第39話 穴を塞ぐ者
鐘は鳴り続けていた。
鳴らしているのが金属なのか、結界の軋みなのか、もう判別がつかない。音の洪水の中で、人は声を拾い損ね、拾い損ねた声が別の混乱を生む。
「こっちだ!南回廊は塞がってる!」
「いや、さっき開いたって言ってた!」
「誰が言った!」
「伝令が!」
神崎は、血と煤の匂いの中で一歩遅れて走る群れを見ていた。補助講師の腕章は、いまや免罪符ではなく、権限の代用品だった。現場が求めているのは美しい理屈ではなく、短い命令と、責任の置き場所だ。
第35号様式速報が脳裏で点滅する。実際にはタブレットを見る暇などないのに、監査官として叩き込んだ予測が勝手に画面を作る。
このままなら、落ちる。
落ち方は決まっている。『勇者ラインらしい』落ち方だ。
◇ ◇ ◇
穴は、前線ではなく背中に空いた。
別門――地下通路に近い補給口が破られた、という伝令が飛び込んできた瞬間、現場は『普通の最善』を積み上げ始めた。最善はいつだって善意でできている。善意は、状況が悪いほど速度を上げる。
「穴へ回せ!前衛を半分!」
「避難誘導が薄くなる!」
「いいから穴を塞がないと終わる!」
前線から人が割かれる。
避難路の要員が薄くなる。
薄くなった場所に群衆が滞留する。滞留は押し合いに変わり、押し合いは将棋倒しの直前まで行く。そこで誰かが叫ぶ。叫びは恐慌を増やし、恐慌は走り出す足を増やす。
雑に死ぬ。
前線で英雄が輝くために、後方で名もない学生が潰れていく。誰が悪いわけでもないのに、結果だけが『テンプレの正解』へ向かって整っていく。
神崎には、それが見えてしまった。
自分が見ているのは未来ではない。連鎖だ。現場で何百回も繰り返され、ログで何千回も再生された、『落下の形』だ。落下の形を知っている人間は、落ちる前に掴む手すりも同時に知ってしまう。
掴めば、誰かを押し出すことになる。
掴まなければ、群衆がまとめて落ちる。
胸の奥に嫌な熱が溜まる。『助けたい』ではない。もっと冷たい。もっと嫌な動機だ。
このままだと、雑に死ぬ。
それが嫌だ。
雑さを潰すなら、喪失を一点に寄せるしかない。
――案B化。
頭が勝手に、庁内の言語に逃げる。『回収線』『炎上分散』『割れ回避』。どれも建前だ。建前で自分の吐き気を薄めないと、足が止まる。
足を止めれば、案Aへ逆流する。
その逆流の怖さだけが、神崎を走らせた。
◇ ◇ ◇
「君たち、集合。今すぐ」
神崎は避難誘導に当たっていた学生と職員を、廊下の交差点に集めた。怒鳴らない。怒鳴ると空気が荒れ、荒れた空気は恐慌に寄る。声は低く、短く。
「通路を二本に絞る。広げるな。分岐を増やすと詰まる」
「でも、あっちも使えます!」
「使えるかどうかじゃない。詰まらないかどうかだ。詰まったら人が潰れる」
潰れる、という単語を出した瞬間、何人かの顔色が変わった。神崎はそこに優しさを足さなかった。足している暇がない。足した優しさが、判断を遅らせる。
「南回廊の迂回は閉鎖。危険判定。封鎖札を吊れ。ロープ、持って来い」
「危険って……まだ敵は!」
「敵がいなくても危険だ。人が死ぬ」
口から出た言葉は冷たすぎて、自分でも自分が嫌になった。だが、冷たい言葉は動く。現場は動く。動けば、連鎖が一つ断ち切れる。
ロープが張られ、封鎖札が揺れた。迂回路は『危険』として閉じられた。
その代わり、圧は一点に寄る。避難の流れは二本に固定され、前線の押し返しは一本の線に集まる。
――雑に死ぬ可能性は下がった。
その分、誰かが死地を引き受ける必要が増えた。
神崎は次の手を打つ。息を吐く暇はない。
「伝令!穴の情報、誰が持ってる」
「……門番が」
「連れて来い。今すぐ」
門番の口から出る情報は断片的だった。『破られた』『影が見えた』『数が多い』。断片は混乱を増やす。混乱は指揮命令を二重化する。二重化は穴を広げる。
神崎は、断片を切り捨て、必要な一本に絞る。
「教官に伝える。穴の向こうに抜けられたら避難路が落ちる。増援は遅れてる。それだけだ」
「他にも……上級生が向かってるって!」
「後でいい。今言うと、現場が『間に合う』方向に傾いて、無茶をする。無茶が重なると崩れる」
自分の言葉が、誰かの希望を切り捨てているのが分かる。希望を切り捨てて、判断を一つに寄せている。寄せている先に、誰かの背中が必要になる。
神崎は伝令として走った。走りながら、吐き気が喉元に触れる。触れるだけで落ちない。落ちないように、次の指示を考える。
穴に、誰を送るか。
いや、送らない。送られる盤面を作る。
レオナ教官を見つけたのは、退避線の端だった。彼女は剣を振るっていない。振るわないからこそ恐ろしい。全体を見て、全体を切り分ける目をしている。
神崎は息を整えずに言う。
「別門が破られました。地下の補給口です。抜けられると避難路が背後から落ちます」
レオナの視線が鋭くなる。
「増援は」
「遅れてます」
希望が持てる情報は、言わなかった。混乱回避の名目で、後回しにした。
レオナの判断材料は、自然に削られる。削られた判断材料は、自然に結論を一つに寄せる。
レオナは短く頷き、次の命令を飛ばす。
「退避線は維持。穴へ回せるのは、最小限だ」
最小限。
その単語が、神崎の胸を刺した。最小限の犠牲。最小限の喪失。最小限の地獄。
最小限、という言葉は、何かを正当化する時にだけ滑らかになる。
神崎はさらに盤面を固めた。
固める相手は、穴へ行って『派手に英雄化』してしまいかねない存在――リアムたちだ。
リアムはすでに、穴の方向を見ていた。目が『行く』と言っている。
行けば、典型が始まる。勇者候補が穴で大立ち回りし、後方が薄くなり、名もない学生が雑に死ぬ。派手な戦闘の影で、潰れる。
神崎はリアムの前に立った。補助講師の腕章を、意識的に見せる。
「君は動くな」
「でも、あっちが抜けたら――」
「抜けたら終わる。だからこそ君はここにいる。君が動くと避難路が落ちる。君が守れる人数が減る」
リアムの歯が噛み締められる音が聞こえた。
納得ではない。拘束だ。拘束を理屈で包んだだけだ。神崎はそれを自覚して、さらに冷たく続けた。
「クレア、線を引け。結界は薄くていい。崩れないことが最優先だ」
「了解」
「テオ、連絡線を維持。穴の情報は一つの経路だけに通せ。二重になると死ぬ」
「……分かったよ、先生」
テオの皮肉は薄かった。現場は、皮肉を許す余裕を消していく。
最後のひと押しは、配置だった。
神崎は避難線の要員を先に固めた。『ここを抜かれたら全てが崩れる』場所に人を置き、離れられなくする。離れられなければ、穴へ行ける人間は減る。減った穴の対応は、誰か一人の肩に寄る。
寄せる。焦点化する。回収線を引く。
頭の中で建前が唱えられる。唱えているのは祈りではない。麻酔だ。
神崎の指示は淡々としていた。優しさがない。
その淡々さが、現場の空気の中で異物として浮く。神崎自身が、その異物感を一番よく感じていた。
――これが、上位からの修正に見えるんだろうな。
現場ではただのモブの行動なのに。
モブの行動だけで、物語の落ち方が変わる。
変えた。変えてしまった。
その実感が、吐き気に変わる寸前で、次の瞬間が来た。
◇ ◇ ◇
穴の方向で、結界が鳴った。音が『割れる』に近い。
レオナは状況を一瞥し、迷いなく言った。
「私が穴を塞ぐ。君たちは退避線を守れ」
リアムが一歩出る。
「俺も――」
「駄目だ。教官命令だ」
命令は短く、硬い。
その硬さの中に、柔らかいものが混じっているのが分かった。覚悟だ。諦めだ。あるいは、慣れだ。
リアムが食い下がる。声が割れる。
「一人で行くんですか!」
「一人が一番早い。二人なら、どちらも遅れる」
「でも――」
「でもじゃない。ここで線が落ちたら、守るべき人数が増える」
その言葉は、さっき神崎がリアムに投げた理屈と同じ形をしていた。
神崎は自分の胃がひっくり返るのを感じた。
盤面は完成している。
レオナの言葉は自発に聞こえる。けれど、選択肢は削れている。削ったのは誰だ。神崎だ。神崎の足と口と紙だ。
レオナが走り出す。
背中が遠ざかる。距離は、走れば届く距離だった。
神崎の脚が一瞬だけ前に出る。
助ける、という衝動ではない。衝動に似た拒絶だ。自分の作った盤面を壊したい。壊せば楽になる。壊せば手が温かくなる気がした。
だが、壊した瞬間に何が起きるかも分かっている。
神崎がレオナの背に追いつけば、誰かがそれに続く。リアムが続く。クレアが線を離れる。テオが連絡線を切る。避難線が薄くなる。薄くなった線は崩れる。崩れた線の先で、群衆が潰れる。雑に死ぬ。
つまり、『助ける』は『別の場所で雑に死なせる』に直結している。
神崎の足は、床に縫い付けられたように止まった。
臆病ではない。自分の作った構造に、自分が縛られている。
「先生!」
誰かが叫ぶ。上級生か、職員か、分からない。
神崎は振り向かずに答えた。
「線を維持しろ!通路は二本、絶対に崩すな!」
声は平坦だった。平坦すぎた。
平坦な声が、現場を動かす。動かすたびに、レオナの背中が『合理』になっていく。
レオナの姿が、見えなくなる。
彼女が何と戦っているのか、形は見えない。見えないのに、重さだけが分かる。あれは一人で持つ重さではない。
「退避、進め!」
誰かの怒号。
泣き声。足音。擦れる布。
避難が流れ、流れが整い、整った流れが最後の一人を押し出す。
そして、音が一つ減った。
鐘ではない。結界の軋みでもない。
人が『いなくなった』音だ。
レオナ教官の名前を呼ぶ声が、途中で途切れる。
途切れた声が、誰かの口の中で飲み込まれる。
神崎は、その瞬間に自分の手を見た。
血と煤に汚れているはずの手が、妙に冷たかった。
冷たい手で、冷たい盤面を作った。
その盤面の上で、一つの背中が消えた。
退避線の奥から、最後の学生が転げるように出てくる。
「閉じろ!」
門が閉じられ、ロープが引かれ、結界が薄く重なる。
多くが生き残った。
その事実が、神崎の胸を少しも温めない。
吐き気が遅れてやってくる。
『助けられなかった』吐き気ではない。
『助かった人数の計算のために、レオナを単独行に追い込んだ』吐き気だ。
勝った。
勝ったはずだ。
けれど、手が冷たい。
神崎は目を閉じた。閉じても、背中は消えない。
消えない背中の輪郭だけが、次の回収を待っているように見えた。
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