第21話 補正ざまぁの影
礼儀作法の授業は、日を改めて再びやってきた。
だが今日は、前回とは少し趣が違う。
舞踏会シーズンを前にした特別講義――『実地演習:パートナーとの立ち居振る舞い』。
広い練習室の中央には、即席のダンスフロア。
壁際には見学席。俺は「統計学の臨時講師兼、教員補佐」という肩書きで、その端っこに立っていた。
タブレットは上着のポケットにしまってある。
今は『監査官』ではなく、『学院のモブ講師』として動く番だ。
◇ ◇ ◇
「では、本日のモデル役は――エヴァンズ嬢と、殿下にお願いしましょう」
老教師がそう告げると、教室の空気が一気に甘くなる。
「きゃー、またあの組み合わせ」「お似合いすぎるでしょ」
令嬢たちの囁きが、半ば期待と半ばざまぁの匂いをまとって飛び交う。
アラン王太子と、庶民出身の奨学生リナ。
『身分差ロマンス』の記号が揃った瞬間、周囲のテンションが上がるのが分かる。
「リナ、緊張しなくていいよ。いつも通りで」
アランは相変わらず好青年テンプレを体現しつつ、リナの手を取った。
彼の優しさが、無自覚に周囲の期待を煽っていることには気づいていない。
そのとき、壁際から静かな声が飛んだ。
「エヴァンズ嬢、殿下。少しよろしいかしら」
セラフィナ・ルーベンス。
白い手袋をはめた手で扇子をたたみながら、ゆっくりと二人に歩み寄る。
周囲の空気が、さっと冷えた。
「出た」「また何か言うのかな」
耳に入ってくる言葉は、相変わらずだ。
タブレットを取り出したい衝動をこらえながら、俺はセラフィナの表情を観察する。
噂にあるような嗜虐的な笑いは、どこにもない。ただ、眉がわずかに寄っているだけだ。
「エヴァンズ嬢。その立ち位置では、殿下の動線を塞ぎます。あと三分の一歩だけ下がってください」
「え、あ、はいっ」
リナが慌てて後ろに下がる。その足が、裾を踏みそうになるのが見えた。
やばい。
ここで転ばせれば、『庶民ヒロインの醜態を嘲笑う悪役令嬢』というログが強化される未来が見える。
俺は思わず一歩、前に出ていた。
「そこまでですよ、ルーベンス嬢」
教員らしい声量を意識して、わざと軽い調子で遮る。
「実地演習ですからね。まずは皆さんに、今の立ち位置がなぜ危ないかを説明しましょう」
視線が一斉にこちらを向く。
セラフィナの紫の瞳が、わずかに細められた。
邪魔をするな、と言われてもおかしくない場面だ。
だが彼女は、何も言わない。ただ一歩さがり、こちらに場を譲った。
「エヴァンズ嬢、そこから殿下が一歩踏み出したと想像してみてください。裾はどう動きます?」
「えっと……前に、引かれます」
「そうですね。で、あなたの足は?」
「たぶん……引っかかって、転んでしまうと……」
「その通り。つまり今の位置関係は、どちらも損をする配置なんです」
俺は、わざとアランのほうも見る。
「殿下にとっても危険ですよ。お相手を転ばせてしまえば、悪意がなくても非難される。『殿下は女性の扱いがなっていない』ってね」
「う、それは困るな」
アランが苦笑して頭をかいた。
見学席から、小さな笑い声が漏れる。
「ですから、今日のポイントは『どちらか一方ではなく、二人ともが楽になる立ち位置を探す』ことです。……ルーベンス嬢?」
意図的にボールを戻す。
セラフィナは、わずかに目を瞬かせ、それから淡々と続けた。
「補佐講師殿の言う通りです。エヴァンズ嬢、もう半歩だけ、殿下と円を描くように動いてください。そう、その位置です。そこなら、殿下が一歩踏み出しても裾を踏まれにくい」
「はい……ありがとうございます」
「礼は要りません。あなたが転べば、殿下も困るだけですから」
言い回し自体はきつい。
けれどさっき、俺が「どちらも損をする」と前振りしたおかげで、教室の空気は『庶民いじめ』よりも『不器用な安全指導』寄りに傾いている。
壁際から聞こえてくる囁きも、少し変わっていた。
「ルーベンス様、相変わらず厳しいけど……言ってることはまあ分かるよね」
「エヴァンズ嬢が転んだら、確かに殿下の株も落ちるし」
「でも言い方もうちょっと……いや、あれがあの人なりの優しさなのか?」
タブレットの画面をちらりと確認する。
『観客モブ反応:
・セラフィナへの完全非難:58%
・中立/判断保留:27%
・好意的解釈:15%』
前より、少しだけ数字が動いている。
全員から悪役扱いされる構図は、ほんのわずかだが崩れた。
俺は心の中で小さくガッツポーズを取る。
――その直後、ポケットの端末が微かな振動を伝えてきた。
◇ ◇ ◇
授業が終わり、生徒たちがぞろぞろと練習室を出て行く。
アランとリナは、何やら楽しそうに次の講義の話をしていた。背後では、取り巻き令嬢たちがひそひそと噂話を続けている。
セラフィナは、最後に一礼だけして退室していった。
扉が閉まる直前、彼女がこちらにほんの一瞬だけ視線を向けた気がしたが、それが気のせいかどうかは分からない。
俺は、誰もいなくなった教室の隅で、こっそり端末を取り出した。
『通知:第4502ライン内で新規イベントキューを検知しました』
嫌な予感しかしない文面だ。
タップすると、詳細表示が開く。
『EVENT-ID:MAID-021
件名:「侍女へのマナー指導(強度高)」
発生候補:セラフィナ取り巻き令嬢A/舞踏会準備期間中』
イベント概要には、ざっくりこう書かれていた。
『取り巻き令嬢Aが、ドレスの裾を踏んだ侍女を人前で激しく叱責し、物理的嫌がらせを行う。
観客:他令嬢・侍女ネットワーク。
後日、庶民層のざまぁ対象候補として拡散可能』
画面の片隅に、小さなタグが点滅している。
『代替ざまぁ候補』
「……来たか」
喉がひゅっと縮む感覚がした。
ナラティヴァの注釈を開く。
『注釈:
先ほどの舞踏会演習イベントにおいて、
・悪役令嬢セラフィナに対する観客の敵意が微減し、
・ざまぁ期待値が想定値を下回りました。
観客感情の発散先を確保するため、代替ざまぁ候補イベントを生成中です。』
ざまぁ期待値。
その一語に、背筋が寒くなる。
さっきの俺の介入――ただちょっと言い方を変えただけの、ささやかな補助が、ログ上では『悪役令嬢ざまぁの濃度を下げた』という扱いになっているらしい。
その穴埋めとして、新たな『悪役』候補が自動で挙げられた。
取り巻き令嬢A。
今のところ、彼女はただのおしゃべりな令嬢に過ぎない。
侍女の名前は、まだ『侍女C』のまま、記号扱いだ。
そこに『強度高』のマナー指導イベントを差し込めば――
彼女たちはあっという間に、『憎まれ役』と『ざまぁ対象』に昇格する。
「やめろよ……」
教室の誰もいない空気の中で、思わず呟く。
ポケットの端末は冷たく光るだけで、返事はしない。
◇ ◇ ◇
恋愛一三課フロアに戻るなり、俺は端末を庁内モードに切り替えた。
検索窓に、震え気味の指でキーワードを打ち込む。
『補正ざまぁ』
すぐに内部マニュアルがヒットする。
『補正ざまぁ運用ガイド(恋愛物語向け)』
嫌なタイトルだ。
スクロールすると、淡々とした説明が並ぶ。
『ざまぁ構造を含むラインにおいて、
メインざまぁイベントの強度が設計値より低く推移した場合、
システムは観客感情の発散不足を補うため、
代替ざまぁ候補を自動探索・生成します。』
文字を追っていくうちに、アルシオ村の崖が脳裏に浮かぶ。
ミナの死亡フラグを、俺は『行方不明』に書き換えた。
その代わりに、村娘エリナが崖崩れに巻き込まれて死んだ。
『補正悲劇』。
あのとき雨宮先輩が説明してくれた用語だ。
今、目の前にあるのは、その恋愛版。
『補正ざまぁは、
・メインざまぁ対象への負荷軽減
・ざまぁジャンル全体のRSI維持
といった観点から一定の有効性が確認されていますが、
モブキャラクターへの過剰な人格改変、
および局所的な福祉指数急落を引き起こす可能性があります。』
「有効性って言うなよ……」
小声で毒づく。
『監査官は、
・補正ざまぁ対象の分散
・ざまぁ強度の中程度調整
を通じて、RSIと登場人物福祉指数のバランスを取ることが求められます。
ただし、ざまぁ総量を完全にゼロにすることは推奨されません。』
ざまぁ総量。
悲劇の総量と同じだ。
グラフの山を保つために、誰かが泣き、誰かが叩かれる。
その誰かを一人減らせば、別の誰かが候補に挙がる。
そういう構造で、この世界は設計されている。
「第2781と、何も変わってないじゃないか」
エリナの墓標に刻まれた名前。
『村娘C』から『エリナ』に変えるだけで精一杯だったあのときと、構造は同じだ。
違うのは、今度は事前に分かっていること。
俺が『少し優しくする』だけで、自動的に別の女子生徒や侍女が『補正ざまぁ候補』にされるという事実を。
嫌な汗が、背中をつっと流れた。
「……だったらなおさら、放っておくわけにはいかないか」
端末を閉じる。
ざまぁ総量をゼロにしろ、なんて無茶を言うつもりはない。
そんなことをすれば、ナラティヴァどころか庁全体を敵に回す。
でも――
「誰か一人に、全部押しつけるのだけはやめさせたい」
セラフィナだけでもない。
取り巻き令嬢Aでも、名前もない侍女でもない。
悪役令嬢ざまぁの影で、ログ上『C』としか扱われない誰かが、また一人サンドバッグになる。
それだけは、もう見たくない。
俺は新しい内部メモを開いた。
『内部メモ:第4502ライン
・叱責イベントを現場介入でマイルド化した結果、
補正ざまぁ候補イベント(侍女いびり)が自動生成されかけた。
・第2781ラインの補正悲劇と同様、総量維持機構が働いていると推測。
→今後の方針:
―セラフィナ単独のサンドバッグ化を避けつつ、
補正ざまぁ対象をモブに集中させない構造を模索すること。』
保存ボタンを押し、深く息を吐く。
ざまぁテンプレの影にある『補正ざまぁ』。
その存在を認めてしまった以上、知らなかったふりをすることはできない。
監査官補・神崎悠斗の第二章は、想像以上に面倒な敵と向き合うところから始まるらしい。




