の匂いだ。甘く、整っていて、だからこそ嫌だった。焦げと鉄と血の匂いを覆い隠すために、こんなに都合のいい匂いがある。
黒に近い正装の列が、床の木目に沿ってまっすぐ伸びている。椅子の脚の位置まで揃えられていた。列の端に、教官席がひとつ空いている。誰もそこに荷物を置かない。置けないのではない。置かないことが、ここでは『正しい』。
舞台の中央、遺影が置かれていた。学院の中庭で撮られたものらしい。レオナ教官が、肩の力を抜いて笑っている。戦場の顔ではない。神崎は、その笑顔を知っている気がした。自分が初めて学院に潜ったとき、遠目に見た、学生の冗談を受け流す笑い方。そこだけが、妙に現実だった。
遺影の横には剣が置かれ、マントが畳まれている。傷も血もない象徴。象徴は便利だ。具体を殺せる。
神崎は一番後ろに近い席に座った。補助講師という肩書きは、式典にはちょうど良い。あまり前に出ない。だが、消えるほど後ろでもない。居場所として、あまりにも適切だった。
◇ ◇ ◇
開式までのわずかな時間に、神崎は舞台裏の動きを見ていた。
教員が二人、声を落として話している。
「……遺体の件は、表には出さない。傷の話は避ける」
「当然です。あのまま語ったら、学生が持たない。持たせるのが我々の仕事でしょう」
持たせる。その言葉の意味が、神崎には分かりすぎる。持たせるために、削る。削って、整える。整えた分だけ、真実から遠ざかる。
写真を持った職員が、別の職員に確認している。
「遺影はこれでいいですか。中庭の……笑ってるやつ」
「それがいい。戦場の顔は、ここには要らない」
要らない。要るか要らないかで、死の顔が選別される。
その横で、リアムたち四人が呼ばれていた。呼ばれ方が、もう『代表』だった。
「リアム君、クレアさん、テオ君、ノーラさん……すまないが、学生代表として一言、お願いできるか」
校長ではない。教務の教官だ。疲れた顔で、しかし言葉だけは丁寧だった。頼んでいるようで、頼んでいない。式という大きな流れが、彼らをここに連れてきている。
リアムは一瞬、口を開けたまま止まった。断る言葉が、喉に引っかかったのだろう。それでも、最後には頷いた。
「……はい。やります」
クレアは反射的に背筋を伸ばし、何かを計算するように目を伏せる。テオは舌打ちしそうな顔をしたが、空気に噛みつく場所がない。ノーラは白い布を握りしめている。救護の布だ。手の荒れが目立った。
神崎はその場に踏み込まない。踏み込めない。ここで言葉を挟めば、彼らの言葉はさらに『整って』しまう。自分はそういう役割だと、知っている。知っていることが、嫌だった。
◇ ◇ ◇
鐘が鳴る。戦いの鐘ではない。式典の鐘だ。響き方が違う。鋭さがなく、優しい。
講堂が静まる。静まるというより、静められる。人が多いほど、静けさは作られる。
校長が壇上に立った。白髪の間から覗く目は、疲れている。だが声は揺れない。揺れないように訓練されている声だ。
「本日、我々は――」
言葉が始まった瞬間、神崎の中で何かが締まる。締まるのは、儀式の力だ。言葉の枠が、ここにいる全員を包み始める。
校長はレオナを語る。『教官』として語る。『勇敢』として語る。『多くの学生を未来へ送り出した』として語る。
正しい弔辞だ。噛み砕くほどに正しい。正しいからこそ、嘘ではないからこそ、最も残酷だ。
誰も『失血』と言わない。誰も『裂けた皮膚』と言わない。誰も『時間を稼いで倒れた』と言わない。そういう単語は、場を壊す。場を壊すと、次が回らない。
神崎は思う。回らないものは、ここでは罪だ。
遺影が笑っている。花の匂いが、戦場の匂いを殺す。象徴が、具体を殺す。殺し直すように。
涙を拭う音が、あちこちから聞こえる。泣き方まで整っていく。泣けるだけ、救われている。泣けない者は、まだ戦場にいる。
神崎は泣けない。泣けば自分は軽くなる。軽くなることが、許せない。自分は軽くなる資格がない。
◇ ◇ ◇
学生代表の時間が来た。
リアムたちが壇上に上がる。四人が並ぶと、妙に小さい。あんなに戦って、あんなに走って、あんなに叫んだのに、ここではただの学生だ。制服の襟が硬そうに見える。
リアムが一歩前に出る。唇が乾いている。喉仏が上下する。声が出るまでに時間がかかる。時間がかかることが、逆に本当っぽい。
「……俺は」
一言目が詰まる。そこから先が、すぐに出ない。神崎は、その遅れだけが救いだと思った。整っていない。整えられていない。ここは、整形の場なのに。
「俺たちは、守れたのかって……ずっと考えてました」
講堂が息を止める。『守れた』という言葉は、ここで求められている。リアムはそれを知っている。だからこそ、次の言葉が重い。
「でも、守れたって言っていいのか、分からないです」
正しい。とても正しい。けれどその正しさは、拍手に向かない。弔意に馴染まない。馴染まない言葉ほど、死に触れてしまう。
クレアが隣で微かに息を吸った。場を支える準備だ。言葉を足して、形を整える準備。
リアムは拳を握りしめる。握り方が不器用で、だから本当だ。
「俺たちは……置いてきた」
その言葉が落ちた瞬間、講堂の空気が、一瞬だけ冷える。誰を、とは言わなくても分かる。遺影の笑顔が、逆に刺さる。
神崎の胃がきゅっと縮む。『置いてきた』。この場の空気は『次へ』を求める。置いてきたなら、どうするのか。終わらせないための言葉を、と。
リアムは視線を上げる。誰かを見ているわけではない。遺影を見ないようにしている。見てしまったら、言葉が燃料になってしまう気がしたのだろう。
そして、彼は選ぶ。誰かを責めるためではなく、自分が崩れないために。
「……だから、次は」
その『だから』が、回収の入口になるのを、本人も分かっている。分かっているのに言う。言わなければ、ここに立てないからだ。誰かに同じことを求めるためじゃない。自分が歩き出すための最低限だ。
「次は、守れる強さを……手に入れたいです。守る側に立つなら、守るって言えるように」
講堂の空気が、少しだけ温かくなる。分かりやすい形へ戻る。戻っていく。その戻り方に、神崎は歯を食いしばる。戻らないと、皆が壊れる。戻ると、死が使われる。
リアムは続けない。続ければ続けるほど、言葉がきれいになってしまうのを知っているみたいに、そこで止める。止めるのが、彼の抵抗だ。
クレアが一歩、半歩だけ前に出て、短く添える。
「避難は完了しました。生き残った人がいます。その事実を、無駄にしたくありません」
理屈だ。理屈は場を支える。理屈は、悲しみを整形する。クレアの声は揺れている。理屈が自分に効いていないのに、理屈で支えようとしている声だ。
テオが前に出る。何か言いかけて、言葉を飲む。飲んだ言葉の音が、神崎には聞こえる気がした。苛立ちと、怖さと、どうしようもなさが混ざった音。
「……俺は、勝ったとか成功とか、そういう言い方が嫌いです。でも……嫌いでも、やらなきゃいけないなら、せめて……誰かを雑に死なせるような真似は、したくない」
『雑に死なせる』。その単語に、神崎の背中が冷える。彼らは知らないのに、そこへ触れてしまう。触れた瞬間、場はまた少し冷える。けれどテオの言葉は、糾弾じゃない。誰かを指さしていない。だから、場は壊れない。壊れないまま、痛みだけが残る。
ノーラは布を握ったまま、少しだけ前に出る。手が、まだ震えている。震えを隠そうとしているのが分かる。
「私は……救う側でいたいです。怖いです。でも、怖いから、手を止めたら……もっと怖いことが起きるって、知りました」
短い。整っていない。救護の疲れが、そのまま言葉になっている。神崎は、その短さに救われる。飾られていない言葉は、燃料になりにくい。
四人が頭を下げる。講堂が静まる。静まるというより、静められる。空気が、次の工程へ流れていく。
神崎は理解してしまう。今の言葉は『筋がいい』。筋がいい言葉ほど、次を呼ぶ。次の段へ滑らかに繋がる。滑らかに繋がるほど、喪失は正当化されていく。
ただ――リアムの最初の詰まりと、言葉を増やさなかった沈黙だけが、そこに小さな棘として残った。
死を燃料にしたくない。ただ覚えていたい。
その願いを、今この講堂で“正しく覚えている”のは、神崎とリアムだけだった。
◇ ◇ ◇
式が終わり、人が流れ出す。流れ出すその流れさえ、整っている。
神崎は講堂を出る前に、遺影の前で一瞬だけ立ち止まった。誰も気にしない程度の時間。気にするほど長くはない。ここでも適切な長さだ。
遺影の笑顔は、何も知らない。何も知らないまま、笑っている。笑顔が『良い物語』の証拠になる。証拠になった瞬間、死が意味を持つ。意味を持った死は、再利用される。
神崎は、その再利用が怖い。怖いのに、止められない。止めれば、次はもっと雑に死ぬ。
庁内に戻ると、タブレットが静かに震えた。通知。振動はいつも通りだ。いつも通りの振動で、いつも通りじゃないことが届く。
勇者一課のフロアは、今日も乾いた空気だ。人が死んでも、空調は一定。一定だから仕事が回る。
神崎は席に座り、通知を開く。第35号様式の追補が表示される。数字と評価が並ぶ。
『学生重症:抑制
避難完了率:高
炎上分散リスク:低下
中長期RSI:安定予測
喪失焦点化:回収線確保』
文字が整いすぎている。死が整ってしまう。
その下に、淡々とした短評がつく。
『雑な大量死の抑制により、RSIの割れを軽減。喪失焦点化により回収線を確保』
神崎は一度、目を閉じた。閉じても消えない。閉じても戻ってくる。閉じるのは、現場ではなく、自分の内部だ。
仕事として正しい。神崎は頷く。頷ける。自分が言い出した建前の言語だ。
それが、最も苦い。
神崎は個人メモを開いた。
『回収完了。品質改善として成功』
最後に、もう一行。
『回収されないと割れる。割れると、次はもっと雑に死ぬ』
画面の端で、新規イベント登録が淡く光った。
『E-ACD-08:学院葬/英雄候補誓い』
神崎は息を吐いた。吐いた息が、喉に引っかかる。引っかかったまま、次のページはめくられる。
あの講堂の花の匂いが、なぜか今も鼻の奥に残っていた。
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