第32話 小さな事案、大きな予感
夜の王立総合学院は、昼より音がはっきりしていた。
寮の廊下を走る足音。遠くの見回りの靴音。風に揺れる木の葉の擦れ。そこに混じって、ほんの一瞬だけ――石を引っ掻くような、嫌な音がした。
鐘は鳴らない。
大規模襲撃なら、結界がきしみ、警鐘が鳴り、学院そのものが騒ぎで目を覚ます。けれど今夜は、そこまでの『格』じゃない。だからこそ、見逃しやすい。
見逃した先で、死ぬのがいつも低学年だ。そういう順番で世界はできている。
◇ ◇ ◇
レオナ教官が、外壁付近の見張りからの短い報告を受けたのは、消灯の少し後だった。
「外壁南、排水路の格子が曲がってます。小型反応、数体。たぶん斥候です」
教官室の空気が一段冷える。レオナは迷わず立ち上がり、机の上の地図と札を掴んだ。
「鐘は鳴らすな。騒ぎになると走る子が出る。走る子が最初に転ぶ。転ぶ子が最初に襲われる」
言い切ってから、廊下に出る。
「巡回補助を出す。討伐じゃない。撤退線の維持と、避難導線の確保。追いかけない。囲い込む」
その指示が、今夜の空気のルールになった。
◇ ◇ ◇
中庭の端で、リアムたち四人は呼び出された。寝間着の上に外套を羽織り、武器を持ち、灯りを一つだけ借りて集まる。
テオは眠そうな顔で欠伸を噛み殺し、クレアは最初から覚醒している目をしていた。ノーラは薬草袋を抱えて、肩が上がったままだ。リアムだけが、妙に落ち着いている。落ち着いているというより、緊張の仕方が『作業』に近い。鍛冶場で火を見る時の、あの静かさ。
レオナは四人を見て、声を低くした。
「いいか。今夜は英雄ごっこをしない。誰も死なせないために、誰も追い詰めない。『勝つ』より『線を守る』が優先だ」
テオが軽口を叩きたげに口を開きかけるが、レオナの目に刺されてやめた。
「配置。テオ、侵入経路を探して塞ぐ。音を立てるな。入口を潰せ。クレア、薄い結界で線を引け。壁じゃない、線だ。リアム、その線の前に立つ。押し返すだけ、殺しきろうとするな。ノーラ、軽傷の処置と、恐慌の鎮静。泣かせるな、叫ばせるな」
ノーラが頷く。頷きが小さすぎて、首が折れそうなほどだ。
リアムは短く答えた。
「分かりました」
クレアも同じ速度で言う。
「線を引きます」
テオだけが、少しだけ笑って見せた。
「了解。俺、侵入経路を潰すのは得意なんで」
レオナはその笑いに乗らず、ただ頷いた。
「生き残るのが得意でいてくれ」
◇ ◇ ◇
外壁南。排水路。
格子は確かに曲がっていた。わずかな隙間から、黒い影がにじむように入り込んでくる。背丈は小さい。手足が細い。けれど牙は鋭い。夜の湿気を吸って、獣の匂いが濃くなる。
テオが先に動いた。灯りを地面に伏せ、壁際を滑るように走る。見回り兵の足音に紛れ、影が影を追う。
クレアは地面に指を置き、薄い光の糸を引いた。結界というより、境界線だ。ここから先は、越えるなという約束を、世界に書き込む。
リアムはその前に立つ。盾は大げさなものじゃない。木と革を補強した簡素な円盾。それでも彼の立ち方は、壁になる立ち方だった。足幅、重心、呼吸。誰かを背に置く立ち方。
ノーラは少し後ろで、灯りを落とし、薬草と布を準備する。呼吸が速い。けれど手は震えていない。震えている暇がない、と言ったほうが近い。
最初の一体が、クレアの線に触れた。
薄い光が、ぴんと鳴る。弦を弾いたような音。影が身をすくめる。その一瞬にリアムが盾を前に出し、押した。殴らない。ただ押す。押し返す。線の外へ戻す。
影が歯をむく。次の影が来る。数が増える。五、六、七。排水路の闇が、今夜だけ口を開けている。
テオが戻ってきた。
「レオナ教官、東側の排水路にも曲がりあり。多分、誘導する気だ。格子に外から押された痕がある」
レオナは即座に判断する。
「引き込まれるな。ここで線を守れ。東側は私が押さえる。テオ、お前は連絡。走るな、転ぶな」
「走らないで連絡って難しくないですか」
「死ぬよりは簡単だ」
テオが口をつぐみ、軽く頷いて影に溶ける。
影たちは、こちらの線に近づいては弾かれ、押し返される。まるで、壁が見えないのに壁があることに苛立っているように。
そのうちの一体が、ふいに横へ跳んだ。線の端を狙う。クレアの集中がわずかに揺れる。線の光が薄くなる。
「右!」
リアムが声を上げ、盾をずらす。間に合う。盾が影を弾く。影が地面に転がる。殺せる距離。けれどリアムは踏み込まない。レオナの言葉が残っている。『押し返すだけ』。
影は呻いて立ち上がり、線の外へ後退した。
その時、背後で小さな息を呑む音がした。見回りに駆り出された一年生が、物陰からこちらを覗いていたのだ。恐怖で足が固まり、動けなくなっている。
「動かないで。息を吸って。吐いて」
ノーラが、灯りを隠すようにして近づき、声だけを渡す。触れない。触れると泣く。泣いたら叫ぶ。叫んだら走る子が増える。
「大丈夫。今のは、噛ませない」
一年生が唇を噛む。肩が震える。
「ほら、私の声だけ聞いて。目を閉じていい。手、ここ。握って。強くじゃない、軽く」
ノーラの指が、軽く触れる。触れた瞬間、一年生の呼吸がほんの少し整う。
リアムはその背中を見ない。見ると、目が『守りたい』に引っ張られる。守りたいは、前に出る理由になる。前に出たら線が薄くなる。
だから、線の前に立つ。
クレアも、線の端を繕い直す。結界を厚くしない。厚くすると、別の場所が薄くなる。線でいい。線があれば、人は戻れる。
そして、影たちは諦め始めた。獲物が取れない夜は、彼らにとっても無駄だ。排水路の口へ、少しずつ後退していく。
レオナが戻ってきた。外套に泥と返り血がついている。呼吸は乱れていない。
「終わりだ。追うな」
リアムが頷く。クレアが線を消す。光が消えた瞬間、世界がふっと軽くなる。
鐘は鳴らなかった。
誰も死ななかった。
小さな事案は、静かに終わった。
◇ ◇ ◇
事後。外壁の内側。灯りを少し明るくして、レオナが四人を見渡した。
「よくやった。撤退線が崩れなかった。余計な追撃もしなかった。……君たちはやっぱり守り方が上手い」
テオが、ほっとしたように笑いかける。
「じゃあ、今夜は褒めてもらえます?」
レオナは、その笑いを受け止めてから、言い切った。
「だから最前線に置かれる」
空気が一瞬止まる。
褒め言葉の形をした毒だ。ノーラの顔色がわずかに変わる。クレアは目を細め、リアムだけが、黙って立ち尽くす。たぶん彼は理解している。村で、すでに似た言葉を聞いてきたからだ。『腕が立つなら前に出ろ』。『守れたなら次も守れ』。その繰り返し。
テオが、冗談で戻そうとする。
「最前線って、校舎の前ですか?それとも人生の前ですか?」
「どっちもだ」
レオナは笑わない。笑わないから、冗談が床に落ちる。
それでも最後に、少しだけ声を柔らかくした。
「今夜の勝ち方を忘れるな。勝ち方を忘れた奴から死ぬ。……解散。寝ろ」
四人は散っていく。足取りは、さっきより重い。夜は終わったのに、夜が体に残る。
◇ ◇ ◇
同じ頃。ナラティブ庁の窓際で、神崎はタブレットを見ていた。
学院の小さな事案が、様式の追記として流れ込んでくる。現場の息遣いは消え、文字になる。
『第35号様式:学院編サマリー(速報追記)
事案:学内小規模侵入(外壁南/排水路)
規模:小(警鐘未発火)
対応:巡回補助+教官指揮
結果:死亡者0/重傷者0/軽傷者2(擦過傷)
対処時間:短縮(前回比 -18%)
備考:撤退線維持の精度向上』
ここまでは、まだ気持ちよく読める。死者ゼロ。重傷ゼロ。そうだ。守れた。今日の夜は、守れた。
だが、その下に、嫌な注記がつく。注記はいつも、さらっと刺してくる。
『内部注記:
当該パーティ(リアム/クレア/テオ/ノーラ)
→ “全員生存”実績により、E-ACD-07投入優先度:微増
→ 勇者候補パーティ浮上度:微増(参考)』
微増。
守れたことが、点数になる。点数が、投入になる。
神崎は喉の奥が冷たくなるのを感じた。恋愛課で見た『ざまぁ効果』の評価と同じだ。行動の意味が、別の尺度に変換される。人間の努力が、機械の加点にされる。
そして、追い打ちのように、システム人格の短評が表示された。
『ナラティヴァ短評:
全員生存は次の大きな喪失の対比効果を高めます』
指が止まる。
対比効果。
喪失。
この短い一文の中で、人間が『演出資源』に変換されている。しかも、今夜はまだ喪失していない。していないのに、もう喪失の準備が始まっている。生存が、死の前振りになる。
神崎は、怒りたいのに怒れない自分に気づく。公的な言葉を持つと、怒りは『品質議論』に化ける。化けた怒りは、鋭くなる代わりに、熱を失う。
タブレットの下部に、入力欄がある。個人メモ。誰にも見せないはずの、薄い逃げ道。
神崎はそこに打ち込んだ。
『メモ:
死亡者0は成果。
しかし成果がE-ACD-07の燃料に変換される。
守れたから選ばれるの構造は、物語品質の言葉でしか止められないのか。
寒気がする。』
書いた瞬間、窓の外の世界線ビューが目に入った。学院の枝の先に、赤い縁取りが静かに待っている。E-ACD-07。まだ発火していないのに、もうこちらを見ている。
守れたのに、寒い。
神崎はタブレットを閉じきれず、もう一度だけ開いて、短評の一文を見直した。
『全員生存は次の大きな喪失の対比効果を高めます』
守り方が上手いから最前線に置かれる。
全員生存だから次の喪失が映える。
言い方が違うだけで、同じ刃だった。
神崎は息を吐いた。窓ガラスに白い曇りが一瞬だけ生まれ、すぐ消えた。
次の夜は、もっと赤い。
そういう予感だけが、妙に確度の高い数字みたいに胸に残った。
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