第37話 防衛戦前夜、選ぶ側と選ばれる側
予感というものは、いつも中途半端だ。
確証がないから笑ってやり過ごせる。けれど、笑ってやり過ごせる程度のまま、気づいたら足元に穴が開いている。そんな種類の不安が、学院の夜には薄く溶けていた。
鐘は鳴らない。警報も鳴らない。だからこそ、静けさが不気味に感じられる。
――静けさは、事件が起きない証拠じゃない。起きる前の間にも、同じ静けさは存在する。
それを知っているのは、ここでは一人だけだった。
◇ ◇ ◇
訓練場の夜は、昼間より広く見えた。
照明が落とされ、地面の白線がぼんやり浮かぶ。剣を振る音も息を吐く音も、壁に当たって柔らかく返ってくる。夜は音を吸う。吸って、残るものだけを目立たせる。
リアムは一人で、武器を振っていた。
派手な技じゃない。鍛冶屋の見習いだった頃と同じ、身体に馴染ませるための素振り。刃の角度と、足の運びと、呼吸のタイミング。『勝つため』というより、『崩れないため』の反復だ。
背中に気配が落ちた。
「夜更かしは、伸び悩むぞ」
声は低く、乾いている。怒鳴らない。命令しない。その代わり、言葉の重さだけで立たせる声だ。
振り向くと、レオナ教官がいた。黒に近い訓練服で腕を組んでいる。昼間は学生にからかわれて笑っていた顔が、今は笑っていない。笑わないほうが似合うのが、なんとなく腹立たしい。
「教官も、見回りですか」
「見回りというより、癖」
レオナは肩をすくめた。
「前線にいた人間は、夜が静かだと落ち着かない。静かすぎると、逆に嫌なことを思い出す」
リアムは反射で謝りそうになって、やめた。謝る場じゃない。
代わりに、手元の鉄を見た。自分の手の中にある、冷たい鉄。熱と叩きの記憶が残っているはずの鉄が、今は冷えたままだ。
「……最近、外が物騒だって噂です」
「噂は噂だ」
レオナは言い切らない。教官らしい曖昧さだ。曖昧さで守れるものがあると知っている人間の言い方でもある。
「でも、備えるのは噂のうちだ」
リアムは短く頷いた。
「来たら、守るだけです」
レオナの口角が、わずかに上がった。笑いではない。痛みを知っている人間が、若い決意を見たときに浮かべる表情だ。
「守る側に立つなら、覚えておけ」
レオナは、少しだけ距離を詰めた。声が訓練場の空気を切る。
「君は、置いていく選択をする」
リアムの呼吸が一拍遅れる。言葉の意味が、まだ掴めない。掴めないまま身体が拒否する。
「置いていく、って……」
「誰かを助けるために、誰かを助けない選択だ」
レオナは淡々と言った。淡々と言えるようになるまでに、何回その選択をしたんだろう、とリアムは思ってしまった。
「そんなの、したくないです」
「したくなくても来る」
レオナは視線を外し、夜の白線を見た。そこに誰かの血が落ちたことがあるみたいな目で。
「だからもう一つ覚えておけ。守るべき『誰か一人』の中に、自分を入れろ」
リアムは眉を寄せる。
「……俺、ですか」
「君が生き残ることが、いつか別の誰かを生かす時もある」
レオナはそこで一度止まった。言い過ぎた、というより、言っても今は届かないところまで来たと判断したようだった。
「逆もある。君が生き残るために、誰かが置いていかれることもある」
リアムの脳裏に、崖の縁がよぎる。ミナの手。掴めなかった指。落ちていった影。墓標。エリナの名前。自分の中に刺さったままの『置いていった』という感覚。
それを思い出して、リアムは無意識に拳を握っていた。
「……俺は、」
言いかけて、言葉が詰まる。『置いていかない』と言いたい。でも、言ったところで現実は変わらない。
レオナは、それを待たなかった。
「分からなくていい。今夜のうちに、ただ覚えておけ」
そして、少しだけ柔らかい声で続ける。
「君は守る側に立つ。それだけはもう確定だ。なら、守る側が持つべき『嫌な知恵』を、先に渡しておく」
リアムは真剣に頷いた。理解できないのに頷く。危うい頷きだ。でも、ここで頷けるのは強さでもある、とレオナは思ったのかもしれない。
レオナは出口へ向かいながら、最後に振り返った。
「眠れ。眠れないなら、目を閉じろ。何かが起きたとき、目を開けて立っているために」
リアムは答えられなかった。答える言葉が、今は全部軽い気がした。
◇ ◇ ◇
寮の部屋は、四人でいると狭かった。
狭いからこそ、気配が逃げない。誰かの不安が、すぐ隣の人の皮膚に触れる。
ノーラはベッドの端に座り、手を組んでいた。組んだ指が白い。何度も力を入れて、何度も抜いているのが分かる。眠れない人間の指だ。
「……ねえ」
ノーラの声が小さくて、部屋の空気に負けそうになる。
「私、怖い」
テオが即座に顔を上げた。怒りが先に出るタイプの反応だ。
「そりゃ怖いだろ。怖くないやつがいたら頭がおかしい」
「怖いっていうか……」
ノーラは言葉を探す。見つからないから息を吐く。
「外が物騒だって言うじゃない? 学院って、守られてる場所だと思ってたのに……最近、そうじゃない気がして。何かが起きる前って、こういう感じなのかなって」
クレアが、短く言った。
「噂は増幅する。夜は特に」
冷たい言い方だ。冷たいのに、どこか震えている。クレアは理屈で自分を支える。理屈が崩れたときにどうなるかを、誰より自分が分かっている。
テオが舌打ちした。
「そもそもおかしいんだよ。王都だぞ? 王国軍が守れよ。なんで学院が最前線みたいな空気になってんだ」
「空気だけなら、まだいい」
クレアが返す。
「空気は現実の前触れになる。だから備える」
リアムは、ふと口を開いた。
「備えるなら、守るために備える」
自分でも驚くほど強い声だった。ノーラが顔を上げる。
「俺たちは……守る側だ」
その言葉を言った瞬間、訓練場のレオナの声が重なる。『置いていく選択をする』。胸の内側が、ひゅっと冷える。
リアムは言葉を続ける。続けないと、あの言葉に飲まれそうだった。
「村でもそうだった。来たから守った。……全部は守れなかったけど、守れる分だけ守った。守れなかった分は、重いままだ」
ノーラが、かすれた声で言った。
「全部は無理でも……?」
リアムは頷いた。何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、ここで誰かに渡す。
「前よりマシにはできる」
ノーラが、ようやく小さく息を吐いた。
「前よりマシ……。うん。全部じゃなくても」
その言葉が部屋の空気を少しだけ軽くした。軽くなった分だけ、何かが起きたときの落差が増える。リアムは、その落差を想像してしまい、歯を食いしばった。
四人はそれぞれの仕方で、目を閉じる準備をした。
誰も知らない。自分が選ぶ側になるのか、選ばれる側になるのか。それとも、選ぶ側にされるのか。
◇ ◇ ◇
神崎は学院の廊下を歩いていた。
正確には、補助講師アバターとしての神崎だ。教職員用の簡素な制服。手にはタブレット。ここでは『現場の一員』として動ける立場にいる。動けるからこそ、動けない。
廊下の向こうから、さっきの部屋の笑い声が漏れてくる。若い笑い声。守られるべき音。
神崎は、その音の前で足を止めた。
言いたくなる。
噂じゃない。
予感でもない。
具体的な『発火』のタイミングが、タブレットの中にある。
神崎が見ているのは、学院の掲示板ではなく、第29号様式に落とし込んだ監査方針と、第35号様式の予報だ。そこには、曖昧さがない。曖昧さを許さないシステムが、秒刻みで未来を整形している。
ノックして、何かが起きるかもしれない、とだけ言う?
それなら規程には触れない。触れないはずだ。
でも、分かっている。
『かもしれない』の言い方は、現場を動かすには弱い。弱いから、結局は何も変わらない。変わらないなら、言った意味はない。
逆に、いつを匂わせた瞬間に、根幹破壊級の介入になる。彼らの行動が変わる。行動が変われば、システムは帳尻を合わせに来る。別の入口が開く。別の場所で死ぬ。死ぬ数が増える。死ぬ人が変わる。『補正』はそういう形で、いつも丁寧に残酷だ。
村で見た。ミナを救った代わりに、エリナが死んだ。
あのときの教訓は、胸の奥に棘のように刺さったままだ。
タブレットが震えた。通知。嫌なタイミングで来る。いつもそうだ。
神崎は目を逸らさずに画面を開いた。
『監査官規程:通知』
『根幹破壊級介入は禁止』
『権限外介入(E-ACD-07以外)検知時、補正イベント発火率上昇』
その下に、短い追記。
『備考:監査官補・神崎悠斗 再介入権限=E-ACD-07のみ』
まるで、首輪だ。
神崎は喉の奥が熱くなるのを感じた。怒りか、恐怖か、分からない。どちらも同じ味がする。
規程の文字を見ながら、神崎は思う。
自分は選ぶ側だ。机の上で、誰を飲むかを決めた側だ。案Bに寄せると決めた。公的には『RSIが割れないため』に、喪失を焦点化し、回収線を引くと決裁した。
でも現場に立つと、選ぶ側でいられない。選ぶ側でいられないから、選んだことが余計に残酷になる。選ばれる側の呼吸が聞こえる。選ばれる側の笑い声が届く。
神崎は、扉の前で手を伸ばしかけて、止めた。
ノックして、曖昧な注意を促しても、意味が薄い。意味が薄い言葉で安心させるくらいなら、言わないほうがマシだ。
ノックして、具体を匂わせたら、補正が来る。補正が来れば、ここで救った『かもしれない』何人かの代わりに、別の誰かが死ぬ。
その別の誰かは、名前も付かないまま『学生層』として処理されるかもしれない。村娘Cみたいに。
神崎は、その想像に唇を噛んだ。
廊下の灯りが、少しだけ揺れた。風か、結界の軋みか、ただの気のせいか。
タブレットの隅で、赤い小さなアイコンが点滅する。
『E-ACD-07 発火予測:高』
神崎は、胸の内側だけで言った。
止めたい。
でも止められない。
止めてはいけない。
その三つの区別が、ぐちゃぐちゃに混ざって重い塊になり、腹の底に沈んだ。
神崎は手を下ろし、廊下を歩き出した。扉の向こうの笑い声を、背中に置いていく。
選ぶ側と、選ばれる側。
その非対称が、今夜はやけに鮮明だった。
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