第19話 噂と実像
王立学院の廊下は、妙に音が響く。
磨き上げられた石床に、革靴の音が小さく跳ね返る。
午前の講義を終え、教務室に戻る途中の俺の前方で、制服の群れが左右に割れていく気配がした。
「……あ、ルーベンス様だ」
小さくささやく声が耳に入る。
そちらを見やると、制服の青よりわずかに深い、群青色のドレスコートが視界に入った。
長い白金色の髪をきっちりまとめ上げ、背筋をこれ以上ないほど真っ直ぐに伸ばして歩く少女。
セラフィナ=ルーベンス。
噂の中では『悪徳令嬢』と名指しされている人物が、ようやく実物として俺の前を通り過ぎようとしていた。
◇ ◇ ◇
すれ違いざま、彼女の視線が横に流れる。
その先にいたのは、教科書を抱えたリナだった。
アランと一緒のときとは違い、今のリナの姿は「普通の奨学生」そのものだ。
彼女はセラフィナの姿に気づいた瞬間、肩をびくりと震わせ、慌てて廊下の端に寄った。
「失礼しました、公爵令嬢様……!」
リナは教科書を抱え直し、ぎこちないカーテシーをする。
セラフィナは立ち止まり、ゆっくりと彼女のほうへ向き直った。
「……エヴァンズ嬢」
澄んだ声だった。噂で聞いたような棘は、少なくとも音色にはない。
それでも、リナの表情は固まる。
緊張で喉を詰まらせた庶民ヒロインを前に、セラフィナは一歩だけ距離を詰めた。
「その本の持ち方はおやめなさい」
「えっ……?」
「角が完全に下を向いています。背表紙も折れかけている」
セラフィナは、リナの腕の入れ方を示すように、自分の胸の前で本を抱える仕草をしてみせる。
「書物は、あなたの財産であると同時に、あなたを測る物差しです。人前で扱うときは、背をまっすぐに立てて持ちなさい。肘を張らず、指先の力で支えるのです」
「あ、す、すみません……!」
「謝罪は要りません。次からそうなさればよろしいだけです」
淡々とした口調。
リナの教科書を乱暴に掴み取るわけでも、周囲に聞こえるように笑うわけでもない。
だが、廊下の端で様子を見ていた別の生徒が、ひそひそと囁いた。
「あれ、見た? また庶民の子、注意されてた」
「本の持ち方であそこまで言う? 怖くない?」
タブレットが、小さく震える。
『イベント検知:EVENT-HALL-017「廊下での注意」
ログラベル:
・庶民奨学生へのマナー指導(公)
・噂派生タグ:「些細なことにも厳しく難癖をつける悪徳令嬢」』
ラベルの一番下に、『ざまぁ期待値:+0.03(微増)』という数字が添えられている。
俺は心の中で頭を抱えた。
「……今の、難癖っていうほどか?」
庶民出身の新人社員に、資料の扱い方を教える上司みたいなものだろう。
言い方が少し硬いだけで、中身は完全に『仕事のマナー』だ。
リナはなおも緊張しているが、その目はほんの少しだけ感謝の色を帯びていた。
「ありがとうございます。気をつけます」
「ええ。あなたが笑われるのは勝手ですが、王太子殿下のお側に立つ者が笑われるのは、学院全体の恥になりますから」
最後だけ、少しだけ厳しい。
それを聞きとがめた近くの生徒が、またひそひそと囁く。
「ああいう言い方がさ、『庶民に釘を刺す公爵令嬢』って感じなのよね」
ざわめきとログラベルが、セラフィナを『悪徳令嬢』に仕立て上げていく。
当人は、それを承知しているのかどうか。
セラフィナは一度だけ俺のほう――臨時講師アバター――をちらりと見やり、軽く会釈してから、何事もなかったように歩き去った。
その横顔には、噂で語られるような陰湿さは見当たらない。
ただ、何かをいつもと同じ角度で抱え続ける人間の、冷たい均衡だけがあった。
◇ ◇ ◇
午後の礼儀作法の授業。
ログ上では、例の「公開叱責」イベントが予定されているコマだ。
俺は教務事務補佐として教室の後方に立ち、出席チェック用の用紙を片手に様子を見ていた。
講師席には、礼儀作法担当の老教師。
教室の中央には、「代表生徒」として呼び出されたリナが立っている。
「では、エヴァンズ嬢。先日お配りした招待状――舞踏会用のものを、そのまま読み上げてみなさい」
「は、はい」
リナは紙を両手で持ち、ぎこちなく文面を読み始めた。
「『王立総合学院 春季舞踏会のご案内』……ええと、『貴殿には日頃より学院の発展にご尽力いただき』……?」
途中でつかえた。
先生が眉をひそめる。
「止まる理由がありますか?」
「すみません、『貴殿』というのが、誰に向かって言っているのか、頭の中で整理できなくて……」
教室の一部から、くす、と笑いが漏れる。
貴族の子弟にとっては当たり前の文言でも、庶民にとっては聞き慣れないものだろう。
老教師が口を開きかけたそのとき、隣の席からすっと手が上がった。
「先生、よろしければ補足をしてもよろしいでしょうか」
セラフィナだ。
教師は少し考え、うなずいた。
「ルーベンス嬢、頼みます」
「ありがとうございます」
セラフィナは席を立ち、リナと教師のあいだ――教室の前方に出てきた。
教室のざわめきが、少しだけ高まる。
「エヴァンズ嬢。今の文面を、もう一度最初から読んでいただけますか」
「は、はい……」
リナは緊張しながらも、先ほどよりスムーズに読み上げ始めた。
「『王立総合学院 春季舞踏会のご案内。貴殿には日頃より学院の発展にご尽力いただき……』」
「そこで一度、目線を上げなさい」
セラフィナの声は、よく通る。
「あなたが招待状を読むとき、その『貴殿』は誰になりますか?」
「えっと……私が読むなら、相手の方、です」
「その相手を見ずに、紙ばかり見ていては失礼です。読み上げるときは、要所で必ず相手の目を見ること。舞踏会の場で招待文を読むのは、あなたではないかもしれませんが、言葉の構造を理解しておくことは重要です」
セラフィナは、紙を持つリナの両手の位置を軽く直した。
乱暴ではない。
ただ、手首の角度、指の伸ばし方、視線の方向を、合理的に調整していくだけ。
「それから、最後の『敬具』まで一息で読み上げるのはおやめなさい。相手が息をするタイミングを失うからです。句読点の位置で、必ず一度呼吸を」
「……はい」
「あなたは今、『庶民だから招待文に不慣れ』という目線で見られています。残念ながら、それが現実です。しかし、だからこそ、基本を身につければ皆の予想を簡単に裏切ることができる」
セラフィナはそこで一拍置き、教室全体に視線を流した。
「ここにいる全員に言えますが、『貴殿』は自分一人だけを指す言葉ではありません。あなた方が招待し、迎える相手そのものです。紙に書かれた言葉ではなく、その向こう側にいる人間を想像しなさい」
しん、と教室が静まり返る。
リナは、手の中の紙を見下ろし、ゆっくりと息を吸った。
「……もう一度、最初からやってみてもよろしいですか」
「どうぞ」
今度の読み上げは、先ほどよりずっと落ち着いていた。
要所で相手を見るように視線を上げ、丁寧に言葉を区切っていく。
老教師が満足そうに頷いた。
「よろしい。ルーベンス嬢、助かった」
「いいえ。私自身、このような訓練を何度も受けてきましたので」
セラフィナはさらりと言って席に戻る。
教室の一部では、ざわざわと小さな波が立っていた。
「ねえ、今の見た? やっぱりあの人、怖いよね」
「でも、言ってることは筋が通ってない? 招待状ってそういうもんなんでしょ?」
「筋は通ってるけどさ……あの言い方で庶民の子にやる? 晒しものにしてるように見えるし」
タブレットの端に、関連ログが自動で紐づけられる。
『EVENT-CLASS-012「礼儀指導」実行ログ
・対象:庶民奨学生リナ
・指導者:セラフィナ=ルーベンス
・内容:招待状読み上げ時のマナー指導
→ラベル:庶民の公開叱責/晒し者演出(悪役令嬢テンプレ強化)
→ざまぁ期待値:+0.06』
実際の言動は、どう見ても『正当な指導』だ。
だがログに付与されるラベルは、『公開叱責』と『晒し者』。
ナラティヴァは、状況の切り取り方と噂の拡散をもとに、もっとも“ざまぁが映える”形でタグを選んでいる。
「……第2781のときは、少なくともログと現場の差は『悲劇の量』くらいだったのに」
今度は、意味づけそのものが歪んでいる。
俺は心の中で、L-13チェックリストの項目を思い浮かべた。
『被断罪者に弁明の機会はあるか』
『事前にどのようなラベリングがなされているか』
『観客の感情を煽るための演出は過剰でないか』
セラフィナは、まだ何も弁明していないうちから『悪徳令嬢』として消費され始めている。
そのことに、当人はどこまで気づいているのか。
◇ ◇ ◇
夕方。
学院の一室――奨学生制度に関する会合が開かれる小会議室に、俺は教務補佐アバターとして参加していた。
長机の上には、予算資料と成績一覧表が並んでいる。
「では、本年度および次年度の奨学生枠についてですが……」
学務主任と思しき中年の職員が、紙をめくる。
「現時点での案では、総人数を現状維持とし、予算の増額分を若干上乗せする形で――」
「失礼いたします」
タイミングを見計らったように、会議の一角から声が上がった。
セラフィナだ。
彼女は資料に目を落としたまま、淡々と手元の数字を追っている。
「総人数現状維持、予算微増――というのは、聞こえの良い案ではありますが、持続性の点でいくつか懸念がございます」
「懸念、とは?」
「はい」
セラフィナは顔を上げ、学務主任と他の出席者たちをゆっくり見渡した。
その視線は、貴族相手にも庶民相手にも、同じ距離の取られ方をしている。
「この案では、入学時点の奨学生数だけでなく、途中編入や、家庭事情の急変に伴う追加救済枠についての検討がありません。過去数年の記録を見る限り、後者は毎年一定数発生しています」
タブレットが、会議室の上空からの俯瞰ログを表示する。
『EVENT-SCHOLAR-004「奨学生制度見直し提案」
発言者:セラフィナ=ルーベンス
→ログラベル(仮):奨学生枠への不当な口出し/庶民敵視』
現場では、『不当な口出し』というより、普通に資料を読んでいるだけだ。
「途中編入や救済枠を考慮せずに、入学時の枠だけを増やすと、年度の途中で予算が枯渇し、結果的に『本来救えるはずだった者』を切り捨てることになります。それは、奨学生制度に対する不信と、学院全体への不信を生みます」
「確かに……しかし、枠を減らすのは世論の反発が」
別の教員が顔をしかめる。
セラフィナは、そこでほんの少しだけ言葉を選んだように見えた。
「枠を減らす、というより、『誰を救うのかを明確にする』必要があると申し上げたいのです」
彼女は手元の資料の一枚を指で軽く叩いた。
「現行の基準は、『成績』はまだしも『人物評』といった曖昧な項目に拠っています。これでは、推薦する側も選ぶ側も、感情に流されやすい。『かわいそうだから』『身寄りがないから』という理由だけで選ばれた者が、必ずしも奨学金を活かせるとは限りません」
会議室の空気が少しだけ重くなる。
「私は、庶民出身者を排除したいのではありません。むしろ、その逆です」
セラフィナの声に、ほんの僅かな熱がこもる。
「本当に必要な者に、本当に必要なだけの支援が届くようにしたい。そのためには、基準を明確にしなければなりません。成績だけでなく、卒業後にどのように社会に貢献する意志があるのか――そういった指標を明文化するべきです」
タブレットの別タブに、過去数年の奨学生データが自動で表示される。
卒業後すぐに消息を絶った者。
途中退学して行方知れずになった者。
逆に、地方に戻って学校を建てた者や、地方行政に関わるようになった者。
数字の上ではっきりと見えている“差”を、セラフィナは言葉で言おうとしているのだろう。
「基準を曖昧なままにしておけば、一時的には『誰かを救っている気分』になれるでしょう。しかし、やがて制度そのものが信頼を失い、結果的に誰も救えなくなります。それは、奨学金制度だけでなく、この学院の名誉にとっても損失です」
「……ルーベンス嬢の言いたいことは分かります」
学務主任がゆっくりと頷いた。
「ただ、そういった『卒業後の貢献』まで含めた基準作りとなると、王宮とも相談が必要になりますな」
「もちろんです。そのためにも、まずは学院内で案を整える必要があると考えています」
会議室の空気は、さっきよりは建設的なものに変わっていた。
少なくとも、この場にいる誰もが、『庶民に学ぶ資格はない』という話をしているわけではない。
にもかかわらず、タブレットのログラベル欄には、こう表示されている。
『ログラベル補足:
・庶民の感情より制度の維持を優先
・奨学生枠縮小提案(と解釈される余地)
→噂派生タグ:「庶民に学ぶ資格はないと考えている冷血令嬢」』
「解釈される余地って、お前……」
俺は思わず画面にツッコミを入れた。
ナラティヴァからのコメントが、淡々と追記される。
『コメント:
当該発言群は、「悪役令嬢が奨学生制度に口出ししている」という噂の構成要素として有用です。
庶民側の感情ログにおいて、「冷たい」「怖い」「自分たちを見下している」といった印象が蓄積されることで、断罪イベント時のざまぁRSIが向上する傾向があります。』
「有用じゃない」
低く呟いた言葉は、もちろん誰にも聞こえない。
ここまで見れば、はっきりする。
セラフィナは、噂で語られているような『庶民をいじめて楽しんでいる悪徳令嬢』ではない。
礼儀を重んじ、構造を気にして、制度の持続性を考えているだけだ。
その言い方が冷たく見えることもあるだろうが、それは『悪意』とは別の問題だ。
しかし、物語システムは、彼女のそうした性質を、都合よく『悪役令嬢』に再解釈している。
廊下での注意は『難癖』になり、授業での指導は『公開叱責』になり、奨学金についての現実的な提案は『庶民排除』になる。
全部、断罪イベントで『ざまぁ』するための前説として。
「……第2781のときは、『悲劇の量』が問題だった。 ここでは、『意味づけ』そのものが最初から歪んでるってことか」
エリナの名前を、俺は村に戻って初めて知った。
ここでは、セラフィナの名前は最初から知られている。
その上で、『悪役』としてしか語られていない。
俺がここで赤ペンを入れる相手は、たぶん彼女自身じゃない。
彼女を悪役に仕立て上げるためのログラベルと噂構造だ。
会議室の窓の外で、夕暮れが学院の尖塔を朱に染め始めていた。
その光の中で、セラフィナ=ルーベンスは、淡々と予算表に目を落とし続けている。
自分自身が、どんなラベルで語られているかを知りもしないまま。
「……悪役令嬢の“実像”をログに残すのも、監査官の仕事ってことで」
誰にともなくそう呟き、俺は端末にメモを追加した。
『内部メモ:
第4502ラインにおけるセラフィナの行動は、現状のログラベルと大きく乖離。
断罪イベント前に、L-13様式を用いた実態把握が必須。
可能なら、彼女自身に“役割”を自覚させる前に、別の選択肢を提示すること。』
噂と実像のギャップが、大きく開ききってしまう前に。




