9.森宮椎凪を好きになった日
初めて椎凪と話したのは、まだ入学してしばらくの頃。
中学でもうんざりしてたのに、高校に入ってからも相変わらず知らない奴から告白される。
その日はひどいと泣かれた。ひどいのはどっちだ。俺のこと外見だけで判断したお前はひどくないのかと、言ってやりたいくらいイライラしていた。
むしゃくしゃしながら廊下を曲がると「わぷっ!?」と驚いた声とともに俺の胸に小さな頭がぶつかってきた。
「あ、ご、ごめんなさい」
おどおどしながら、そいつは深々と頭を下げた。
そんなに頭を下げるほどのことじゃない。それにまた腹が立った。
大したことじゃないし、無視してそのまま教室に戻ろうとすると「あ、あの」と呼び止められた。
なんだよこっちは腹立ってんだよと不機嫌に振り返ると、小さいのがまだおどおどとしていた。話しかけてきたのはそっちなのに、腰も引けてるし、手も声も震えてる。ぶっつかったくらいでそんなビビるか?
「あの、大丈夫、ですか?」
小さいのはブルブルしながらそう言った。
たったそれだけ。だけど、妙に気持ちが落ち着いた。多分、俺の様子を見て、俺に言った言葉だったから。
「……大丈夫。もう帰るから」
「あ、じゃあ、お大事に」
小さいのはまた深々とお辞儀してから行ってしまった。
なんだったんだろう。そう思いつつ、家に帰った。
その日の夜、俺は熱を出した。ひどく不機嫌だったのは、体調が悪いせいもあったのかもしれない。
それから数日して、渡り廊下を歩いているとあのときの小さいのが廊下を歩いていた。ひとりでとぼとぼ歩いてたが、後ろから声をかけられたようだ。振り返ったそいつは、さっきまでと違って、楽しそうに笑い、話している。
人見知りで、親しい人にしか素の自分を見せないんだろうか。そういうところも、気になるようになった。
俺は本当に、人が集まってくることは多いが、自分から行くことは少ない。友達もひょんなことから土屋と話すようになったくらい。
だから、あの小さいのが同じクラスだってことも気づいてなかった。
「あれ誰?」
「どれ?麻子ちゃん?」
「……あの目が大きい小さいの」
「森宮?森宮がどうしたのっておーい?聞いてないね」
名前を知るまで1カ月。もう一度話すまでさらに1カ月。
美化委員で校内の除草作業をしていたとき。作業中もうっとおしいくらい話しかけられ、俺は途中で一度抜けた。髪を一つにまとめ、姉ちゃんが酔っぱらった時に買ってきた信じられないくらいダサい瓶底メガネをかけ、俺だとバレないようシャキシャキと歩いた。「緋村君見つけたら、絶対連絡先交換してもらう」と息巻いた先輩が素通りするほど、俺は別人化した。
校庭の隅でもういいんじゃないかと思いつつ草をぶち抜いていると、「あの……」と控えめな声に目を向けた。
「どのあたりまで、終わりましたか?」
後ろには緊張しつつも話しかけてくる森宮がいた。
久々に俺は実物を間近でじっくりと見た。緊張で揺れる大きな目に、白い肌。髪はふわふわしてそうだ。
「あ、あの……」
「残りこっちだけだから」
俺は適当なことを言って、森宮を近くに来させた。
二人で黙々と草を抜いていたが、ふいに話しかけてみた。
「森宮は、休みの日とかなにしてるの?」
急に話しかけられて驚いた森宮の肩が、面白いくらい跳ねた。
答えてくれるだろうかとじりじり待っていると「……妹に、ご飯作ったり」とか細い声が聞こえた。
「料理、好き?」
「好きっていうか……たまにするくらいです……」
この時森宮は、俺が誰かわかってなかっただろう。先輩だと思われていたのか、俺が変装していたせいか。
俺はもう少し話したくて、なんとか話を続けようとした。
「俺、カフェでバイトしてるから、料理する」
料理と言ったが、この頃も今も俺はアイスクリームを掬って器に入れるくらいしかできない。でも料理の話をすると、森宮の緊張が少しだけ和らいだ気がした。共有の話題って大事だなと思いつつ、ぽつぽつと会話のラリーを繰り返した。
「だから、今はコーヒー運んでる」
あっけなく俺の嘘はバレて、別方向から攻めることにした。
「蒸らしたり、難しそう、ですね」
たどたどしくも、森宮は会話を続けてくれた。
「うまくなったら飲みに来て」
瓶底レンズからのぞく森宮は曖昧な笑みで、頷くような首を傾けるような素振りをした。
来ないだろうなと、思った。
「なにが得意?料理」
「……オムライスとか」
「へー。卵難しくない?」
「そうですね、最初は破けたりしてたんですけど、今では半熟トロトロのが作れるようになりました」
そう話す森宮は、小さく笑みを浮かべ、上達したことが本当にうれしいのが俺にも伝わってきた。
「コーヒー淹れるの、練習しよかな」
ポツリと呟くと、隣にしゃがんだ森宮に見上げられた。
「がんばってください……」
そのはにかんだ笑みは俺だけに向けられたもので、たったそれだけで俺の中に熱が籠った。
「卵は?コツある?」
「えっと、──」
「椎凪ー!」
せっかく森宮が楽し気に話してくれるようになってきたのに、大声でかき消された。
「え、大ちゃん?」
立ち上がった森宮は、校舎の方に近づいた。
どうするんだろうと見ていると、
「大ちゃん、なにー!?」
さっきまでおどおど話していたのとは別人のように、大声をはなった。
「現国のノートうつさせてー!」
「机の右側に入ってるから、勝手に取ってー!」
森宮が叫び終えると、相手はわかったとも何とも言わずに教室の奥に消えてしまった。
ふぅっと息を吐いた森宮は「すみません」とまた俺の隣にしゃがんだ。
「びっくりした」
「え?」
「森宮、大声出せるんだ」
俺がそう言うと、森宮は顔を赤くした。どこが恥ずかしかったのかはわからない。けど、それがものすごく可愛かった。
もっと、森宮のいろんな表情を見てみたい。最初はそれだけだった。
だから、俺は森宮をずっと見ていた。でも誰に対してもいつもおどおどしているか硬い表情で、唯一大ちゃんには素を見せているようだった。
「そんでさ──……」
「絶対話盛ってるでしょ。そんな悲惨なことになる?だから早めにしといた方がいいって俺言ったのに」
「うっと。うっざ」
「大ちゃんそういうとこあるよ」
「うっさい」
「はいはい」
移動教室のとき、後ろを歩いたりした。
弱弱しく思えた森宮は、しっかり話していた。慣れてくると、全然違う彼の一面が見れるらしい。
「いいな……」
俺もあんな風に、森宮から素を見せてもらいたい。いや、そんな姿、本当は俺だけに見せてほしい。
話すのは苦手、感情を伝えるのはもっと苦手。思ってたのと違うと何度言われたことか。それがまた俺の口を重くした。
でもあんな風に包み隠さず気持ちを、思っていることを伝えたら、森宮は俺に素を見せてくれるようになるだろうか。
そう思いながら、ぼーっと窓際の自分の席に伏せて、廊下側の森宮を見ていた。
この頃は見つめていても全くバレないから、森宮をいつも目で追っていた。
「なに寝たふりしてんの?」
土屋にぽこんと頭を叩かれた俺は、ゆっくりと起き上がった。
「なぁ」
「なに?」
「……森宮って、かわいいよな」
「……うん?」
そこから俺が森宮の告白を聞くのが数カ月後。
呼び出し帰りに教室に戻ると、大ちゃんと森宮の二人しか残っておらず、しばらくぶらぶらしていた。もしかしたら、森宮と話すチャンスがあるかもと。
だから、自分でもびっくりした。
”俺も、森宮の恋愛対象に、入る?”
俺自身、俺がそれを望んでいるのをその時知ったから。
椎凪といると、いろんな自分が出てくる。知らない感情が湧き上がる。自分は感情が薄いと思っていたが、そんなことなかった。
椎凪といることで、俺はいろんな自分を知れる。でもそれ以上に椎凪を知りたい。俺だけが知る、椎凪がいればいいと思う。
こんなこと、初めてだ。毎日楽しくて仕方がない。知らない君に出会えるから。
だから君がそばにいるだけで、ただそれだけでいいって、今は思う。
「一緒に行く」
付き合い始めて1.5日目。学校へ行こうと玄関を開けると、家の前に緋村君がいた。
「なんでいつも断定口調なの?」
「……断られたらやだから」
ぶすりとした緋村君に、俺は朝からぶっ倒れそうだ。
なんてかわいい人なんだろう。きっとこんな人、他にはいない。
「行こ」
もう俺の中心は少しの恥ずかしさと嬉しさがせめぎ合ってゲシゲシしていたが、緋村君は俺の手を引いて駅に向かった。
緋村君は、俺の隣をぴったりとくっついて歩く。試しに立ち止まったり後ろに下がってみると、同じようについてきた。
無表情でクールな彼もかっこいいと思うけど、こうして楽しそうに笑っている彼の方がもっと好きだ。
「迎えに来るなら先に言ってほしい」
でも言うべきことは言う。
「……会いたくて」
そう言いながらシュンとされると、もう何も言えない。
膝から崩れ落ちた俺は、「大丈夫?」と緋村君に支えられながら立ち上がった。
こんな甘えたでかわいい緋村君、俺だけが知っていればいい。