ガラスのプライド
ガラスのプライド
俺の名前はヒロト。埃っぽいライブハウスの薄暗い片隅で、今日もギターを掻き鳴らしていた。報われない焦燥と、誰にも理解されない、孤高のプライド。それが、俺の全てを覆う、重い影だった。誰の力も借りず、この歌だけで、この世界を震わせてやるんだと、そう信じながら。
「ヒロト、お前の歌は、人を殺せるくらい強い」
師匠であるケンジさんは、そう言って俺の肩を叩いた。かつて時代を席巻した伝説のロックスター。俺の才能を誰よりも早く見抜き、拾い上げてくれた恩人だ。師匠のライブの前座も務めさせてもらった。それでも、俺はブレイクできなかった。
そんなある日、テレビの画面でナツキを見た。俺と同じくらいの歳で、同じようにギターを弾く。だが、彼が立つのは、地上波のゴールデンタイムだった。親が大物プロデューサーだという話は、耳にタコができるほど聞かされていた。
「あいつはごり押しだ。実力もないくせに」
俺はテレビを睨みつけ、毒づいた。自分の努力が報われないのは、きっとナツキのような「偽物」がいるからだ。そう考えることで、俺の胸に渦巻く不公平感と、報われない苛立ちを、どうにか正当化しようとしていた。
数日後、師匠の稽古場で、俺はナツキに対する不満をぶちまけた。
師匠は、何も言わなかった。
ただ、静かに俺の言葉が終わるのを待っていた。 その沈黙は、俺の荒い息遣いを吸い込むように、部屋全体を支配した。 …長かった。
やがて、師匠は静かに言った。
「ヒロト、使えるものは使え。俺の名前でも、踏み台にしてくれていい。」
俺は、悔しくて言葉が出なかった。胸の中で、ガラス細工のように精巧に作られた俺のプライドが、パリィンと音を立てて砕け散る。その破片は光を反射し、俺の目を眩ませた。
「師匠の名前を使って売れても、嬉しくないです!」
絞り出すようにそう叫んだ俺の言葉に、師匠は動じなかった。師匠は、俺のその言葉をじっと聞いて、その瞳の奥に、俺の未来を見通しているかのように、真っ直ぐに俺を見て言った。
「いいかヒロト、才能だけでは生き抜けない時もある。お前の歌を、もっとたくさんの人に聞かせてやれ。そのための道が俺の名前を使うことなら、喜んで使ってくれ。お前が本当に実力でトップを獲るなら、その踏み台はいくらでも高くなるんだ。」
師匠の言葉は、俺のプライドを打ち砕き、同時に、俺の心を深く揺さぶった。俺は、初めて自分の意地が、どれだけちっぽけで、そして自分の才能を狭めていたかを知った。師匠は、俺の歌が、俺自身が思っている以上に、多くの人々に届くべきだと信じてくれていたのだ。
師匠の名前を借りて、俺は再びテレビの舞台に立った。
「あの伝説のロックスター、ケンジが認めた新人」
人々は、俺に注目した。同時に、一部からは「ごり押し」「親父さんのコネか」といった声も聞こえた。かつての俺なら、その言葉に激しく反発しただろう。だが、今の俺は違った。俺はもう、誰かの評価のために歌うのではない。これは、俺の歌を届けるための、師匠がくれた最高のチャンスなのだ。
俺は、マイクを握り、心の底から歌った。使い古したギターのネックが、汗で滑りそうになる。弦を強く掻き鳴らすたびに、指先が熱く軋んだ。その歌は、俺のこれまでの努力、挫折、そして師匠への感謝の気持ちが詰まった、俺の全てだった。親への反骨心、報われない苛立ち、そして、それでも歌い続けた情熱。それらの「負の感情」を、俺は初めて、力に変えることができた。
歌い終わった後、会場は一瞬の静寂に包まれた。
…誰も、何も言わない。
俺の胸の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。
そして、やがて一つ、また一つと、乾いた拍手の音が会場に響き、それが次第に嵐のような轟音へと変わっていった。その拍手は、師匠の名前への拍手ではなく、俺の歌への、俺自身への拍手だった。熱狂は、SNSを通じて瞬く間に広がった。
俺は、その日のライブハウスで、ナツキと再会した。
「……参ったよ」
ナツキは、それだけを言って、静かに会場を後にした。 俺の胸に、かつて抱いていた嫉妬や嘲りの残骸が、雪のように溶けていくのを感じた。
俺は、師匠の力を借りて、ようやくスタートラインに立つことができた。 ライブハウスの暗闇は、もう怖くない。 **俺のプライドは、もう孤高ではない。**それは、誰かの力を借りてでも、自分の歌を遠くまで届けるための、力強い原動力なのだ。
俺の物語は、ここから始まる。ごり押しという「きっかけ」を、俺は俺自身の歌で、確かな「現実」に変えていく。