第24話 舞踏会前夜
王立学院の女子寮は、夜になると別の城みたいに静かになる。
昼間は笑い声と足音で満ちている廊下も、今は灯りを落とされ、ところどころのランプだけが橙色に揺れていた。
その一角――三階の奨学生用フロアの端の部屋で、リナ・エヴァンズはベッドの上に膝を抱えていた。
「……わたし、何か、間違ってるのかな」
声に出してみても、答える人はいない。
カーテンの隙間からは、明日の舞踏会に使われる大広間の灯りがちらちら見えた。
学院創立祭の前夜。王太子殿下や高位貴族が出席し、そこで――
(そこで、断罪が行われるかもしれない)
同級生たちがそう囁きあっているのを、リナは何度も聞いた。
『殿下がみんなの前でルーベンス様の罪を暴くのよ』
『庶民出身のリナ嬢を守るって宣言なさるんだわ』
耳に入るたび、くすぐったいような、気まずいような気持ちになる。
だって、セラフィナ・ルーベンスは――
(怖い人、だと思ってた。ずっと)
最初に視線がぶつかった日のことを、リナは鮮明に覚えている。
高いヒールにロングドレス。まっすぐな背筋。
ほんの少し口元を引き結んでいるだけで、こちらの失敗を全部見透かされるような気がした。
招待状の件。授業中のあの叱責。
廊下ですれ違ったときの、冷たいような視線。
(でも……本当に、全部いじめだったのかな)
最近のセラフィナを思い出す。
――リボンの色が違うわ。式典用は向こうよ。
――その挨拶の順番では、相手に恥をかかせることになります。
言い方は厳しくて、ときどき胸に刺さる。
でも、その言葉の奥には、確かに「恥をかかないように」という意図があるようにも感じられてきた。
あの日、図書室でアランと話していたときも、セラフィナは遠くからこちらを見ていただけだった。
噂に聞くような露骨な嫌味も、意地悪な笑いも、そこにはなかった。
(殿下に、ちゃんと聞いてみようと思ってた。わたしの気のせいかもしれないって。それでも、何か変だって)
けれど、アランの前に立つと、言葉はいつも途中で絡まってしまう。
彼の前で、自分が「セラフィナ様にも良いところがある気がする」なんて言ったら――
彼の助けたい気持ちを、否定することになるのではないかと怖くなる。
(わたしが彼女を庇ったら、殿下は困るかもしれない)
胸の奥で、もやもやが膨らむ。
「わたしが、悪いことをしてるのかな……」
セラフィナのことを「怖い人だ」と思い続けること。
でも、最近見えてきた別の顔に気付かないふりをしていること。
そして、明日の舞踏会で、自分だけが守られる位置に立つこと。
罪悪感の芽は、まだ小さい。
それでも確かに、リナの胸の中で根を張り始めていた。
◇ ◇ ◇
「リナ、顔色が優れないようだね。明日が心配になってきたかな?」
男子寮の貴賓フロア。
王太子アラン・ベルフォードは、自室のサロンで向かいに座る少女の表情を覗き込んだ。
夜なのに、リナの髪にはまだリボンの跡が残っている。
いつもより少しだけ、目の下に影が見えた。
「いえ……その、少しだけ、です。うまく踊れるかどうか不安で」
「そこは心配いらないよ。君はちゃんと練習していたじゃないか」
アランは朗らかに笑いかけた。
微笑みは板についている。学院内のどこにいても、彼は常に「優しい殿下」でいなければならない。
「それに、もしステップを間違えたとしても、僕がリードする。君は僕の腕の中で笑っていればいいんだ」
「……殿下、そういうことをさらっと仰います」
リナの頬が、少し赤くなる。
アランは、その反応に内心ほっとしていた。
彼女が笑ってくれると、自分の選んだ道が正しいように思えるからだ。
(僕は――彼女を守る騎士でいたい)
セラフィナとリナ。
二人の間に、いつの間にか深い溝ができてしまった。
最初は小さなすれ違いだった。
セラフィナの厳しい言葉にリナが怯え、涙ぐみ、アランがそれを慰めた。
(そのたびに、僕は良い王子様でいられた)
泣きそうな庶民の少女の肩にそっと手を置き、
「君は間違っていない」と囁く。
周囲の視線が変わる。
『さすが殿下』『弱き者の味方』『冷たい公爵令嬢とは違う』――そんな言葉が舞う。
それは、心地よかった。
(セラフィナの言っていることにも、理はあるのは分かっている)
奨学生枠の会議で、彼女は何度も数字や領地の現状を挙げた。
生徒会の議題でも、彼女の意見はいつも現実的で、長期的な視点を持っていた。
(でも、難しい話ばかりだ。今ここで困っているリナを前にすると……)
目の前の少女が涙をこらえているときに、「予算が」「制度が」と説教を始める自分を想像すると、どうしても気が進まない。
リナは、庶民でありながら懸命に努力して学院に馴染もうとしている。
そんな彼女を守る自分を、学院の誰もが「良い王子」と褒め称える。
その構図に、アランはいつしか酔っていた。
「殿下」
リナがおずおずと口を開く。
「……セラフィナ様のことなのですが」
その名前を聞いた瞬間、アランの背筋にわずかに力が入る。
「最近、少しだけ……前と違うような気がしていて。わたしのことを、本当に嫌っているのかどうか……」
「リナ」
アランは、穏やかな声で遮った。
「君は、優しすぎるんだよ」
「え?」
「君はきっと、自分を責めてしまう。あの人にもきっと事情があるんじゃないか、と」
セラフィナの顔が脳裏をよぎる。
何度も、自分に何か言いたげに視線を向けてきた婚約者の姿。
(聞かないほうが楽なこともある)
その視線から、アランは目をそらし続けてきた。
「でもね、リナ。君が泣いていたのも、本当のことだろう?」
「それは……」
「君が辛い思いをしたのなら、それをなかったことにはできない。僕は、その涙を見過ごしたくない」
アランは、リナの手の上にそっと自分の手を重ねた。
「明日の舞踏会で、僕はみんなの前ではっきりさせる。君を傷つけるものから、僕が守ると」
「殿下……」
リナの瞳に、また涙がにじむ。
それを見て、アランは自分の決意をなぞるように心の中で繰り返した。
(難しい話は、いずれまたすればいい。今は――)
今は、目の前の少女を救う姿を見せるときだ。
王子として、恋人として、皆の前で。
セラフィナの合理的な提案も、領地の数字も、明日の断罪がもたらす揺らぎも。
そのすべてから、アランは意識的に目をそらしていた。
◇ ◇ ◇
学院の上空、少し離れた位置に、薄く透き通った窓が浮かんでいる。
そこから内部を覗き込むのは、ナラティブ庁監査課からの出向職員――俺だ。
タブレットには、二つのログが並んでいた。
『心理ベクトルログ:リナ・エヴァンズ
・セラフィナへの印象:恐怖→混乱/違和感
・自責感:微増(自分が悪いことをしているのではという疑念)
・王太子アランへの信頼:高/依存傾向やや上昇』
『心理ベクトルログ:アラン・ベルフォード
・自己像:『良き王子』『弱き者の守護者』維持欲求 高
・セラフィナの現実的助言に対する認知:理解あり/回避傾向 強
・断罪イベントに対する内的動機:
― リナを守る姿を示したい
― 周囲からの期待(良い王子様像)に応えたい
― 自らの責任(判断ミス/構造への加担)に正面から向き合う意欲 低』
「……きれいに『構造+本人の弱さ』の形だな」
思わず、独り言が漏れる。
アランは確かに、構造の被害者でもある。
王太子として生まれ、常に「期待される振る舞い」を求められ、皆の前で正しい選択を迫られている。
セラフィナの「嫌われ役を引き受ける」という選択は、その構造を支えるためのものだ。
彼女が全部の嫌われ役を引き受けるからこそ、王子は『誰からも愛される』立場でいられる。
けれど――
「完全な被害者、ってわけでもない」
タブレットの片隅で、アランの責任ラインを示すログが点滅していた。
『責任ライン評価:アラン・ベルフォード
・断罪イベント主導度:高
・噂拡散への関与:黙認/助長あり
・是正機会:複数回(セラフィナからの進言、教師からの進言 等)
・是正を選択せず、良き王子像維持を優先した回数:多』
「見て見ぬふりをするたび、ログは溜まっていくんだよな……」
第2781ラインのときの、村長や領兵たちの記録を思い出す。
補正悲劇の発生に、彼らの行動や見過ごしがどれくらい関与していたか、数字は冷静に指摘していた。
あのとき、俺は「システムが悲劇の総量を調整した」と理解した。
けれど同時に、「誰がその悲劇の一部を引き受けるべきだったのか」も、ログは淡々と示していた。
今回も同じだ。
『悪役令嬢』セラフィナ。
『庶民ヒロイン』リナ。
『良い王子様』アラン。
システムは、ざまぁの総量をどこかに配分しようとする。
それを誰に、どの比率で負わせるか――そこに俺たち監査官の余地がある。
「アランにどこまでざまぁさせるか、って問題なんだよなあ……」
彼を完全に許す結末にすれば、たぶん読者の苛立ちは消えない。
逆に、あまりにも厳しい制裁を下せば、「悪役令嬢どころか王子まで処刑する地獄ライン」としてジャンルそのもののバランスが崩れる。
タブレット上で、ZM-02の予測が更新される。
『ざまぁ配分案:
・セラフィナへの直接的制裁:中(公開断罪+婚約解消+国外社交留学)
・アランへの社会的評価変動:中(軽い批判+学びの機会)
・取り巻きへの責任分担:小~中』
現時点での改変方針を反映した、仮の配分だ。
しかし、このまま進めて良いかどうか、まだ迷いは残る。
「ざまぁさせないって選択肢はないんだよな、そもそも」
ジャンルが求めているのは、ある程度のスカッと感だ。
完全にノーざまぁ路線に舵を切れば、別のところで補正ざまぁが暴れ出す。
リナの罪悪感の芽。
アランの自己像へのしがみつき。
セラフィナの、誰にも見せていない疲れた肩。
どこか一箇所だけを綺麗に救おうとすると、他のどこかが歪む。
「それでも――」
図書塔で見た、セラフィナのごく小さな願いが脳裏をよぎる。
『たまには、家のことを考えなくていい時間が少しほしい』
それは、物語の筋書きとは何の関係もない、個人的でささやかな望みだ。
「少なくとも、『全部あいつのせいでした』って終わり方だけは、避けたい」
セラフィナ一人に全てを押し付ける構造。
それは、第2781ラインでエリナ一人に悲劇を集約させたときの感触に、どこか似ている。
あの時の補正悲劇を思い出して、背中に薄い汗が滲んだ。
「構造と、個人の弱さ。どっちからも目をそらさない――そんな落とし所、あるのか?」
自分でも無茶を言っている自覚はある。
それでも、探さなければこの仕事をやっている意味がない。
タブレットを閉じると、窓の向こうに学院の灯りが揺れて見えた。
舞踏会前夜。
明日ここで、ざまぁと寿命と責任を天秤にかけた断罪劇が上演される。
その筋書きに、どれだけ赤ペンを入れられるか――
監査官補・神崎悠斗の腕の見せどころは、まさにこれからだった。




