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星に願いを

作者: 里見 知美

 私は、幼い頃から病に伏せがちであった。


 広い屋敷の中にいても、外に出ることはめったになく、日々は閉ざされた部屋と限られた庭だけで過ぎていった。


 それでも私には一つだけ救いがあった。――書物である。


 父が集めた学術書や古い伝承の巻物を読み耽り、知らない世界に心を遊ばせた。空の彼方を描いた星図を見れば、私もその場所へ行けるような気がした。現実には、私の身体は長い階段すら登ることが難しかったけれども。


 その私に、ある日ひとりの青年が訪れた。


 彼の名はフレドリック。父の援助を受けて、天体観測の研究をしている学者であった。


 最初に会ったとき、彼はまっすぐに私を見て、深々と礼をした。


「エリカ様、私はフレドリック・ベルドールと申します。このたび閣下のご厚意により、研究を進めさせていただくこととなりました」


 彼の声は澄んでいて、けれどどこか夢見るような調子を帯びていた。

 父は彼の才を惜しみなく称え、私にも紹介したのだ。病弱な娘にとっては退屈しのぎになるだろうと。その裏には、そう長くはない娘に少しでも年頃の感情を味合わせてやりたいという親心もあった。


 フレドリックは、伯爵家の庶子で養子に迎え入れられたものの、上に兄弟がいるらしく、家には居場所がない。伯爵の温情でせめて立身出世ができるよう学院に通っていたところ、天文学にのめり込んだ。そして幸いなことに、その才が芽吹き、エリカの父であるエッサーノ公爵の琴線に触れたらしい。


 その日から、私たちはよく顔を合わせるようになった。

 彼は望遠鏡を組み立てる方法を話してくれたり、星座の神話を教えてくれたりした。私はそれを聞くのが楽しくて、自然と笑みがこぼれた。


 彼が驚いたように私を見つめ、少し頬を赤らめて目を逸らしたのを、私は忘れられない。

 その瞬間、私は自分の心臓が普段よりも力強く打つのを感じた。


 日が経つにつれ、彼との会話は私の一日の大きな喜びとなった。

 病は私から多くのものを奪ったけれど、彼と過ごす時だけは、私は生きていることを誇らしく思えた。


 私とフレドリックは名を呼び捨てにするほど関係が深まった頃、彼は私を庭へと誘った。

 夜気は冷たく、私は少し震えたけれど、彼がそっと外套をかけてくれた。

「見てごらん、エリカ」

 空には、数え切れぬほどの星々が輝いていた。


「人はみな、空を見上げて夢を描く。けれど私にとって、夢は星そのものではない。私は、その輝きをもっと近くで、もっと正確に見たいのだ」


 そう言って彼は目を輝かせた。その瞳に映るものは、星であり、未来であり、そして――その片隅に私もいたのだろうか。


 私はただ、そばにいたいと願った。彼の夢を支える存在でありたいと。

 身体は弱くても、知識を共有し、彼の語る理想に耳を傾けることくらいはできる。そうすれば、私は彼にとっての重荷ではなく、共に歩む伴侶になれるのではないかと信じた。


 父は、私の願いを知ってか知らずか、彼に研究費を惜しみなく与え続けた。

 そのうちに、自然と私とフレドリックは婚約することとなった。


 私は幸福であった。

 彼が私の手を取って微笑むとき、この命が短くとも悔いはないと思えた。





 ――けれど、幸福の日々は長くは続かなかった。



 その日、私の前に現れたのは、夜の帳のように黒い瞳を持つ少女だった。


 彼女は王都の広間でもなく、街角でもなく、よりによって私の屋敷の庭に現れた。

 病弱な身の私にとって、庭に出られることは唯一の楽しみであり、フレドリックと星を語り合った場所でもあったのに。


 ――侵入者。そう言えば良かったのだろうか。けれど彼女は毅然として、私を見下ろした。


「あなたが……エリカ様ですね」


 涼やかな声。どこか見透かすような響き。


 彼女の名は人々から聞いていた。異世界からの召喚者、未来を見通す少女。今や王子の婚約者に選ばれ、誰もが彼女を称賛していた。だからだろうか。父も彼女がここへ来ることを拒まなかったのは。誰も引き止めることをしなかったのは。


 私の胸はざわめいた。フレドリックが語る研究の話題を、彼女はきっと深く理解できるだろう。私にはできないことを、きっと彼女は自然にできてしまうのだから。


「……わざわざ、ここまで何の御用かしら」


 震える声を隠そうと、私は視線を逸らした。


「エリカ様。いいえ……“絵梨花”さん」


 その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 ――白い天井。

 ――機械の規則的な音。ピッ、ピッ、ピッ。

 ――泣き崩れる母の声。「この子を、どうか……」

 ――やせ細った腕に刺さる管。


 なぜ、そんな映像が脳裏に浮かんだのか。私は理解できずに瞬きを繰り返した。


「あなたがこの世界に割り込んできたことは、わかっています」

「……何を、言って……」


 声が震え、喉がひりつく。


「本来ならば、公爵家の娘エリカ嬢は幼い頃に病で命を落としていた。あなたは別の世界から来た“異物”。その魂がこの肉体に憑き、彼女を生きながらえさせたのです」


 ――また、記憶が差し込む。


 カーテン越しの陽光、漂う消毒液の匂い。

 窓際に置かれた一冊の本。『星に願いを』と金文字で刻まれた装丁。

 それを抱きしめながら、私はいつも願っていた。――「恋をしてみたい」と。


「違う……私は、私よ」

 声にならない声を吐きながら、私は胸に手を当てた。


 フレドリック。

 彼の笑顔も、温かな声も、私のすべてだった。

 それが幻だというのなら、私は……。


「彼を惑わせるのは、やめてください」


 少女の言葉は、氷の刃のように私の胸を貫いた。


「惑わせる……?」

「あなたが存在する限り、フレドリック様は本来の未来に進めません。彼の才覚も、彼の幸福も……あなたが奪っている」


 私は唇を噛み、彼女を睨み返した。

 けれど、その黒い瞳は微動だにせず、私をただ真実として突き放す。


 ――カシャリ、と何かが軋む音がした。

 私は反射的に振り返った。

 そこは庭ではなかった。

 白い壁、閉じられたカーテン、鼻を突く薬品の匂い。


 私はベッドに横たわっていた。

 細い腕には点滴の管が刺さり、心電図の音が耳を打つ。

 ピッ……ピッ……。


 「絵梨花、しっかりして……!」

 涙声。母の声。

 私は返事をしようとするのに、喉が塞がれて声が出なかった。


 次の瞬間、庭に戻っていた。

 震える手を膝の上に置き、私は呼吸を荒げていた。


「……いま、私は……」


 少女は淡々と告げる。

「この世界に存在するはずのなかった人。彼に愛されることも、幸福を得ることも、許されてはいないのです」


「そんなこと……!」

 否定の言葉は、喉の奥で崩れ落ちた。


 ――もし本当に私が“死ぬはずの少女”であったなら。

 ――もしこの命が、本来は存在しないものだとしたら。


 フレドリックの笑顔が、優しい手のひらが、私の中でひどく遠ざかってゆく。


 私は息をのみ、胸に手を当てた。

 そこに確かに鼓動はある。

 けれどその鼓動は、私自身のものではなく、誰かから借りた時間のように思えた。


「お願いです、絵梨花さん」

 少女は静かに言った。

「彼を解き放ってください。あなたがいなくなれば、彼は本来の未来を歩める」


 その瞬間、私の脳裏にまた映像が閃いた。


 暗い病室。

 カレンダーに赤く印がついている。「余命半年」――震える文字。

 ベッドサイドに置かれたノート。そこには震える字でこう書かれていた。


 ――“もし生まれ変われるなら、恋をしてみたい”。


 私は膝を抱え込んだ。

 それが私自身の記憶なのか、誰か別の少女の願いなのか、もう分からなかった。


「……彼から、未来を奪って……」

 嗚咽が喉から漏れ、言葉はそこで途切れた。


 少女はなおも冷静な瞳で私を見据えていた。








 翌朝、私はいつも通りにフレドリックを迎えた。

 彼は明るい笑顔を浮かべ、昨日までと変わらぬ声で私の名を呼んだ。


「エリカ、今日も顔色がいいね。新しい薬草を試してみたんだ。少しは効いているのかもしれない」


 彼の声を聞くだけで、胸が温かくなる。

 その温もりにすがりつきたいのに――。


 ――“あなたは存在してはいけない”。

 召喚者の言葉が、冷たい刃のように私の心を裂いていた。


「ええ……きっと、効いているのね」

 私は微笑みを作った。震えを悟られないように。


 フレドリックは私の手を取り、机の上に広げた資料を示した。星図、記録帳、そして彼自身が夜ごと観測して記したメモ。


 彼は夢中で語った。星々の軌道、季節ごとの変化、まだ誰も見ぬ“新しい星”について。


 私はただ頷く。

 半分も理解できていないのに。

 でも、彼が幸せそうに話すその姿を、私は永遠に胸に刻みたかった。


 ――けれど。


 ふと視界が揺らぎ、目の前の景色が溶けていく。


 白い天井。

 機械の無機質な音。ピッ、ピッ、ピッ。

 管に繋がれた腕。

 テーブルの上に置かれた星の本。『星に願いを』。


 私はかすれた声でつぶやいていた。

「……恋をしてみたい」


「エリカ?」

 フレドリックが心配そうに覗き込んでくる。


 私は慌てて微笑みを作り直した。

「ごめんなさい、少し夢を、思い出していたの」


 夢。

 そう言い聞かせるしかなかった。

 どちらが夢なのか、私にはもう分からなかったから。


 フレドリックはそれ以上問い詰めず、優しく手を握ってくれた。

 その温かさに胸が痛む。


 ――私は、彼の未来を奪っているのだろうか。

 ――私がいなければ、彼はもっと輝かしい未来を歩めるのだろうか。


 召喚者の冷たい声が耳に蘇る。

 『あなたは異物。彼の幸福を奪っている』


 けれど私の心は叫んでいた。


 ――それでも、私は彼を愛している。

 ――彼と過ごすこの時間が、何よりも大切なのだ、と。


 矛盾した思いが胸を締めつけ、息が苦しくなる。

 私は俯き、彼の視線から逃げた。


「……ごめんなさい。今日は少し休ませて」

 そう告げて、私は寝台に身を横たえた。


 フレドリックは静かに頷き、毛布をかけてくれた。

 彼の手が離れていく感触を、私は必死に引き留めたかった。

 けれど声にはならなかった。


 毛布の下で、私は静かに涙を流した。

 この涙を見せてはいけない。

 彼に心配をかけたくない。


 でも――心の奥底で、私は知っていた。

 この愛は、きっと長くは続かないのだ、と。






 夜の庭は、月光に白く照らされていた。


 私はひとり、石畳の上に座り込み、夜空を仰いでいた。

 フレドリックは奥の書斎で研究を続けている。彼の邪魔をしたくなくて、私は静かに外へ出てきたのだ。




「まだ、この場所にいるのですね」


 あの声がした。

 振り返ると、闇の中に例の少女――召喚者が立っていた。

 その瞳は前と変わらず、黒曜石のように冷たく光っている。


「どうして……また」

「あなたが決断をしないからです」

 彼女は淡々と言った。


「決断……?」

「去るのか、残るのか。それを。もう、あまり時間がない。あなたがこの世界に存在する限り、彼は鎖に繋がれたまま、そして未来が変わっていく」


 私は言葉を失った。

 少女は一歩近づき、囁くように続けた。


「彼は本来、王都で重用されるはずでした。学者として、天文官として、国の未来を担うはずだったのです。しかしあなたに心を奪われ、いまや彼の目は狭い世界に閉じ込められている。――それは幸福だと思いますか?」


「……でも、彼は笑っているわ、それは、幸せではないとあなたはいうの?」

 私は必死に言い返した。

「私といるとき、彼は確かに笑っているの」


「それは一時の幻想です。あなたが消えれば、彼は立ち上がり、未来へ進むでしょう」


 少女の声が遠のき、代わりに耳の奥に別の音が鳴り響いた。


 ピッ……ピッ……ピッ……。

 規則的な電子音。

 私は病院の白いベッドにいた。

 酸素マスクが頬に当たり、息をするたびに管が揺れる。

 枕元には星の本。そして、書きかけのノート。


 ――“もし生まれ変わったら、恋をしてみたい”。


 指先が震える。涙で文字が滲む。

 母が手を握りしめていた。

「絵梨花……どうか、まだ……」


 息が詰まる。

 その瞬間、再び月光の庭に戻されていた。


 私は両手で顔を覆った。

 どちらが真実なのか、分からない。

 私が「絵梨花」なのか「エリカ」なのか、それすらも。


 召喚者は冷たく告げる。


「あなたが愛しているのは、記憶に残る虚像。本来の彼の未来を奪う行為に等しいのです」


 私は震える声で答えた。


「……それでも。それでも私は、彼を愛している」


 少女の表情は揺るがなかった。

 ただ、深い沈黙ののち、ひとつの言葉を落とした。


「愛とは、時に残酷ですね」


 その言葉を最後に、彼女の姿は月光の中に溶けて消えた。


 私は石畳に崩れ落ち、静かに泣いた。

 フレドリックの笑顔を思い浮かべながら。

 私の心は引き裂かれていた。


 その夜から、私はフレドリックを避けるようになってしまった。

 彼に会えば心が揺らぎ、召喚者の言葉が耳に蘇る。


 「あなたが奪っている」――その囁きが、刃のように突き刺さるのだ。


 だが、フレドリックは決して私を疑わなかった。

 むしろ以前にも増して優しく、気遣いを惜しまなかった。


「エリカ、今日は一緒に外を歩こう。ほら、庭の花が咲き始めている」

 彼は私の手を取り、無理にでも外へ連れ出す。


 初夏の風が頬を撫で、白い小花が風に舞った。ジャスミンの香りと、オレンジの花の香りが入り混じり、あたりは甘いそよ風に溢れている。


 涼やかな虫の音。カエルの鳴き声に、梟の静かな囁き。風に揺れる葉擦れの音。空には瞬く星々の営み。隣には柔らかいフレドリックの笑顔。


 全てが愛おしく、これほど美しい世界を、私は本当に享受していいのだろうか。


「見てごらん」


 フレドリックは私の肩に手を置き、遠くの空を指差した。

「星々が次の季節へ移ろい始めている。君と見るからこそ、僕はこの景色をこんなにも鮮やかに感じるんだ」


 彼の言葉はまっすぐで、曇りがなかった。

 私はうつむき、声を絞り出した。

「……フレドリック。もし、私がいなくなったら?」


 彼は一瞬きょとんとし、それから真剣な顔で私を見つめた。


「そんなことは考えたくない」

「でも……」

「エリカ。僕は君と共にいることを選んだんだ。君がどう思おうと、僕は最後の瞬きの瞬間まで君の傍にいる。それだけは変わらない」


 胸が焼けつくように熱くなる。

 この人を、私は――本当に、愛している。


 だが同時に、私の内側に黒い影が広がっていった。


 ――もし、私が消えることで彼が未来を得られるのなら。

 ――そのほうが、きっと彼は幸せなのではないか。


 私は笑顔を作りながら、その思いを心の奥深くに押し込めた。


 その夜。

 彼が眠りについた後、私は窓辺に立ち尽くしていた。

 満天の星々が瞬いている。

 それはかつて病室で何度も読み更けた小説の表紙と、まったく同じだった。


 白い病室の天井。

 人工呼吸器の音。

 そして、枕元で必死に私の名を呼ぶ母の声。


「絵梨花、お願い……戻ってきて……」


 その声が心を突き破り、涙が溢れた。

 私は唇を噛み、誰にも聞こえないように囁いた。


「――私は、どうすればいいの……」








 エリカが時折、遠くを見るようになったのは、あの夜を境にしてだった。

 庭で彼女を見つめていると、彼女は笑顔を浮かべてはいるが、その瞳の奥は私を見ていない。私を通して、どこか遠くを見つめているようで。


 ――まるで、いつかどこかへ消えてしまうのではないか。


 そんな不安が、日に日に強くなっていた。


 私は学者であり、理性を頼みに生きてきた。

 星の運行を計算し、天体の動きを記録し、未来の暦を読み解く。

 世界は秩序と理に従って動いている――そう信じて疑わなかった。


 だが、彼女だけは理で測れない存在だった。


 彼女の微笑みひとつで胸が熱くなり、涙の影を見ると心臓が裂けそうになる。

 この想いを言葉にすれば、すぐに壊れてしまいそうで、私はただ黙って彼女を見つめるしかなかった。


 あの夜、彼女が言った言葉が忘れられない。

「……もし、私がいなくなったら?」


 なぜそんなことを言うのか。

 なぜ自分がいなくなる未来を想像するのか。まさか病が進行しているのだろうか。

 私は恐ろしくなった。


 彼女のことを失うのが怖かった。

 それは理性では説明できない。

 ただ、彼女がいなければ私の世界は色を失う。それだけは確かな真実だった。


 私は自分に言い聞かせた。


 ――守らなければ。


 彼女が何をそんなに恐れているのか。どこへ行こうとしているのか。そんなことは関係ない。私が彼女を捕まえて離さなければいい。


 たとえ運命が彼女を連れ去ろうとするのなら、私は抗う。


 そう決めたはずなのに。


 夜、彼女が窓辺で星を見上げる姿を見たとき、胸の奥に小さな恐怖が芽生えた。

 その横顔は、宇宙の星のようにあまりにも遠くて、美しくて――。

 まるで、すでに私の手の届かない場所にいるかのようだった。


 私は彼女の肩を抱き寄せたくて、一歩踏み出しかけた。

 けれど、その背にかける言葉が見つからなかった。

 ただ静かに、彼女の存在を確かめるように、遠くから見つめ続けることしかできなかった。


 ――エリカ。どうか、どこにも行かないでくれ。


 その願いだけが、胸の奥で熱を帯びて燃えていた。


 その日、中庭には穏やかな陽光が満ちていた。

 私は研究室にこもるのをやめ、エリカを誘って散歩に出た。


「ほら、見てごらん。金木犀の花がもう咲いている」

「ほんとだ……可愛い花」


 エリカは花に手を伸ばし、小さな花弁をそっと撫でた。

 指先にふれた一瞬、てんとう虫が彼女の指先にとまった。

 その光景に彼女は子供のように目を輝かせ、私はただ見惚れていた。


 ――彼女が笑うと、この世界はなんて優しくなるのだろう。


 私たちは庭を抜け、庭園を横切る小川へ向かった。

 水面には最後の夏の光が揺れ、鳥のさえずりが響いていた。

 エリカは靴を脱ぎ、水に足を浸した。

「冷たい……でも気持ちいい」


 彼女が足先で水を跳ね上げ、光の粒が宙に散った。

 私は思わず笑ってしまい、その笑みにつられるように彼女も笑った。


 こんなひとときが、ずっと続けばいい。

 研究も未来も、すべてを投げ出しても構わない――そう思った。


 けれど私は気づいてしまった。

 彼女が時折見せる、あの「遠い目」を。

 この世界に完全には属していないかのような、その寂しげな横顔を。


「エリカ」


 私は声をかけ、彼女が振り返る。

 光に包まれたその姿は、まるで夢のように儚い。


「……君といると、私は世界の真理なんてどうでもよくなる。君の笑顔さえあれば、それでいい」


 言葉が自然に口から零れ落ちた。

 エリカは目を瞬かせ、それから困ったように微笑んだ。


「そんなこと言われたら……私、どんどん欲張りになっちゃう」

「欲張りでいい。私は君にすべてを捧げたい」


 その瞬間、彼女の瞳が揺れ、涙が光った。

 私は慌てて手を伸ばす。


「どうしたんだ、エリカ?」

「……なんでもない。ただ、幸せすぎて怖いだけ」


 私は彼女の手を強く握りしめた。


「怖がることはない。私が君を守るから。私に全てを委ねてほしい」


 彼女はうつむき、けれど小さく頷いた。

 その頷きが、私の胸を熱くした。


「愛してる、エリカ。この世の何よりも君を」


 小川のせせらぎ、花の香り、風の温もり。

 世界のすべてが祝福しているように思えた。


 ――けれどその幸福の背後に、見えない影が忍び寄っていることを、私たちはまだ知らなかった。





 その夜、私は寝付けなくてベッドから這い出した。廊下に出ると、フレドリックの研究室の扉からはまだランプの光が漏れていた。


「まだ、起きているのね。研究が捗っているのかしら……」


 今彼が熱中しているのは、新しい天体望遠鏡の構造だ。家にあるものよりもっと大きな望遠鏡があれば、もっと遠くの星も発見できると言っていた。父も期待に大きく後押しをしている。


 私が理解していようといまいと、彼の研究は進んでいき、遠い宇宙の星までも見つけようとしている。私の小さな悩みなんか、きっと星のかけらほどもなく。


 私が、たとえ明日いなくなったとしても、きっと――。


 突然、重く、冷たい風が吹き込み、燭台の炎が揺れる。

 私はすぐにそれが自然の風ではないと悟った。


 次の瞬間、床に紋様が浮かび上がった。古代の言語で描かれた召喚陣が光を放ち、その中心から黒衣の人影が立ち現れる。


「……誰……?」


 男は静かに微笑んだ。

「やっと見つけた。エリカ……いや、“絵梨花”」


 私の心臓が強く打った。

 絵梨花――それは、私がこの世界に来る前の名だ。病室に縛られた、私の。


「帰ろう。お前の場所は、ここではない」

 男の声は冷たくも優しくもあった。命令のようでいて、懇願のようでもあった。この男を、私は知っている。なのに思い出せない。なぜか懐かしいような、恐ろしいような。


 

 そこへ、フレドリックが研究室から飛び出してきた。異常な事態に気が付いたのに違いない。


「エリカ!」


 フレドリックは直様、私を庇うように男との間に立ち塞がった。







 エリカは震えていた。

「……私は、帰れない。帰ったら……」


「帰らなければ、この世界が崩壊する」


 男の言葉が広間に響く。



――帰る?どこへ、いくつもりだ。どこへ私のエリカを連れていくつもりなんだ?この男は一体誰だ!


 私はエリカを抱きしめて、思わず前に出た。


「貴様は誰だ!ここが公爵邸だと知っての侵入か!」


 黒衣の男の目が、私を鋭く射抜く。

「お前にはわからないだろう。彼女の存在が二つの世界を裂こうとしていることを」


「何の話をしている? 彼女はここで生きている! この世界で――私と!」


 叫びながら、気づいていた。私の声はかすれていた。心の奥で、奪われる未来を恐れていた。この男が、エリカを私から奪っていくのだ。だが、例えそれが死神だろうと、召喚者であろうとエリカは渡さない。



 緊迫した空気を破ったのはエリカだった。


「……フレドリック」


 私を見上げた彼女の瞳が、涙に濡れていた。


「私、あなたと過ごした時間が、本当に幸せだった。だけど……」


 その「だけど」の後に続く言葉を、私は聞きたくなかった。


「行かないでくれ!」

 思わず彼女の手を強く握りしめた。

「君がいなければ、僕の世界は崩れる。理も真理も、すべて色を失う!」


 彼女は震える唇を噛みしめ、私の手を握り返した。

 その力は、私を拒むものではなく、必死に想いを伝えようとするものだった。


「私だって……本当は行きたくない。あなたと、ここにいたい」

「なら――」

「でもね、フレドリック。私、思い出してしまったの。現実の私が、どんな終わりを迎えるのかを」


 彼女の瞳に、別の世界の記憶が閃く。

 病院の白い天井。消えていく鼓動。泣き崩れる誰かの影。死に抗い、未練を残した。


 ――彼女は、この世界に“迷い込んだ魂”だった。


「私がここにいるのは、本当は間違いなの。あなたを愛してしまったことも、間違いなのかもしれない」


「違う!」


 私は叫んだ。


「間違いなんかじゃない! 私の心がそう証明している!」


 必死な私をよそに、無情な男の声が響く。


「時は尽きた。選べ、エリカ」


 3人の間に緊張が走る。


 彼女は震える指先で私の頬に触れた。

 その温もりを、私は必死に記憶しようとした。


「フレドリック。あなたに出会えたことは、私の奇跡だった」


 彼女の瞳がまっすぐに私を射抜く。

 その表情に、すでに答えが刻まれていることを、私は悟ってしまった。


 彼女の手が、私の頬に触れていた。

 その温もりは確かで、あまりに優しかった。あまりに愛おしくて、狂いそうだ。


「フレドリック。ありがとう。あなたと過ごした日々は、夢みたいに幸せだった」


 エリカの声は震えていた。だが、その瞳は澄んでいて、決意に満ちていた。


「待ってくれ。ダメだよ、エリカ、行かないでくれ」


 私は子どものように縋った。


「君がいなければ、私は……」


 言葉が途切れる。胸が押し潰され、声にならなかった。


「あなたなら、大丈夫」


 彼女は儚げに微笑んだ。


「だって、あなたは真理を探す人。私と出会う前から、あなたの道はあった。私に出会って、ほんの少し色づいただけ……でも、その色はずっと、あなたの中に残る」


 そう言いながら、彼女は私の手をそっと離した。

 その指先が滑り落ちる感覚に、温もりが遠ざかっていくのに、私はどうしても抗えなかった。


 彼女の姿が、光に溶けるように淡くなっていく。


「いや、いやだ……!行くな、私を一人残して」


 私は必死に手を伸ばした。

 けれど掴めない。指の間から砂のように零れ落ちる。


 その瞬間、彼女が小さく囁いた。


「絵梨花、という名前を、覚えていて」


 次の瞬間、光が弾けた。

 広間には、私ひとりが取り残されていた。








 沈黙。

 心臓が軋み、胸の奥が空洞になったようだった。


 何もない空間を、私は見つめ続けた。

 星屑の残像のようなものが空気中に漂う。

 ただ、わずかに温もりだけが残っているような気がした。


「私は、ここで何を……?」


 膝が崩れ、私は床に座り込んだ。

 涙が視界を濡らす。

 けれど私は泣き叫ばなかった。ただ、胸にぽっかり空いた穴を抱えながら、静かに涙を流した。


 とても大事なものを、無くしたような喪失感。

 張り裂けた心が悲鳴をあげているのに、理由がわからない。


「なぜ、私は泣いているんだろうか……」


 夜空は限りなく澄み渡り、秋の風が観測所の窓をすり抜けていく。

 フレドリックはひとり、磨きあげたばかりの天体望遠鏡に手を添えていた。


 ――見せてやりたかったな。


 その思いは言葉にならぬまま胸を焦がす。隣にいるはずの人影を探して、無意識に視線を横へと向ける。そこに椅子はある。けれど、誰もいない。


 レンズをのぞけば、そこには織りなされた無数の星座。光の網の目の中に、小さな光が二つ寄り添うように瞬いていた。


 どうしてだろう。

 その配置を見た瞬間、胸の奥に切なさが走った。


「……エリカ」


 声が零れる。だがすぐに、自分でも首を振る。


 出資者の公爵家には、かつてエリカという名の令嬢がいたと聞いた。だが、彼女は体が弱く、十歳に満たないうちに儚くなってしまった。病気になる前の肖像画が大広間に飾ってあり、その画を見るとぎゅっと心が掴まれる気持ちになる。


「公爵も、もしエリカ嬢が生きていたら、この研究成果を喜んでくれたに違いないと言っていたから、かな」


 誰かが確かにそこにいた。弱く儚い身体でありながら、自分の夢を信じ続けてくれた人。静かに、けれど温かく支えてくれた人。


 名を呼んだはずなのに、次の瞬間、別の響きが脳裏をぎる。


 ――絵梨花。


 どこで聞いたのかもわからない名。だが、確かに心の奥で反響する。

 光をたたえた夜空を見上げるほどに、その二つの響きがひとつに重なり、形を持たない面影となって胸を締めつけていく。


 フレドリックは目を閉じ、深く息を吐いた。


 思い出せなくてもいい。顔も、声も、記憶のすべてが霧に包まれていたとしても。


 ――愛したという気持ちだけは、確かに残っている。


 それは星座の輝きのように、たとえ薄れても夜空に刻まれ続けるもの。


「どうか……あなたが幸せでありますように」


 小さな祈りを夜空へ託す。

 その瞬間、一筋の流星が走った。尾を引く光はまるで誰かの涙のように儚く、しかし確かに彼の祈りを運んでゆくかのようだった。


 フレドリックは目を開き、ゆっくりと微笑んだ。胸の痛みと共に、あたたかな何かがそこにあった。

 彼は知らない。けれども、遠い場所でひとりの少女が同じ願いを最後に抱きしめて眠りについたことを。


 星々の下、ふたりの祈りは重なり合い、永遠に夜空を巡り続けるのだった。









 ――まぶしい光に包まれて、私は目を覚ました。


 聞き慣れた機械音。消毒液の匂い。

 視界に映るのは、白い天井だった。


 病室。

 ああ、現実に戻ってきてしまった。


 手は点滴につながれ、身体は思うように動かない。

 それでも胸の奥に、確かな温もりが残っていた。

 彼の手の感触。

 彼の瞳に映る私の姿。

 ――そして、彼の声。


『絵梨花』


 涙が零れた。

 夢だったのかもしれない。

 けれど、あまりにも鮮やかすぎる。


 私は唇を震わせながら、声にならない言葉を呟いた。


「……フレドリック」


 その名を呼んだ瞬間、胸の痛みが和らいだ気がした。

 世界は儚く、私の命ももう長くはないだろう。

 それでも――彼と過ごした日々が確かにあった。


 それが、私のすべてだった。


 薄れる意識の中、私は静かに目を閉じた。

 最後に見えたのは、あの春の光の中で微笑む彼の姿。


 私は微笑んでいた。

 彼に出会えた奇跡に、心からの感謝を込めて。





 姉の死を前にして、母は泣き崩れた。10年の闘病生活の後だったから、諦めもあっただろうけど、それでも自分の娘が先に死んでしまうのは辛いものがあるのだろう。


 かわいそうな絵梨花のために、と私は小説を書いた。姉を主人公にして、星の好きなフレドリックという青年と恋に落ちる話だ。姉は夢中になって何度も読み返し、実際に恋に落ちた。


 絵梨花の最期は、穏やかなものだった。とても幸せそうな顔をしていたから、きっと縛られるものがなくなってフレドリックの元に飛んで行ったに違いない。


 神とか奇跡とか信じたことはないけれど、願わくば、あの可哀想な姉が来世で幸せでありますように。


Fin.

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