第41話 数字の勝利、現場の後味
夜明けは、勝利の色をしていなかった。
薄い灰色の光が、焼けた壁の煤をなぞり、折れた槍と割れた瓦礫の輪郭を浮かび上がらせる。音が戻ってくるのは遅い。最初に戻るのは匂いだ。血と薬草と煙、それに湿った布の匂い。『助かった人数』の分だけ呼吸があるのに、穴は埋まらないまま空気を冷やしていた。
◇ ◇ ◇
医務室は、夜が終わっても終わっていなかった。
廊下にまで人があふれ、ベッドが足りず、床に毛布が敷かれる。片腕を吊った学生、顔に包帯を巻いた学生、震えが止まらず両膝を抱え込む学生。軽傷も重傷も、同じ匂いに混ざっている。
「次、こっち!傷口見せて!」
「水、足りない!」
「先生、薬草、もう残り少ないです!」
ノーラは、声が枯れる寸前だった。治療者としての手つきは崩れていないのに、目の焦点が薄い。布に染みた赤を洗い落とそうとして、洗面桶の水がすぐに濁る。落ちない。落ちないのが当たり前だと分かっているのに、指先だけが繰り返す。
神崎は、そこにいた。補助講師の腕章は、いまや『避難誘導』『搬送』『伝令』の次に、『照合』へと用途が変わっている。
名簿。救護班の記録。避難完了のリスト。家族への連絡先。確認印。確認印。確認印。
紙は現場を救わない。
だが紙がなければ、現場は次の地獄に飲み込まれる。
神崎は机の上に広げられた名簿に目を落とした。生存確認の欄が埋まっていく。埋まるたびに、隣で誰かが泣き出す。泣き出すのは、救われたからだ。救われたと理解したからだ。遅れて安堵が来て、その安堵が恐怖に変わる。
「……いた。三年生の、マルクは?」
「医務室の奥!足、折れてるけど生きてる!」
「よかった……よかった……」
よかった。
よかった、はずだ。
神崎の手が止まるのは、その欄に来た時だけだった。
教官用の名簿。担当教官の欄。そこに、レオナの名前がある。線が引かれていない。生存でも死亡でもない。空欄。空欄のまま、紙が白く冷たい。
「レオナ……教官は……」
誰かが言いかけて、言葉を飲み込んだ。飲み込まれた言葉が、廊下の空気をさらに重くする。
医務室の隅には、教官用の席があった。夜のうちにそこへ誰かがマントを掛けたのだろう。汚れた布が、肩の形を残したまま椅子に垂れている。人の不在は、目に見えないはずなのに、目に見える形で残っている。
神崎はペンを握り直した。
紙に印を付ける手が冷たい。昨夜の冷たさがまだ取れない。
『埋まるべき欄が埋まらない』
その事実が、胃を削る。
◇ ◇ ◇
中庭は、焼け跡のまま静かだった。
火は消え、煙も薄い。代わりに残るのは、濡れた灰の匂いと、折れた木の焦げた甘さだ。訓練場の端に、リアムたちが座っていた。四人が揃っているのに、空席が一つ増えたように見える。
リアムは、剣を膝に置いたまま動かない。握っているのか、支えられているのか分からない。クレアは汚れた手袋を外し、指先を見つめている。テオは壁にもたれ、視線をどこにも置けずに揺らしている。ノーラは少し離れた場所で、救護班に混ざって包帯を裂いていた。彼女の背中は、背中のまま仕事をしている。
リアムが、喉の奥から声を引きずり出す。
「……守れたのか」
クレアが顔を上げる。いつもの冷静さで返そうとして、声が一度引っかかった。理屈が喉でつかえる。
「避難は完了した。門も閉じた。数字上は……勝った」
「勝った、か」
テオが笑うような音を出す。
「その言い方が一番嫌いだな。勝ったって言うたびに、誰かが置いていかれる気がする」
置いていかれる。
その言葉は、昨夜レオナがリアムに渡した重さに似ていた。誰もその場で口にしないのに、全員が思い出している顔がある。いま、この中庭にいない顔。
リアムは視線を落としたまま言った。
「俺たちは……守る役だった。穴に行くなって言われた。行けば何か変わる気がしたのに、行かなかった」
クレアが短く息を吸う。
「行っていたら、避難が落ちていたかもしれない」
「かも、だろ」
テオが吐き捨てる。
「かも、って言い方、便利だよな。誰も責任を取らなくていい」
クレアが反射的に言い返そうとして、黙る。責任という言葉が、昨夜の命令の硬さを連れてくる。責任の置き場所は、いつだって最前線ではなく、選ばれた背中に乗る。
リアムは続けた。
「でも……俺の中では、守れた実感が薄い。守った気がしない。……レオナ教官を、置いてきた感じだけが残ってる」
ノーラが包帯を裂く手を一瞬止める。顔は上げない。声も出さない。だが背中が小さく揺れた。
クレアが、理屈で支えるために言葉を探す。
「私たちの役割は、最初から決まっていたように見える。でも、それは……私たちが選んだ役割でもある」
テオが鼻で笑う。
「選んだって言葉、もう信用できない。昨夜、何かが……手で押されたみたいだった。誰かの手で、ここに留められたみたいな」
誰かの手。
その誰かが誰かなど、彼らは知らない。知らないからこそ、不気味さだけが残る。テンプレの手触り。物語が勝手に落ち方を決めている気配。
リアムが、かすかに首を振る。
「俺は……教官が言ってたことを思い出す。置いていく選択が来るって。守るべき『誰か一人』に自分入れろって」
クレアが目を閉じる。
「……来たのね」
「来た」
テオが低く言う。
「来た上で、終わった」
終わったのに、終わっていない。
彼らの言葉が、朝の冷たさに吸われていった。
◇ ◇ ◇
切り替わる。
匂いが変わる。煙と血から、乾いた空調へ。
ナラティブ庁、勇者一課。フロアはいつも通り明るい。窓の外に朝が見える。ここでは朝は『勤務の始まり』でしかない。
神崎は席に戻っていた。アバターから離脱したが、現場の汚れは残っている気がした。いや、その汚れを落としたら、手の冷たさまで消えてしまいそうだった。
タブレットの画面が開く。
第35号様式、事後速報。
文字は綺麗だ。綺麗すぎる。綺麗な文字で、死が整理される。
『E-ACD-07:王立学院急襲(事後速報)』
『避難完了率:高』
『学生重症:低(初期案A想定比)』
『教官死亡:1(レオナ)』
『炎上分散リスク:低下』
『エピローグRSI:安定予測(喪失焦点化により回収線確保)』
『監査方針(第29号様式)適用結果:有効』
そして、ナラティヴァの短評が添えられている。
『雑な大量死の抑制により、RSIの割れを軽減。喪失焦点化により回収線を確保。テンプレ濃度の過剰上昇を抑え、ジャンル寿命に寄与』
神崎の喉が、きゅっと縮む。
これは自分が作った言語だ。自分が庁内で振り回してきた武器だ。だから公的には頷ける。頷けば、周囲も頷く。
雨宮が画面を覗き込む。いつもの調子で、軽く言った。
「割れなかったね」
割れなかった。
その言葉の軽さが、神崎の胃をまた削る。
「上出来だよ。雑な大量死は避けた。テンプレも締めた。これ、成功扱いでナレッジに載るやつ」
別の監査官が椅子を回して笑う。
「うちの部署らしい成功だな。誰かは必ず死ぬけど、作品としては整う」
「整ったからこそ、次に繋がる」
「そう。次の大型ノードに向けての基礎工事」
神崎は、頷く動作だけはできた。言葉は出なかった。出すと、現場の匂いが庁内に漏れる。
神崎はタブレットの隅に、報告用の整った文章を組み立て始めた。
『E-ACD-07は第29号様式に基づく監査方針適用により、テンプレ過多(雑な大量死)を抑制。喪失を焦点化し、回収線を確保。短期RSIピークを過度に跳ねさせず、割れリスクを低減。中長期RSIの安定化に寄与』
完璧だった。
冷たくて、正しい。
その文章を打ち込む指が、冷たい。
昨夜、盤面を作った指と同じだ。足と口と紙で、誰かを単独行に追い込んだ指。追い込んで、多数を救った指。
神崎は、個人メモを開いた。これは提出しない。提出できない。提出した瞬間、規程に引っかかる。あるいは、自分が壊れる。
『公的:品質改善として成功』
『私的:救うために冷たく整えた。手が冷たい。』
痛いのに、飲み込むしかない。飲み込まなければ、次のページがめくれない。
さらに、もう一行だけ足す。
『次は回収にされる。回収されるのが一番嫌だが、回収されないと次は割れる』
画面の端で、第35号様式が自動更新される。『次イベント候補:E-ACD-08(学院葬/英雄候補誓い)』という仮ラベルが点滅した。
淡々と、次が来る。次が来るのが仕事だ。次が来るのが物語だ。
神崎は目を閉じた。閉じても、昨夜の背中が消えない。
背中は、今日から数字になり、数字は言語になり、言語は回収線になる。
それが一番、嫌だった。
それでも――割れないためには、回収されなければならない。
神崎はゆっくりと目を開け、報告文の最後に句点を打った。
その句点が、どこかの現場で誰かの息を止めたように感じられて、胃がひっくり返りそうになる。
手は冷たいままだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし「続きも追う価値がある」と思えたら、ブックマークだけ置いていってください。更新の目安にします。
また、可能なら評価★と、ひと言でも良いので「刺さった点/気になった点」をコメントでいただけると助かります。次の調整材料にします。




