第40話 教官レオナ・ハーゼル
鐘が鳴った瞬間、学院は訓練の静けさを捨てた。
結界が軋み、石が震え、悲鳴と怒号が同じ高さで走る。人の流れが生き物みたいに廊下をうねり、足音が床を叩くたび、恐怖が増幅していく。
レオナは、最初の衝撃で理解した。これは『小事件』ではない。
理解に理屈は要らない。前線の匂いが戻る。喉の奥が乾き、視界の端が鋭くなる。身体が勝手に、戦場の順番で動き出す。
「下級生は内側へ!上級生は門の内側に二列!迷子を出すな!」
声が出る。出た声が人を動かす。慰める声ではなく、動かす声。動かすための声は、いつだって冷たい。
中庭の角でリアムが剣を構えた。鍛冶屋の子の手つきだ、とレオナは思う。力任せじゃない。握り方が道具のそれだ。クレアはすでに結界の補助に入り、テオは影みたいに走って連絡役を拾い、ノーラは救護班へ駆けて布を裂いた。震えているのに、手だけは止まらない。
第一波がぶつかった。
爪が結界を叩き、門が震え、誰かが転ぶ。転んだ誰かを引き上げる腕が伸びる。レオナは隊列を崩さない。崩せば後ろが死ぬ。
「押し返すな、押し止めろ!ここは壁だ、壁になれ!」
命令が筋肉に変わり、筋肉が時間を稼ぐ。時間が命を稼ぐ。
◇ ◇ ◇
戦線は、少しずつ腐る。
それは誰かの失策ではなく、『普通の最善』の積み重ねで起きる。
「別門が破られた!」
「地下の連絡通路、敵影!」
「増援がまだ来ない、遅れてる!」
伝令が錯綜し、命令が二重になる。前線から人を割いて穴へ回し、穴へ回した分だけ退避線が薄くなる。薄くなった場所に人が溜まり、押し合いが始まる。将棋倒し寸前の匂いが、息の詰まりとして廊下から押し返してきた。
レオナは見た。見てしまった。
このまま行けば、死ぬのは前線の戦える学生ではない。後ろの、走るしかない学生だ。名も残らない。数だけが増える。数が増えるほど、誰かが『仕方ない』と言い始める。仕方ない、の下で雑に死ぬのが戦場だ。学院でそれをやるな、と心の中で叫ぶ。
その時、補助講師の男が走り込んできた。汗と煤で顔が黒いのに、目だけが妙に冷静だった。冷静というより、冷たい。恐怖を感じていないのではない。恐怖の扱い方が違う。恐怖を、配置に変換している目だ。
男は冷静に言葉を伝える。
「通路を二本に絞る。広げるな。分岐を増やすと詰まる」
「南回廊の迂回は閉鎖。危険判定。封鎖札を吊れ。ロープ、持って来い」
近くの誘導係が従う。補助講師という肩書きの権威を、最大限に使っている。導線が固定され、混乱が減る。将棋倒しの可能性が下がる。――代わりに、圧が一点に寄るのが分かる。寄った圧は、必ず『穴』へ返ってくる。
男は伝令役として、レオナのもとへ最短情報だけを持ってきた。希望の混じらない言い方で。
「別門が破られました。地下の補給口です。抜けられると避難路が背後から落ちます」
レオナの視線が鋭くなる。
「増援は」
「遅れてます」
余計な可能性を言わない。余計な可能性を言わないから、判断は一方向へ寄る。寄ってしまう。
レオナは一瞬、男を見た。
この男は努めて冷たい自分を演出しているようだった。『助けたい』と叫びたいくせに、『どこを壊すか』を選ぶ顔をしている。選ぶ顔は、戦場の指揮官にもいる。だが学院にいるのが、ひどく異物だった。
「退避線は維持。穴へ回せるのは、最小限だ」
そういった自分の声もひどく冷たく感じた。
◇ ◇ ◇
リアムが穴へ行こうとした。前に出る顔だ。守るために突っ込む顔だ。突っ込めば派手に戦える。派手に戦えば、英雄になれる。英雄になれば、死ぬ。死ねば、後ろが助かるかもしれない。そう考えているのだろう。
補助講師の男が、リアムの前に半歩立った。止める声が、やけに落ち着いていた。
「君は動くな」
「でも、あっちが抜けたら――」
「抜けたら終わる。だからこそ君はここにいる。君が動くと避難路が落ちる。君が守れる人数が減る」
理屈は正しい。正しい理屈ほど、人を縛る。縛られたリアムの肩が僅かに落ちた。
男は続けて、クレアとテオにも短く割り振った。
「クレア、線を引け。結界は薄くていい。崩れないことが最優先だ」
「テオ、連絡線を維持。穴の情報は一つの経路だけに通せ。二重になると死ぬ」
言い切りは、移動の自由を奪う。自由を奪って、線を固める。線が固まれば、後方は助かる。英雄が後方の死体で立つ形が潰れる。――代わりに、穴を塞ぐ人間が必要になる。
レオナは、その瞬間に理解してしまった。
今、盤面が『整った』。
避難線は、もう動かせない。リアムたちも、もう動かせない。穴だけが残る。穴を埋める選択肢が、自然に自分へ落ちてくる。落ちてくるのが一番、自然だ。
レオナは剣を握った。剣の重さが、妙に軽くなる。決めた瞬間、人は軽くなる。軽くなると死にやすい。だが軽くならないと、決められない。
レオナは息を吸い、教官の声に戻した。
「私が穴を塞ぐ。君たちは退避線を守れ」
リアムが一歩出る。
「俺も――」
「駄目だ。教官命令だ」
「一人で行くんですか!」
「一人が一番早い。二人なら、どちらも遅れる」
「でも――」
「でもじゃない。ここで線が落ちたら、守るべき人数が増える」
背中に刺さる視線を振り払うように、レオナは走り出す。
破られた別門の前は、風が違った。血の匂いが混ざった冷たい風だ。そこを抜けられたら、避難線の背中に刃が入る。
レオナは『穴』に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
レオナ・ハーゼルは、穴の向こうに踏み込んだ瞬間、懐かしい匂いを嗅いだ。
血と鉄と、焦げた何かの混ざった匂い。
前線の匂いだ。
何年も前に置いてきたはずの、最前線の空気。
地下通路は狭い。狭いからこそ、敵は一度に押し込めない。一度に押し込めないなら、順番に削れる。削れるうちは、止められる。
レオナは剣を抜き、構えた。
構えた瞬間、背後で門が閉まる音がした。
閉めたのは誰だ。
閉めさせたのは、自分だ。
「一人が一番早い」と言ったのは本当だ。
ただ、本当だからといって、嘘がないわけではない。
一人なら、誰も巻き込まない。
一人なら、誰も見ていない。
一人なら、帰れなくても文句を言われない。
それが一番『早い』理由だ。
レオナは笑った。笑い声は喉の奥で消えた。
消えた笑いの代わりに、剣尖が前を指す。
◇ ◇ ◇
最初の一体は、影のような形をしていた。
魔物の分類名など、レオナには興味がない。斬れるか、斬れないかだけが問題だ。
斬れる。
剣が振り下ろされ、影の頭部が裂けた。裂けた影は地面に落ちて、ゆっくりと溶ける。
溶けきる前に、次が来た。
次は二体。形は少し違う。片方は四足、もう片方は背が高い。
レオナは低く踏み込んだ。踏み込みながら、四足の喉を薙ぐ。薙いだ剣を返して、背の高い方の膝を潰す。膝が折れた相手の頭に、蹴りを叩き込む。
蹴りが効いた音。
倒れる重さ。
倒れた影が溶ける。
三体目が来る前に、レオナは息を整えた。
整えた息が、すぐに荒れる。
年齢には勝てない。
前線を退いたのは、これが理由だった。
もう、十体を相手にはできない。
五体が限界だ。
五体目で動きが鈍る。鈍った瞬間、終わる。
だから、五体目が来る前に終わらせる。
終わらせられなかったら、そこまでだ。
◇ ◇ ◇
四体目は、飛んできた。
壁を蹴って、天井を這うように跳ぶ。速い。
レオナは剣を構え直す時間がなかった。構えずに、鞘を盾にする。
爪が鞘に食い込む音。
鞘が軋む。軋んだ鞘が、爪を一瞬だけ受け止める。
一瞬で十分だ。
レオナは鞘ごと相手を押し返し、剣を引き抜いて、横薙ぎに斬った。
斬撃は浅い。致命ではない。
けれど、致命である必要はない。止まればいい。止まった相手に、次の一撃を叩き込む。
剣尖が影の胸を貫いた。
貫いた感触は、肉ではなく煙に近い。煙のような何かが、剣を伝って腕に這い上がろうとする。
レオナは即座に剣を引き抜き、腕を振って何かを払った。
払った何かは床に落ちて、音を立てずに消える。
息が上がる。
腕が痺れる。痺れを無視して、次を待つ。
五体目は、来なかった。
来ないのではない。
『まだ』来ない。
穴の向こうで、何かが蠢いている。
蠢きは、数だ。数が、順番を待っている。
レオナは剣を下段に落とし、呼吸を整えた。
整わない。整わないまま、時間が来る。
五体目が、来た。
◇ ◇ ◇
五体目は、これまでで一番大きかった。
通路の幅いっぱいに膨れた影。四本腕で、腕の先に刃がある。刃は骨か、金属か、それとも魔力の凝固か。
分からない。分からないが、当たれば致命だと分かる。
レオナは呼吸を一つ飲み込んで、前に出た。
前に出て、剣を振り上げる。
振り上げた剣を、四本腕の一本が弾く。
弾かれた剣が上がり、体勢が崩れる。
崩れた体勢のまま、レオナは横に転がった。
転がった床を、四本腕の二本目が削る。削られた石畳が砕け、破片が頬を掠める。
掠めた痛みを無視して、レオナは起き上がりながら剣を突き出した。
突きは、四本腕の三本目に弾かれる。
弾かれた剣が手元に戻る前に、四本目が来る。
レオナは剣を捨てた。
捨てた剣が床に落ちる音と、四本目の刃が空を切る音が重なる。
レオナは素手で四本目の腕を掴んだ。
掴んだ腕は冷たく、硬く、しかし掴める。掴めるなら、引ける。
引いた。
全体重を乗せて、四本腕の巨体を引き倒す。
倒れる影。
倒れた影の上に、レオナは膝を落とした。
膝が、影の中心に沈む。
沈んだ膝に、全体重を乗せる。
影が蠢く。
蠢く影の中心から、何かが溢れ出す。溢れた何かは、煙か、液体か、それとも悲鳴の形か。
レオナは落とした剣を拾い、沈んだ中心に剣を突き立てた。
一度。
二度。
三度。
三度目で、影が動かなくなった。
動かなくなった影の上で、レオナは膝をついたまま息を吐いた。
吐いた息が、震えている。
腕が上がらない。
剣が重い。
視界の端が、少しずつ暗くなる。
暗くなる視界の中で、穴の向こうがまた蠢いた。
六体目が、来る。
◇ ◇ ◇
六体目は、五体目より小さかった。
小さいが、速い。
速い相手は、当てられない。当てられないなら、止められない。
レオナは立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。膝が言うことを聞かない。
膝をついたまま、剣を構える。
構えた剣が、震える。
六体目が跳んだ。
跳んだ影を、レオナは横薙ぎに斬った。
斬撃は当たらない。影は跳躍の軌道を変え、レオナの背後に回り込む。
背後。
最悪だ。
レオナは剣を背中に回す。
回した剣が、何かに当たる感触。浅い。致命ではない。
致命ではないが、六体目は怯んだ。
怯んだ隙に、レオナは振り向いて剣を突き出す。
突きは、外れた。
外れた剣の隙に、六体目の爪が腹を裂いた。
裂かれた痛み。
熱い。熱いのに、冷たい。
レオナは歯を食いしばって、剣を振り下ろした。
振り下ろした剣が、六体目の頭を割る。
割れた頭。
溶ける影。
溶けた影の向こうで、七体目が待っている。
レオナは膝をついた。
ついた膝が、床を赤く濡らす。
腹を押さえる。
押さえた手が、赤く染まる。
これ以上は無理だ。
無理だと分かる。
でも、止まれない。
止まれば、穴が開く。穴が開けば、背後の門が破られる。門が破られれば、避難路が落ちる。
落ちた避難路の先で、誰が死ぬ。
顔を覚えた、誰かが死ぬ。
――顔を覚えた子から、先に減っていった。
前線で、そうだった。
名前を呼んだ子から、いなくなった。
だから、ここでは覚えた顔を減らしたくなかった。
レオナは立ち上がった。
立ち上がった膝が、また震える。
七体目が、ゆっくりと近づいてくる。
レオナは剣を構えた。
構えた剣が、床に先端を擦る。
もう、上がらない。
◇ ◇ ◇
七体目は、飛びかからなかった。
飛びかからずに、ゆっくりと間合いを詰める。
詰められる間合いを、レオナは下がれない。
下がれば、背後だ。
背後には、門がある。門の向こうには、誰かがいる。
レオナは構えを保ったまま、七体目を睨んだ。
睨んだ視界が、滲む。
滲む視界の中で、七体目が跳んだ。
レオナは剣を振り上げた。
振り上げた剣が、七体目の腕を斬る。
斬った。
でも、止まらない。
七体目の残りの腕が、レオナの肩を裂く。
裂かれた肩。
剣が手から落ちる。
落ちた剣を、拾えない。
七体目が、次の一撃を振りかぶる。
レオナは素手で、七体目の腕を掴んだ。
掴んだ腕を、引く。引きながら、頭突きを叩き込む。
頭突きが、七体目の頭部に入る。
入った衝撃で、七体目が怯む。
怯んだ隙に、レオナは床に落ちた剣を足で蹴り上げた。
蹴り上げた剣が、空中で回転する。
回転する剣を、レオナは片手で掴んだ。
掴んだ剣を、七体目の胸に突き立てる。
突き立てた剣が、貫通する。
七体目が溶ける。
溶けた影が、床に広がる。
レオナは、剣を支えに膝をついた。
膝をついた床が、赤く染まっている。
自分の血だ。
もう、立てない。
立てないが、穴の向こうで八体目が待っている。
待っている。
でも、来ない。
来ないのは、こちらが倒れるのを待っているからだ。
レオナは笑った。
笑った口から、血が零れる。
◇ ◇ ◇
レオナは、剣を杖に立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。
立ち上がれないなら、座ったままでいい。
座ったまま、剣を構える。
構えた剣が、床を擦る音。
音が、妙に遠い。
遠い音の向こうで、リアムの顔が浮かんだ。
あの子は、真面目だ。
真面目すぎて、全部を抱え込もうとする。
抱え込んで、潰れる。
潰れないように、教えたかった。
でも、教えきれなかった。
『守る側は、置いていく選択が来る』
そう言ったのに、自分が一番置いていく側に回ってしまった。
――ごめんな、リアム。
謝る声は、出なかった。
出ない声の代わりに、剣が震える。
八体目が、ゆっくりと近づいてくる。
近づく影を、レオナは睨んだ。
睨んだ視界が、暗くなる。
暗くなる視界の中で、レオナは最後の言葉を探した。
言葉は、見つからない。
見つからない言葉の代わりに、剣を握る手に力を込める。
力を込めた手が、震える。
八体目が、目の前まで来た。
レオナは剣を振り上げた。
振り上げた剣が、途中で止まる。
止まった剣を、八体目の爪が弾く。
弾かれた剣が、床に落ちる。
落ちた剣の音が、遠い。
遠い音の向こうで、八体目の影がレオナの胸を貫いた。
貫かれた胸。
痛みは、もうない。
ないのに、冷たい。
冷たいのに、少しだけ温かい。
温かいのは、多分、
――あの子たちが、向こうで生きているからだ。
レオナの視界が、完全に暗くなった。
暗くなった視界の中で、最後に見えたのは、
リアムの背中だった。
小さな背中。
でも、少しずつ大きくなる背中。
その背中を、レオナは最後まで見ていた。
見ていた視界が、消えた。
◇ ◇ ◇
穴の向こうで、何かが倒れる音がした。門の前に立っていた上級生が、その音を聞いた。
聞いた音に、誰も言葉を返さなかった。
返せなかった。
返せない沈黙の中で、門はまだ閉じられたままだった。閉じられた門の向こうで、レオナ・ハーゼル教官は、最後まで穴を塞いでいた。
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