『六月の噴水、恋の予感』
北海道・札幌、大通公園。
噴水の水音が、静かに街の喧騒を吸い込むこの場所には、特別な何かがあるわけではない。
けれど、ふとした偶然と、かすかな孤独とが重なるとき、そこは誰かの心にそっと入り込む“寄り道の場所”になる。
本作『噴水の前で、君を待つ。』は、そんな「寄り道の場所」で出会った、
一人の無邪気で儚げな女子高生・真白と、
無口で真面目な中年男性・誠一の、
淡くも確かに心を交わしていくひと夏の物語です。
これは、激しい恋愛の物語ではありません。
誰にも見えない感情が、静かに育ち、
“君がここにいる”ということだけで、
生きる理由になる——
そんな、静謐で繊細な時間の積み重ねを描いた作品です。
もし、読んでくださるあなたが、
人生のどこかで誰かを「ただ、そばにいてほしい」と願ったことがあるのなら——
この物語は、きっと、あなたの記憶にそっと触れるはずです。
さあ、噴水の音に耳を澄ませてみてください。
きっとそこに、あの二人の気配が、今も静かに残っています。
——どうぞ最後まで、ふたりの行方を見届けてやってください。
作者より
第一章:少女、ふいに現る
六月。
まだ夏とも言えないこの季節の札幌は、乾いた風がビルの谷間を吹き抜けて、街に仄かな寂しさを落とす。
午後三時、大通公園の噴水広場。
平日のこの時間、子供連れの母親と観光客の姿がぽつぽつと目立つくらいで、そこに座っている俺の存在も、誰の記憶にも残らないはずだった。
村上誠一。四十五歳。
札幌市内の設備会社に勤める営業職。
営業車のハンドルを握り続ける毎日に倦み、唯一の逃げ場として、休日や空き時間にはこうして大通公園に来る。缶コーヒーを手に、ただベンチに腰掛け、噴水の水音をぼんやりと聞いて過ごす。それだけだ。誰とも話さず、誰にも関わらず、ひとりで静かに。
——それで、よかった。
はずだった。
「おじさん、そこ、空いてます?」
不意に声が降ってきた。
柔らかく、けれど、少しだけ悪戯っぽい響きのある声だった。
顔を上げると、そこには一人の女子高生が立っていた。
制服の上から淡いグレーのパーカーを羽織り、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。首元で揺れる赤いリボンが、夏の光を受けて小さくきらめいた。どこかおしとやかな雰囲気を漂わせながらも、その目はよく笑い、どこか人懐っこい。
俺が何も答えないままでいると、彼女は小さく笑って、すとんと俺の隣に腰を下ろした。
「ありがとう、座っちゃった」
そう言って、足元に置いたリュックからペットボトルの水を取り出し、少し乱暴にキャップを開ける。喉を鳴らして一気に飲んだあと、小さな吐息をついた。
「ふー。走ってきたら、ちょっと汗かいちゃった」
それは、独り言のようにも、こちらに話しかけているようにも聞こえた。
俺は手にした缶コーヒーを軽く傾け、一口すする。何も言わずに。
「ねえ、おじさんって……無口?」
唐突な言葉。だけど、彼女の声には一切の悪意がなかった。
むしろ、興味を隠さない、純粋な問いかけだった。
「……まあ、そうかもな」
ようやく言葉を返すと、彼女は少し目を細めて笑った。
その笑顔が、どうしようもなく自然だった。
「そっか。でも、こういう人って、たまに話すと深いこと言いそうだよね。たとえば、“生きるって何ですか”とか聞いたら、ちゃんと答えてくれそう」
「生きるって……そういう重い話、苦手なんだ」
「ふふ、冗談だよ。そんな顔しないで」
彼女はそう言いながら、噴水に目をやった。
水が音を立てて、空へ舞い上がり、また落ちていく。その様子を、彼女はじっと眺めていた。
「私ね、あの噴水が好きなの。なんだかね、いったん上に登っても、ちゃんと地面に戻ってきて……それがなんか、いいなって思う」
「落ちるのが、いいって?」
「うん。戻ってくるのが、いいの」
彼女の言葉が風に乗って、心の奥に落ちた気がした。
俺はそれ以上、何も言えなかった。
しばらく沈黙が流れる。
けれど、不思議とそれは気まずくなかった。彼女も俺も、それぞれの時間を過ごしながら、ただ「そこにいる」ことを自然に受け入れていた。
「……あ、そうだ」
真白はぽんと手を打って、こちらに向き直った。
「今日会ったばっかだけど、またここで会ってもいい?」
「……勝手に座ればいい」
「うん。じゃあ、勝手に会うね、おじさん」
無邪気にそう言って、彼女は立ち上がった。
赤いリボンが風になびき、彼女の姿が光の中へと溶けていくようだった。
俺は、その背中をしばらく見送った。
名前も知らない少女。
だけど、噴水の前で、確かに何かが始まった——そんな気がした。
第二章:二人の距離、三歩
その日もまた、大通公園の噴水は変わらず水を弾いていた。
六月の終わり、曇天の下にある午後の札幌は、人影がまばらで、湿った風だけが通り抜けていく。
ベンチに座る。
左手には、あいも変わらず缶コーヒー。
足元には昨日の雨がまだ乾ききらない地面。
ぼんやりと空を見上げて、俺はいつものように「何もしない」ことをしていた。
——いるわけがない。
昨日会ったあの少女のことは、ほんの一瞬の出来事だったのだと自分に言い聞かせていた。年齢も、世界も違う。名も知らぬ相手に、何を期待しているのか。
そう思った、そのときだった。
「……おじさん、今日もいると思った」
振り返ると、昨日と変わらぬ姿。
制服にグレーのパーカー、長い黒髪を揺らしながら、彼女はまっすぐ俺の隣に歩いてきた。
「やっぱり、いた」
俺は返す言葉を持たず、缶コーヒーを持ち直した。
彼女は隣に腰を下ろすでもなく、少し距離を置いて立ったまま、噴水を眺めていた。
「うちの美術部、来月スケッチ大会があるんだよね。……それで、公園を描こうと思って下見に来たの。偶然じゃないよ。……ほんのちょっと、わざと」
こちらを見ずに、そう言った。
「……俺に何か用か?」
「ううん、ないよ。ほんとに。……ただ、あのおじさん、今日もいるかな、って思っただけ」
まるで、猫がひだまりを探すような調子だった。
甘えでも媚びでもない、ただそこに在ることを望むような声だった。
「おじさんって、仕事は? サボり中?」
「サボってるんじゃない。……休みだ」
「そっか。ふふ、そう言うと思った」
ようやく彼女は隣に座る。
今日は一歩分だけ、昨日より距離がある。
「ねえ。おじさんって、ひとりが好き?」
「……嫌いじゃない」
「私はね、……たまに、誰かと喋りたくなる。黙ってるのも好きだけど、声にしないと、気持ちって消えてっちゃう感じするじゃん?」
風が吹き、彼女の髪が俺の肩に触れそうになる。
彼女は軽く髪を押さえながら、続けた。
「でも、おしゃべりすぎる人は、ちょっと苦手。……うるさいから」
「……よくしゃべるじゃないか」
「え、私? 今日はちょっとだけよ。昨日、あんまりおじさんが喋らないから、試してるの」
「試してる?」
「どこまで喋ったら、おじさんが『うるさい』って顔するか。……ふふ、今ちょっとだけ眉動いたね」
俺は言葉を返さなかった。
それを肯定と捉えたのか、彼女は満足げにうなずいた。
「……おじさん、煙草吸う?」
「やめた。十年前に」
「へえ。意外。……じゃあ、その生臭い匂いは何?」
「缶コーヒーと、仕事と、たぶん疲れだな」
「……うん、それっぽい。けど、安心する匂い」
彼女はそれだけ言って、再び噴水の方に目を向けた。
会話が途切れても、焦る様子はない。ただ、そこにいて、風と水音に身を任せるように、静かに呼吸している。
数分の沈黙。
ふと、彼女が口を開いた。
「名前、聞かないんだ?」
「……聞いていいのか?」
「だめって言ったら、聞かないの?」
「……聞かない」
「じゃあ、いいよ。聞いても」
「……名前は?」
彼女はほんの少しだけ、こちらを見て、目を細めた。
「真白。ましろ、って読むの」
「名字は?」
「それは、まだ秘密。……おじさんは?」
「村上。……村上誠一」
「ふーん。……“せいいち”って、ちょっと固いね。おじさんらしくて、いいかも」
そう言って、彼女はまた噴水の水をじっと見つめた。
その顔は無邪気で、少し悪戯っぽくて、それでいて妙に静かだった。
どこか、はかない。
その日の帰り道、ベンチに残った体温が、なぜかいつもより長く残っていたような気がした。
第三章:少女の影と、男の沈黙
六月の終わりが近づくと、空は日ごとに白く霞んでいった。
曇天と初夏の陽射しがせめぎ合い、空気は重く、噴水の水音もどこか鈍く聞こえる。
いつものように、俺は公園のベンチにいた。
時間は午後三時半。缶コーヒーは開けたばかりで、まだぬるくもなっていない。
今日も来るだろうか——そんなことを考えるようになった自分に、内心うんざりしながらも、足はここへ向いてしまっていた。
そのとき。
「……おじさん、いた」
背後から、小さく息を吐くような声。
振り返ると、真白が立っていた。今日は珍しくパーカーを着ていなかった。白い半袖シャツに、うっすらと青いカーディガン。制服のスカートが、曇り空の下でも少しだけ揺れていた。
「……その顔、今日も来るって思ってたでしょ」
俺は答えず、手にした缶コーヒーを差し出した。
彼女はそれを見て笑い、首を横に振った。
「……ありがと。でも今日は、ちょっと甘いのがいい気分」
真白はそう言って、自分の持ってきたペットボトルの紅茶を開けた。
隣に座ったその表情は、いつになく静かだった。
しばらく沈黙が流れたあと、彼女がぽつりと口を開いた。
「……ねえ、おじさん。悩み事って、ある?」
「……ないことにしてる」
「ふふ、うまいこと言うね」
少しだけ笑ったあと、彼女の瞳が揺れた。
その笑顔は、いつものような無邪気さを欠いていた。
「私ね、たまに、すっごく“消えたくなる”ときがあるの」
——唐突だった。
けれどその言葉は、嘘じゃなかった。
声に力はなく、けれど真っ直ぐで、妙に大人びていた。
「なんでだろう。別に、いじめられてるわけじゃないし、勉強もそれなりにできる。美術部では評価もされてるし、親もうるさいけど、普通の家」
「でも、“普通”って、誰にも何も伝わらないんだよね。……息してるだけで、透明になっちゃう感じ。わかる?」
俺は少しだけ、頷いた。
「……わかるかもな。生きてるのに、何かになってない感覚」
「……うん、それ」
真白は、そっと自分の足元を見る。
爪先で地面の小石を転がしながら、静かに続けた。
「この前ね、夜に外を歩いてたら、ふと“このままどこか行っても、誰も気づかないかも”って思ったの。
でも、駅のホームで電車を見てたら、急に怖くなった」
風が吹いて、彼女の髪が揺れた。
表情は見えなかったが、肩がかすかに震えていた。
「だから……その夜、たぶん“誰かに会いたい”って、すごく思ったんだと思う」
「……それで、公園に?」
彼女は黙って頷いた。
そして、ぽつりと小さな声で言った。
「……そしたら、おじさんがいた。たまたまだと思うけど、ちょっとだけ、うれしかった」
沈黙が、重く降りた。
俺は何も言わなかった。
言葉を選ぶほどの頭もなく、慰めの技術も持っていなかった。ただ、黙って隣に座っていた。
——それで、十分だったのかもしれない。
やがて真白は、カバンから取り出したスケッチブックを開いた。
ページの片隅に、まだ線の少ない噴水と、その脇のベンチが描かれていた。
「ねえ、おじさん。……モデルになってくれる?」
「俺が?」
「うん。……“誰か”がそこにいるだけで、描きたくなる景色があるんだよ。だから、いてくれるだけでいいの」
冗談めかした言い方だったが、目は真剣だった。
俺は何も答えず、そのままベンチに背を預けた。いつもの姿勢で、何もしないふりをして。
真白は鉛筆を走らせた。
時折、視線が交わる。彼女の眼差しには、どこか確かに“生きている”ものがあった。
曇り空の下、風と水音の中で、
俺たちは、それぞれの「孤独」に触れながら、同じ時間を過ごしていた。
第四章:名前を呼んで
数日ぶりに晴れた午後。
噴水の水面が陽を反射して、広場全体が淡く揺れているように見えた。
その日は少し早めに着いていた。
べつに、誰かを待っていたわけじゃない。ただなんとなく、早足になっただけ。
……そういうことにして、俺はいつものベンチに腰を下ろした。
缶コーヒー。
今日はちょっと甘いミルク多めのやつ。苦いだけじゃ、午後は長すぎる。
「……あれ、おじさん、もう来てたんだ」
声がした。
いつの間にか、真白が俺の前に立っていた。
制服の上に白いストールを羽織っていて、少しだけ顔が赤い。
きっと日焼けじゃない。たぶん、歩いてきたせい。
そういう風に、自分に言い訳する癖がついたのは、彼女に会うようになってからだ。
「今日は、こっちが“先”だな」
「ふふ。……おじさんが先に来てると、ちょっとびっくりする。まるで、待ってくれてたみたいで」
俺は黙って、もう一本の缶コーヒーを鞄から取り出し、彼女に渡した。
今度は甘いやつ。
「……ありがと。わかってるね」
真白は笑って缶を受け取る。
プルタブを開けた音が、噴水の水音に混じった。
「スケッチ、進んでるか?」
「うん、まあまあ。……でも、描いてるときにふと気づくんだよね。“あれ、なんでこれ描いてるんだろう”って」
「意味を探すな」
「……それ、おじさんなりのアドバイス?」
「生きるって、そういうもんだろ。意味のないことを繰り返して、あとから勝手に理由をつける」
「ふーん……なんか、かっこいいね。今の、覚えとこ」
真白はそう言って、少しだけ笑った。
けれどその笑顔は、いつもより長く続いた気がした。
「ねえ、おじさん。私のこと、“真白”って呼んでよ」
「……呼んでるだろ?」
「そうじゃなくて。“君”とか“お前”じゃなくて、ちゃんと、“真白”って」
「……なぜ?」
「なんとなく。“おじさんの声”で、名前を呼ばれたいだけ。……それって、変?」
「……変じゃない」
「じゃあ、呼んで」
俺は少し息を整え、言った。
「……真白」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから、ふっと肩の力を抜いたように笑った。
「なんか、いいね。ちゃんと呼ばれると、存在してる感じがする」
「……お前はいつも、ちゃんとそこにいるだろ」
「ううん。そう思うのは、自分じゃなくて、誰かがそう言ってくれるときなんだよ。……“いる”って思われたいの。私は」
少し風が吹いた。
髪がなびいて、ストールがふわりと浮かんだ。
俺はそのまま、噴水を眺めた。
すると、真白がぽつりと呟いた。
「……ねえ、誠一さん」
「……ん?」
「今、呼んでみた。おじさんの名前」
彼女は少しだけイタズラっぽく笑っていた。
けれどその瞳は、どこか真剣だった。
「なんか、ちょっとだけ縮まった気がする。距離」
言葉の余韻が水音に溶けて、二人のあいだにしばらく沈黙が流れた。
けれどその沈黙は、もう前のような「空白」ではなく、どこか心地よい「余白」だった。
その日、帰り際に真白はこう言った。
「また来るね、誠一さん」
はにかんだ笑顔が残り、歩き去る背中がゆっくりと小さくなっていった。
第五章:カメラの中の、君
それは、ほんの気まぐれだった。
六月最後の日曜日。
朝から雲ひとつない晴天で、公園のベンチにはすでに家族連れや観光客の姿があった。
俺はいつもの場所から少し離れたベンチに座り、肩から下げたミラーレス一眼を膝に置いていた。
撮るつもりはなかった。
ただ、持ってきただけだった。
それでも手が勝手にシャッターを切ってしまうことがある。たとえば、目の前に——
「おじさん、やっほー!」
彼女の声。
日差しを弾くように、真白が駆け寄ってくる。
薄手のカーディガンは今日は脱ぎ、制服のまま。
スカートの裾を軽く押さえながら、小走りでこちらに向かってくるその姿を、反射的にカメラが捉えた。
——カシャ。
「……あ」
思わずシャッターを押してしまった。
ファインダー越しに見た彼女は、肉眼よりもなぜか遠く、けれど美しかった。
「……今、撮ったでしょ?」
少し目を丸くして、真白が近づく。
俺は気まずそうにカメラを脇に避けた。
「悪かった。……癖でな」
「ううん、いいよ。むしろ、うれしいかも」
「……なぜ?」
「だって、“見てくれてる”ってことだから」
彼女はベンチに座り、こちらを向いた。
光の中で、髪が金色に近く透けて見える。
「私さ、写真ってちょっと苦手だったんだよね。自分のこと、よくわかんないから。どう映ってるか、怖いって思っちゃうの」
「……それは、よくわかる」
俺の声が少しだけ低くなった。
——十年以上前、ある一枚の写真が、すべてを壊したことがある。
それは、ある女が見てしまった「俺の本音」だった。写っていたのは、笑っていない俺の顔。仕事のストレス、疲れ、何もかも投げ出したような目をしていた。
「その顔、本当に私の前でもしてるの?」
そう言われて、黙ってしまった。何も返せなかった。
それ以来、カメラを持つたび、自分の中の“何か”がざらついた。
「……でも、今日のはちょっと違うね」
真白の声に、思考が引き戻された。
「おじさん、私のこと、どんなふうに見えてる?」
「……難しいな」
「難しくていいよ。思ったままで」
俺はしばらく黙ったあと、ゆっくり言葉を選んだ。
「……透明なガラスみたいだ。向こうが透けて見えるけど、たまに光を反射して、こっちの顔が映る」
「……なにそれ。詩人みたい」
「違う。ただの偏屈な中年だ」
「でも……うれしい」
彼女は、どこか嬉しそうに、でも恥ずかしそうに俯いた。
「私、純粋に“見てほしい”んだと思う。誰かに。たぶん、ずっと」
その横顔は、まるでひまわりのようだった。
咲ききっていないのに、まぶしくて、どこかはかない。
「……おじさんは、誰かに見られたいって思ったことある?」
「……昔は、あった」
「今は?」
「……あまり、思わない」
真白は、少しだけ悲しそうに眉を寄せた。
けれど、すぐに顔を上げて言った。
「じゃあ、私が見るね。誠一さんのこと。ちゃんと」
言葉が、風に乗ってゆっくりと俺の胸に落ちた。
それは、ただの女子高生のひとこと。
けれど、俺にとっては十年以上ぶりに心の奥をノックされたような気がした。
その日撮った写真を、夜になって何度も見返した。
光の中で笑う彼女の顔が、フィルム越しにずっと俺を見つめていた。
第六章:たくらみと花火
七月の風は、少しだけ熱を帯びていた。
蝉の声にはまだ早く、街はどこか浮ついていて、人の声もいつもより一段高く聞こえた。
その日の大通公園には、屋台がいくつも並んでいた。
七夕と花火大会を合わせた地元の小さな夏祭り。
観光地にしては素朴で、どこか懐かしい風景だった。
「誠一さん、こっちこっち!」
浴衣姿の真白が、屋台の前で手を振っていた。
藤色の生地に白いあじさいの模様、肩口には小さな金魚の飾り。
その姿は、ふだんの制服姿とは違って見えて、一瞬言葉が出なかった。
「……どうしたの?」
「なにって、浴衣。似合ってる?」
「……まあ、悪くない」
「それ、褒めてる? 貶してる?」
「……どっちでもない。事実だ」
彼女はくすっと笑って、少しだけ身を寄せた。
屋台の明かりに照らされた頬が、夕暮れの空に溶けそうだった。
「今日は、誠一さんに“あること”頼みに来たの」
「……何だ?」
「一緒に、花火見ようよ」
それだけだった。
でもその言葉が、どこかくすぐったく、真っ直ぐで、断る理由が見つからなかった。
人混みを抜け、少し離れた川べりの芝生へ。
そこは意外と空いていて、ふたりで腰を下ろすにはちょうどいい場所だった。
「ほんとはね、友達と行く予定だったの。でも、やめた」
「なぜ?」
「うーん……こっちのほうが、大事な気がしたから」
「……俺は、何でもないおっさんだぞ」
「うん。でも、“誠一さん”は、誰とも違う」
その言い方が、妙に静かで、胸に残った。
やがて、空がふと静まり返った。
「始まるよ」
真白が指差した先、夜の空に最初の火が上がる。
ぼん、と音がして、花が咲いた。
橙、藍、白。
光と音が、順に降ってきて、芝の上に影を落とす。
ふたりは無言のまま、夜空を見上げていた。
でも、沈黙はもう、気まずさではなかった。
「……ねえ」
真白の声は、花火の音にかき消されそうだったが、確かに届いた。
「この時間、ずっと続けばいいのに」
「……そう思うことも、あるな」
「ねえ、誠一さんって、こういうとき、手とか握ったりしないの?」
「……しない」
「そっか。誠一さんだもんね」
少し拗ねたように笑ったその顔が、ほんの少しだけ、俺の肩に触れた。
触れてないかもしれない。けど、風と空気の間に、それくらいの近さがあった。
「……でも、うれしいよ」
「何がだ?」
「一緒に見てくれてること。ちゃんとここにいてくれること」
火花がぱらぱらと降ってきて、空がふたたび暗くなる。
——その刹那。
真白がそっと囁いた。
「今日だけ、“特別”になってもいい?」
返事はしなかった。できなかった。
でも彼女の手の甲が、そっと俺の指先に触れたその感触だけは、嘘じゃなかった。
そして、そのまま言葉を交わさず、ふたりは最後の花火が夜空に咲ききるまで、ただ肩を並べていた。
それだけで、十分だった。
第七章:声にならないもの
七月も半ばを過ぎて、陽射しが真上から落ちてくるようになった。
公園の噴水は涼しげな音を立てていたが、その水音すら、照りつける日差しには追いつかない。
それでも、俺はいつものようにベンチに座っていた。
缶コーヒーは、今日だけ冷たいペットボトルのお茶に変えた。
不器用な自分なりの“気遣い”のつもりだった。
「誠一さーん」
呼びかける声。
少し高くて、少し緩んだ声。
ふり向くと、真白が、白いブラウスにカーディガン姿で、少しだけ息を弾ませながら駆け寄ってくる。
「……暑いねぇ。溶けるかと思った」
「なら、来なきゃよかった」
「ふふ。でも、来ちゃった」
彼女はそう言って、隣に腰を下ろす。
昨日と同じように、そして、いつもと変わらない“距離”で。
けれどその距離が、以前よりずっと近くなったことに、俺は気づいていた。
「花火、楽しかったね」
「……ああ」
「なんか、夢みたいだった。終わった後、家に帰ってお風呂入ったら、現実に戻っちゃって……」
言葉を切って、真白は空を仰いだ。
「でもね、不思議なんだ。
あの夜のこと、全然“終わった”気がしないの。
ずっと、続いてる感じがする」
「……そんなもんだろ」
「誠一さんってさ、夢見ることある?」
「昔はな。最近は、眠ってるだけだ」
「じゃあ……」
そう言って、真白はふいに俺の左手に、自分の指先を重ねた。
触れているのは、ほんの一瞬だけ。
それでも、鼓動がほんの少し速くなったのを、自分で意識するほどだった。
「——今、ちょっとだけ“夢”見てた。起きたら怒られるかな、って思うくらい」
「怒らない」
「……ほんと?」
「……怒る気力がないだけかもな」
「ふふ、それでもいいや」
真白はくすりと笑って、それから顔を伏せた。
言葉を続けようとして、やめたようだった。
しばらく、静かな時間が流れる。
蝉の声が聞こえ始めた。公園の木々に、夏の匂いが漂い始める。
「……誠一さん」
「ん?」
「……もし、私がいなくなっても、探してくれる?」
唐突な問いだった。
けれど、彼女は真顔だった。
いつもの冗談めかした調子ではない。
「……どういう意味だ?」
「意味は、……まだ秘密。でも、ちょっとだけ気になったの」
彼女の視線が、水面の向こうを見ていた。
それはどこか遠く、現実じゃない場所を見ているような——そんな瞳だった。
「答えてほしいな」
「……ああ。きっと、探す」
「ちゃんと?」
「しつこいくらいに」
その答えを聞いた瞬間、彼女の肩がすうっと緩んだ。
安堵とも、嬉しさともつかない、静かな表情。
それから、そっと俺の腕に、自分の肩を預けてきた。
「ちょっとだけ。……ちょっとだけ、こうしててもいい?」
「……ああ」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
声にならないものが、確かにこの時間には存在していた。
それは言葉よりも深く、触れあうよりも静かに、互いの心にしみこんでいく。
陽はまだ高く、夏の午後は長い。
それでも、今この時だけは、何もいらなかった。
ほんの少しのぬくもりと、声にならない気持ちと。
それだけで、すべてが満たされていた。
第八章:真白の秘密
その日、公園には彼女の姿がなかった。
午後三時を過ぎ、四時になっても、真白は現れなかった。
いつもなら、小走りに現れて、他愛もない言葉を投げてくる。そういう流れが、いつしか“日常”になっていた。
だがこの日は、ベンチの横にだけ、風が通った。
落胆、というより、戸惑いだった。
特別な約束などしていない。ただ、自然にそこにいた。それだけの関係。
だからこそ、今日“いない”という事実が、予想以上に胸にこたえた。
翌日も、またその翌日も、彼女は現れなかった。
五日目。
誠一は、意を決して行動に出た。
——彼女の通っている高校を探しあて、校門の前まで行った。
張り込みのような真似はしたくなかった。だが、気持ちは抑えきれなかった。
そしてついに、校門から出てくる彼女の姿を見つけた。
けれど、その表情は、誠一の知っている真白ではなかった。
顔色が悪く、細くなった肩が制服に沈んでいた。
友人らしき少女に「大丈夫?」と声をかけられても、彼女は笑わなかった。
彼女は誠一に気づかなかった。
それでよかった、とも思った。けれど、見過ごすことはできなかった。
その翌日。
大通公園の噴水広場。
ベンチに彼女が、ひとり座っていた。
誠一は、黙ってその隣に腰を下ろした。
真白は少し驚いたようにこちらを見て、そして静かに微笑んだ。
「……来てくれたんだ」
「お前が来ないから、迎えに行った」
「……うん、見られてたんだ。ちょっと恥ずかしいな」
「体調、悪いのか?」
「ううん、ちがう。……悪いのは、心のほう」
誠一は何も言わず、ただ聞く姿勢を見せた。
真白はしばらく沈黙した後、ぽつりと話し始めた。
「ねえ、私さ、病院に通ってるんだ。もう二年くらい前から。
……正式な名前は、“解離性障害”っていうらしいんだけど、簡単に言えば、心がたまに“ここ”にいなくなる病気」
「……ここ?」
「うん。現実の“ここ”じゃない場所に、ふっと行っちゃうの。
体はそこにいるのに、意識はどこか遠く。時間が飛んだり、人の顔が分からなくなったり、……怖くなる」
誠一は、息をひそめて彼女を見つめていた。
「それがひどくなった時期があってね。
学校も休みがちになって、病院の先生から“回復訓練”として“日常的に安心できる場所と人”を作れって言われた」
「……それで、噴水広場か」
「うん。そして、誠一さん」
真白は小さく微笑んだ。
「最初は、誰でもよかったのかもしれない。でも……なんでだろう。
誠一さんだけは、何も聞かないのが、逆に安心だった。何も求めず、ただそこにいる人。それがすごく救いだった」
「……俺は、気づかなかった」
「いいの。気づかれないくらいが、ちょうどよかったの。
でも、だんだん欲が出てきた。“この人に、もっと見てほしい”って」
真白は、遠く噴水を見つめた。
「花火の夜、少しだけ、私のこと“普通の女の子”として見てくれたでしょ?
それが……すごくうれしかった。だから、怖くなったの。壊したくないって」
「……真白」
名前を呼ぶと、彼女は目を細めた。
「……逃げたくなったの。でも、誠一さんが迎えに来てくれて、ちょっと救われた気がした」
風が吹いた。夏の、湿り気を帯びた風だった。
誠一は言葉を探し、ゆっくりと語った。
「……俺は、過去に一度、人をちゃんと見ようとしなかったことがある。
結果、相手を壊した。……それから、自分から人に近づくのが怖くなった」
「……そっか」
「でも、お前は俺に近づいてきた。無邪気に、まっすぐに。
そして今、自分から心の内を明かした。……それを、無視なんてできない」
真白は目を伏せたまま、肩を揺らした。
小さな声で、ぽつりと呟く。
「……私、誠一さんに出会えてよかった。ほんとうに」
沈黙がふたりを包んだ。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
むしろ、そこにあるのは「理解」という名前の、温かな繭だった。
誠一はそっと、彼女の細い肩に手を置いた。
抱きしめるでもなく、ただ、そこにいることを伝えるように。
真白は、静かに頷いた。
第九章:いない風景
七月の終わり。
空は白く、風はぬるく、街はどこか焦燥を帯びていた。
噴水広場の水音だけが、変わらずに続いていた。
けれど、その音を聞く誠一の隣に、彼女の姿はなかった。
——三日連続で、真白は来なかった。
彼女は「また来るね」と言った。
それなのに、姿を見せない。それは、彼女が約束を破ったのではなく、何か理由があるのだと、誠一にはすぐに分かった。
それでも、連絡手段はない。
彼女はそれを、わざと残さなかった。
「いつでも会える」関係じゃなくて、「たまたま会える」関係でいたかったのだろう。あの日の彼女の表情を思い出せば、それもまた彼女らしかった。
——けれど。
噴水の音を聞くたびに、あの笑顔が蘇る。
「誠一さんって、ちょっと不器用だけど、優しいよね」
「ふふ、怒ってる顔も見てみたいな」
「……私のこと、ちゃんと見ててね」
言葉の断片が、音と光に混じって浮かんでくる。
そして、彼女のあの笑顔——
浴衣姿で「特別」になりたいと願った、ほんの一瞬の大胆さと、
どこかはにかむような笑顔が、誠一の記憶に焼きついて離れなかった。
思えば、不思議な少女だった。
どこか浮世離れしていて、現実感がなくて、けれど確かに“ここ”にいた。
スカートの裾を揺らして笑い、真剣に悩み、甘えることすら躊躇っていた彼女は、どこまでも「無垢」だった。
あまりに可愛くて、あまりに危うかった。
——そして、惹かれている自分に、誠一は戸惑っていた。
四十五歳。
疲れた中年の男が、半分子どものような少女に心を奪われている。
現実的に見れば、滑稽で、愚かで、許されるはずもない感情だ。
だが、それでも——
彼女の笑顔を思い出すだけで、胸が締めつけられる。
彼女の声を思い出すだけで、耳が熱を持つ。
「……俺は、何をしているんだ」
ベンチに座ったまま、ぽつりと呟いた。
目を伏せ、額に手をあてる。
だが、心の奥に巣食ったその感情は、消えることも、誤魔化すこともできなかった。
——彼女が、いない。
その現実が、誠一の心をじわじわと蝕んでいた。
「探すな」と言われたわけじゃない。
だが、「探してくれ」とも言われていない。
曖昧なまま、彼女は“どこか”へ行ってしまった。
それでも誠一は、もう気づいていた。
このまま、何もしなければ後悔する。
何もせず、また黙って彼女を失えば、二度と取り戻せない。
彼は立ち上がった。
噴水の水音を背に受けて、背筋を伸ばす。
そして、静かに言った。
「……探すぞ、真白」
それは決意というより、祈りに近かった。
だがその足取りには、確かな意思が宿っていた。
——次に彼女を見つけたとき、
もう一度名前を呼ぼう。
心から。
第十章:もう一度、名前を
八月の空は、青いというよりも白く、そして高かった。
大通公園では「夏まつり」の準備が進み、仮設のステージや露店の骨組みが次々と組み上げられていた。
人の声、工事の音、風に揺れる葉の音——
そのすべてが、妙に鮮やかに感じられたのは、誠一の胸の奥で高鳴っていた何かが、すべての感覚を研ぎ澄ませていたからだ。
——彼女を探す。
それは、ひどく曖昧な行為だった。
連絡先も知らず、学校へ行っても本人には会えず、病院の場所も聞いていない。
それでも足を動かした。
この街に、彼女が“居た”という記憶だけを頼りに。
五日目の午後。
思いつきで足を向けたのは、狸小路から少し外れた古い喫茶店だった。
数年前、たまたま営業の途中で立ち寄ったその店には、古びた木製の看板と、くすんだ琥珀色のガラスが印象的だった。
重いドアを開けた瞬間、風鈴のような音が鳴った。
そして——
「……誠一さん?」
声が、した。
——いた。
店の奥、カウンターの中。
白いワンピースに身を包んだ少女が、ガラスのコップを拭いていた。
髪を後ろで軽く結び、いつもより少し背筋を伸ばしたその姿は、以前よりも少しだけ“現実”に近づいていた。
「……真白」
その名を口にした瞬間、誠一の胸に、奇妙な震えが走った。
安堵、驚き、そして何より、ただ会えたことへの感情が混ざり合い、喉が詰まりそうだった。
「どうして……ここが」
「たまたまだ。ほんの……偶然だ」
「ふふ。偶然って、便利な言葉だね。でも、うれしい」
彼女はカウンターから出てきて、歩み寄る。
足取りはゆっくりで、でも迷いはなかった。
「ここ、親戚のお店なの。しばらく療養もかねて、手伝いに来てるの。……ちゃんと、逃げた理由、言っておきたくて」
誠一は頷く。それだけが、今の自分にできる精一杯の返事だった。
「でも……ごめんね。勝手にいなくなって。……誠一さん、探してくれたんだよね」
「ああ。……情けないほど、な」
「ううん。……すごく、うれしい。ほんとうに」
真白は笑った。
とびきりの笑顔だった。
あの噴水の前で初めて見た、あの無邪気さと儚さとが混ざった笑顔が、いま目の前にあった。
「私ね、誠一さんの声、ずっと忘れられなかったの」
「……声?」
「うん。名前を呼んでくれたでしょ。あのとき、心がちゃんと“ここ”に戻ってきた気がしたの。
だから、また聞きたかった。“真白”って、ちゃんと呼ばれるの」
誠一は彼女の前に立ち、ひと呼吸置いて、口を開いた。
「……真白」
「……うん」
「——お前は、ちゃんとここにいる。俺の前に、確かに」
真白は小さく震えた。
そして、ゆっくりと一歩、誠一に近づいた。
距離がなくなった。
手を伸ばせば触れられる。でも、触れない。
触れてしまえば、壊れてしまいそうで。
「……誠一さん。お願いがあるの」
「なんだ?」
「……今日だけでいい。夢の続きを、見させてほしい」
「……夢なんかじゃない。これは、現実だ」
「……うん、そうだね」
真白の瞳が、微かに潤んでいた。
それでも、笑っていた。
この現実の中で、彼女はもう、震えていなかった。
窓の外では、花火の準備が進んでいた。
空はまだ明るいが、もうすぐ夜になる。
「……もう一度、名前を」
小さな声で、真白が言った。
誠一は、少しだけ目を閉じて、静かに口を開いた。
「——真白」
その声は、夏の光と影のあいだに、はっきりと刻まれた。
最終章:噴水の前で、君を待つ。
八月の空が、静かに暮れていく。
祭りの喧騒が残る大通公園。
屋台の灯りが並び、人々の笑い声と花火の余韻が、夏の夜を飾っていた。
そのなかで、ひとつだけ、静かな場所があった。
噴水広場。
人波が引いたその水辺の前に、誠一はひとり、ベンチに座っていた。
背広のジャケットは脱ぎ、白いシャツに腕を通したまま。
缶コーヒーではなく、今日は小さな花束を手にしていた。
百合の花と、小さなブルースター。
花言葉を調べたわけじゃない。ただ、なぜかこの組み合わせが、彼女に似合う気がした。
そして——
「……誠一さん」
その声が、風と一緒に届いた。
振り返ると、そこにはワンピース姿の真白がいた。
白いワンピースに、髪は軽く結い上げて、小さなピンでとめていた。
頬にほんの少し紅をさし、けれど装いはどこまでも“真白らしく”控えめだった。
「遅くなって、ごめん」
「……来ないかと思った」
「ううん。……来たよ。だって、“待っててくれる”って思ったから」
彼女はゆっくりと歩き出し、誠一の隣に座る。
水の音がふたりのあいだをつなぐ。
「私ね、病院の先生にも話したの。“今、大切な人がいる”って。
そしたらね、“あなたが信じる限り、その人は支えになる”って言われた」
「……支えになれてるのか、俺は」
「なってるよ。……すごく、ね」
彼女の声が震えた。
「私、誠一さんに出会わなかったら、たぶん今ごろ、どこかで壊れてたと思う。
でも……おじさんが、“真白”って呼んでくれたから、生きようって思えた。
初めて、誰かの“声”で、自分を認めてもらえた気がしたんだよ」
彼女は、涙を拭わなかった。
泣いている顔も、ただ可愛かった。
誠一は、そんな彼女に、黙って花束を差し出した。
「……なんか、似合いそうだったから」
「うん、すごく……うれしい」
そして、彼女はそっと立ち上がると、彼の手をとった。
「……踊ろうよ、ここで。誰も見てないよ」
「踊りなんて、したことない」
「私がリードするから、大丈夫」
そう言って、彼女は笑った。
音楽はない。
けれど、水音と風が、リズムになった。
真白がふわりとスカートを揺らし、誠一の手を引いて、円を描くように一歩、また一歩。
彼女の瞳が、夜空の星よりもよく光っていた。
——この瞬間だけが、永遠であってほしい。
ふと、真白が立ち止まった。
「ねえ、誠一さん」
「なんだ?」
「……キス、してもいい?」
その言葉は、どこまでもまっすぐで、どこまでも柔らかかった。
誠一は黙って、そっと彼女の頬に手を添えた。
そして、唇を重ねた。
熱くもなく、重くもない。
けれど、そこには確かに、“ふたりの存在”があった。
風がやんだ。
世界が、ほんの少し止まったようだった。
唇を離すと、真白は微笑んだ。
「……これで、夢じゃないって、わかるよね」
「ああ。……夢じゃない」
「これからも、ここにいるよ。ずっと、ちゃんと“ここ”に」
彼女の言葉に、誠一はそっと頷いた。
——もう、何も恐れない。
たとえ季節が過ぎ、時間が流れても、この夜の光だけは、胸の中で生き続ける。
夏の終わり、大通公園の噴水の前で。
ふたりは静かに、同じ景色を見つめていた。
終わり
◎あとがき的な一言
彼女は少女で、彼は男だった。
年齢も、過去も、抱えているものも違った。
それでもふたりは出会い、触れ、確かに恋をした。
それはひと夏の物語であり、誰にも語られない静かな奇跡だったのかもしれません。