3.噂話
どうして、こんなことになったんだろう。
俺の膝の上では、緋村君がスヤスヤと心地よさそうに眠っている。
「ん……」
寝返りをうった緋村君は、そのまま俺の腰に腕を回してきた。
驚きのあまり、俺は両腕を宙に浮かせたまま動けなくなった。
昼休みも終わりに近づく中、この麗しの眠り人を起こすか起こさないか。
俺はいったいどうすればいいんだ──!?
あれからしばらく、びくびくして過ごしていたのが嘘のように、俺の日常は何の波風も経つことなく平穏に過ぎている。
強いて変わったことと言えば──。
「森宮、はよ」
「おはよう、緋村君」
「ん」
俺が返すと微かに笑みを浮かべた緋村君は、自分の席に向かった。
教室の後ろのドアのすぐそばにある俺の席を通るとき、緋村君が話しかけてくるようになった。
こんな地味な俺を認識して以来話しかけてくれるなんて、緋村君はそのワイルドな外見とは違って、いい人のようだ。
『一軍男子こわい』『知らない人に恋愛対象知られてしまった』『脅されたらどうしよう』なんて思っていた過去の自分を思い出すと、軽く切腹したくなるくらいだ。
「緋村君と仲良くなったの?」
現国のノートを回収してまわっていた麻ちゃんに、俺はノートを渡した。
「仲良くなったっていうか、ちょっとだけ話すようになったっていうか」
「へー、意外……」
そう言った麻ちゃんの目線の先には、自席ですでに突っ伏して寝ている緋村君がいた。
「まぁいいじゃん。人見知りのこわがり椎凪が、ちゃんと話せるようになったとこなんだし」
隣の机に腰を下ろした大ちゃんも、「ほれ」と麻ちゃんにノートを渡した。
「それはそうなんだけど……」
「そうだろそうだろ。よくできました~」
飼い犬のサチにしてる感じで、大ちゃんはからかうように俺をわしゃわしゃと撫でた。
そのままくすぐってこようとする大ちゃんに抵抗していると、「そうだけどさぁ」と麻ちゃんが難しげな顔をした。
「あたしは心配なわけよ。あんな狼みたいなやつに可愛い森宮君が食べられちゃうんじゃないかって」
「あいつそんなに遊び歩いてんの?」
ピタリと停止した大ちゃんが、俺より先に尋ねた。
「あたしも詳しくは知らないんだけどね。まぁ、あのグループがモテるのは今に始まったことじゃないんだけど。特に緋村君と土屋君はダンチ。わざわざ他校から二人に会いに来る子もいるくらいだし。土屋君はみんなの王子さまって感じだけど、緋村君は女の子とっかえひっかえしてるらしいって……。まぁ噂だから本当のとこはわかんないんだけどね」
声を潜めてそう言った麻ちゃんは、気をつけるに越したことはないと言いたいのだろう。
現に緋村君土屋君をはじめとする一軍男子達の周りには、女子が群がり始めていた。
「おかあちゃんは心配性ですね~。んなの話してみねーとわかんねーじゃん」
「だから、話すにしてもちゃんと距離感わきまえた方がいいって言ってんの」
「お前はいっつもそうやってグチグチグチグチ。小4のときだって俺が探検行こうとしたら引き留めようと師範にチクって」
「はぁっ!?今そんな話してないし!だいたいあれはあんたたちが──」
ヒートアップした二人がバトるのはいつものことで、俺は終わるのを待つことにした。
「だから人間関係っていうのは経験を積んでかないとわからないことも多いんだから」
「お父さんが言いそうなこと言わないでよ!それで森宮君が傷ついたらどうすんのよっ」
それにしても、カムアを受け入れてくれた上にこんなに心配してもらえるなんてと思うと、俺は少しじーんとしてきた。
少し潤んだ目で大ちゃんを見つめていると、「なんだよ?」と怪訝そうな目を向けられた。
「いや、大ちゃんの友達でよかったなと思って」
「え?なに急に。きもい。情緒不安定?」
ひどい。バッサリとしてる大ちゃんの性格は素敵だと思ってるけど、たまにグサリと来る。
「もういいっ。あたし職員室にノート持っていくから」
プイッとそっぽ向いた麻ちゃんに、一歩近づいた大ちゃんは
「半分持つわ」
麻ちゃんからノートを半分以上奪った。
「……ありがと。優しいじゃん」
「だろー、惚れてもいいぜ」
「うざー」
そうやって笑い合いながら、二人は職員室に向かった。
さっきまでケンカしてたのに、あぁやって仲直りできるって、そういう関係っていいなぁと俺はこっそり思ってる。
「森宮」
「ひっ!?」
びっくりして見上げると、いつの間にか隣に立った緋村君が冷たい目で俺を見下ろしていた。
挨拶以外で話しかけられることに、俺はまだ慣れていない。
「な、なに?」
おっかなびっくりしつつ話しかけると、緋村君の手が伸びてきた。
思わず目をぎゅっと閉じた俺に伸びた手は、弱弱しく俺の髪をかき乱した。
「……え、な、え?」
何事だと思いつつ、俺はされるがままで、でも頭の中は混乱でいっぱいだった。
かき乱して、整えて、そうして俺の隣にしゃがんだ緋村君は、また軽く俺の袖をつまんだ。
「他のやつに触られるの、いやだ」
返事もできないままポカンとしていると、緋村君はツンツンと俺の袖を引っ張った。
「……あ、はい。気をつけます」
「ん」
それだけ言うと、照れくさそうに首をかいた緋村君は、ゆっくりと立ち上がって、俺に視線を残しながら教室を出て行った。
「椎凪ただいまー……て、どしたん?」
「……なんでもないよ」
俺は机に突っ伏したまま、あまりの破壊力に起き上がれなかった。
「じゃあ悪いな。明日は一緒に食べようぜ」
「気にしないで。いってらっしゃーい」
昼休みに、大ちゃんは剣道部の後輩から相談があると言われて教室を出て行った。
大ちゃんと麻ちゃんくらいしか仲良くない俺は、ガヤガヤと騒がしい教室でぽつんとした。
別に一人で弁当を食べるのなんて苦じゃない。苦じゃないけど、今日はそれが難しい。
教室を後にした俺は、人気のない場所を求め、屋上に続く踊り場にたどり着いた。少し寒いけど、これくらいなら大丈夫だ。
ふぅと腰を下ろした俺は弁当箱を開けた。
今日のは、自分でもうまくできたと思う。