第38話 学院防衛戦・開戦
音が、先に来た。
鐘ではない。鐘が鳴る前の、学院そのものが呻く音だ。結界が軋む低い振動が、床板と骨を同時に揺らした。
神崎は廊下の角で足を止め、タブレットを握り直した。画面の隅で赤が点滅していたのは、さっきまで『予測』だった。今は違う。赤は、もう『報告』だ。
【第35号様式・速報】
『E-ACD-07:王立学院急襲 発火』
その一行は、世界の状況説明でも警告でもない。合図だ。物語が『ここから盛る』と宣言する、合図。
神崎は喉の奥に残っていた骨を飲み込むように息を吸い、走り出した。
◇ ◇ ◇
鐘が鳴った。
遅れて、ようやく。
いつもの訓練開始の鐘よりも荒い。合図というより叫びに近い。音が空気を裂いて、学院の全員の背中を押した。
「全員、持ち場に散れ!避難路を確保しろ!」
教官たちの怒号が飛ぶ。学生たちの足音が重なり、廊下が急に狭くなる。誰かが転んで、誰かが手を伸ばし、誰かが泣き声を堪えている。予感だった噂は、今、現実になった。
外壁側から、鈍い衝撃が二度、三度。石が砕ける音。金属が軋む音。結界の膜が擦れるような音。
神崎は補助講師の札を胸元で叩いて、階段を駆け下りた。『監査官補』としての札は、ここでは役に立たない。役に立つのは、今の足と手だけだ。
【第35号様式・速報】
『結界負荷:上昇(北壁)』
『侵入兆候:複数(外周)』
『避難誘導フェーズ:開始』
冷たい文字が、現場の熱量を無視して増えていく。まるで、恐怖を数えるメトロノームだ。
中庭に出ると、空が低かった。夜明け前の暗さが残っていて、火の気配だけが先に漂う。外周の結界が波打ち、薄い光が歪んでいる。膜越しに影が蠢いた。数が多い。形も揃っていない。揃っていない、という事実が逆に嫌だった。雑な敵は雑な死を呼ぶ。
「カンザク先生!」
クレアの声が飛んだ。彼女はすでに結界術式の基点に立っている。顔色は冷静に見えるが、指先が少しだけ震えていた。震えたまま、動かさない。震えを仕事に持ち込まないための制御だ。
その横で、リアムが盾を構えていた。鍛冶屋の手つきが、今は武器を扱う手つきに変わっている。構えが低い。踏ん張る準備ができている。
テオはどこにもいない。たぶん、もう裏道に走った。彼は、騒ぎの中心から消えるのが一番速い。ノーラは医務室側の仮設担架の列にいた。白い布、消毒の匂い、震える息。治療役の準備は整っているのに、彼女の顔は『整っていない』と叫んでいた。
そして――レオナ教官は、真ん中にいた。
彼女は空を見ていない。敵も見ていない。学院全体の動線を見ていた。どこが詰まるか、どこが折れるか、どこが潰れたら終わるか。前線の匂いが抜けていない、というのはこういう目のことだ、と神崎は思った。
レオナが短く息を吸い、声を通した。
「聞け!最優先は退避ライン死守!英雄ごっこは後だ!」
その言い方は、学生の胸に刺さる言葉じゃない。命令として、骨に刺さる言葉だ。誰もが反射で頷く。
「リアム、前衛で押し返せ。無理に倒すな、線を守れ」
「はい!」
「クレア、結界は厚くするな。薄く長く、導線を生かせ。基点を絶対に割らせるな」
「了解」
「テオは外周の裏道を回れ。侵入経路を見つけたら潰すより先に報告だ。判断は私がする」
どこからともなく、テオの声が返る。
「はいはい、重い責任を人に投げる投げる」
軽口の形をした覚悟が混じっている。レオナは返事をしない。返事をしないことで、彼を信頼している。
「ノーラ、医務室と中庭の間に仮設を作れ。軽傷と恐慌を止めろ。負傷者を前線に戻すな、後ろへ回せ」
「……はい!」
ノーラは声が裏返りそうになりながらも、頷いた。怖いまま動く。その怖さを役割に変える。神崎はそれが一番しんどいことだと知っている。
レオナの視線が、最後に神崎へ来た。
「カンザク先生、動けるか」
「動けます。担架と伝令、どちらでも」
「両方だ。ここは戦場じゃない。学院だ。だから余計に忙しい」
その一言が、現場の異常さを突き刺した。学院は守る場所だ。守る場所が戦場になるとき、やることが増える。守るべきものが多いぶん、壊れやすい。
神崎は頷き、走り出した。担架の列に肩を入れ、学生の腕を引いて立たせ、泣きそうな子に指示を出す。今この瞬間、彼は監査官ではない。監査官であることは、遠くの机の上に置いてきた。
それでも、タブレットが彼を監査官に戻そうとする。
【第35号様式・速報】
『学生死亡:0(暫定)』
『退避完了率:12%→18%→24%』
『外周結界:北壁 破断予兆』
『0』という数字が、妙に眩しかった。今はまだゼロだ。まだ、という言葉が喉に張り付く。
◇ ◇ ◇
第一波は、雑だった。
雑だから厄介だ。規則性がない。訓練のように『こう来る』が読めない。だから線が乱れる。線が乱れれば、人が死ぬ。
結界が一箇所、ぶつりと音を立てて裂けた。裂け目から、黒い影が雪崩れ込む。角のある獣のようなもの。四足で走るもの。這うもの。飛ぶもの。
「来るぞ!」
リアムが声を上げ、盾で受けた。金属に鈍い衝撃。肩が沈む。だが、沈んだまま踏みとどまる。押し返すのではなく、押し返されない。彼の戦い方は最初から『生き残る』に寄っている。
クレアが術式を走らせ、床に薄い光の線を引いた。線は壁ではない。壁にするには薄すぎる。だが、線があるだけで人は動ける。逃げ道は、目に見えるだけで救いになる。
「線の内側に下がって!押さないで、詰まる!」
彼女の声は短い。短いから通る。長い言葉は、こういう場面では死ぬ。
神崎は避難誘導の列に肩を入れ、背中を押して流れを作った。泣きながら立ち止まる学生の腕を掴む。恐慌で暴れる子を抱き止める。言葉は少ないほうがいい。言葉の代わりに、手で動かす。
「大丈夫、こっち!走るんじゃない、歩ける速度でいい!」
自分でも驚くほど、声が現場仕様になっていた。監査室で使う声ではない。会議室で使う声でもない。現場でしか出ない声。
ノーラはすでに一人目の軽傷者を座らせていた。血が出ている。血が出ているのに、彼女は手が震えない。震えたら負けると知っているからだ。
「息して。深く。痛いのは分かる、でも息を止めないで」
彼女の声は優しい。優しい声は、恐慌に効く。恐慌が止まれば、二次災害が減る。二次災害が減れば、死が減る。死が減る――その結論を、神崎は今は考えないようにした。考えると、数式になる。
敵がまた裂け目から飛び込んだ。リアムが盾で受ける。受ける、受ける、受ける。彼の肩が少しずつ下がっていく。受け続ければ崩れる。崩れれば線が破れる。
その瞬間、裏から石が落ちる音がした。
テオだ。壁沿いの通路から飛び出し、魔物の側面に石を投げつける。石は弱い。だが、注意を逸らすには十分だ。逸れた注意をリアムが盾で押し返し、結界の線の外へ追い込む。
「そっち、侵入口もう一個ある!西側、低いところ!」
テオが叫ぶ。叫びは短い。情報だけ。自分の恐怖は混ぜない。混ぜたら伝令は崩れる。
レオナが瞬時に判断した。
「西側、教官二名回せ!学生は動かすな、導線優先!リアム、線を下げるな!」
「はい!」
神崎のタブレットが震えた。
【第35号様式・速報】
『侵入経路:西側 追加(小規模)』
『退避完了率:31%→37%』
『学生死亡:0(暫定)』
ゼロが続く。続くことが、奇跡のようで、嫌だった。奇跡は、対比の材料になる。奇跡のあとに落とすと、よく映える。そういう発想が、システムの地肌に張り付いている。
神崎は息を吸い直し、目の前の人間に集中した。今は数字ではなく、手を引くべき腕がある。運ぶべき身体がある。戻すべき呼吸がある。
導線の先で、誰かが足を滑らせた。神崎が飛び込み、肩を貸した。体温が伝わる。人間はこんなにも温かいのに、ログは冷たいままだ。
第一波は、じわじわと引いた。
引くときが一番怖い。追撃が来るかもしれない。別の裂け目が開くかもしれない。静けさが戻ると、耳が過敏になる。
中庭に一瞬、息をつく間が生まれた。
レオナが周囲を見回し、短く指示を出す。
「今のうちに退避を進めろ。次が来る。必ず来る。焦るな、詰まるな、線を守れ」
誰もが頷く。頷きながら、顔が青い。青い顔で動く。それが戦場の前段階だ。
神崎はタブレットの画面を見た。見たくなくても、見てしまう。
【第35号様式・速報】
『学生死亡:0(暫定)』
『退避完了率:45%』
『英雄候補適性:上昇(参考)』
最後の一行が、刺さった。
今この場で、人が必死に生き残ろうとしている。その生存が、『候補』の加点として処理される。恐怖が、演出資源に変換される。
神崎はタブレットを伏せるように握り込み、視線を上げた。リアムが息を整えている。クレアが線の歪みを直している。ノーラが誰かの手を握っている。テオが次の裏道へ走っていく。
守れた。まだ、守れている。
それなのに、背中に寒気が走る。
守れたことが、次の刃物になる。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし「続きも追う価値がある」と思えたら、ブックマークだけ置いていってください。更新の目安にします。
また、可能なら評価★と、ひと言でも良いので「刺さった点/気になった点」をコメントでいただけると助かります。次の調整材料にします。




