36. 始動
月初めにスタジオで監督、脚本家、キャストやスタッフなど映画関係者の顔合わせが行われた。ニコルは私の挨拶を無視し一言も口をきかなかった。どうやら彼女は私を透明人間のように扱うつもりらしい。私だってニコルと関わらないで済むならそうしたい。でも同じ映画に出る以上2人が不仲だと現場の雰囲気を悪くしてしまうし、皆に気を遣わせ迷惑をかけることになる。だから表面上だけでも上手くやろうと所謂大人の対応というやつで声をかけてやったというのに、この仕打ちは許されるものではない。もう二度とニコルには話しかけない。流石に面と向かって悪態をついたり悪口を言うことはないが、その代わり自分の心の中と祖父の写真に向かって言いたい放題言ってやる。それが私流大人の対応というやつだ。
チャドはスタジオに集まった面々に向かって自己紹介したあと、一人一人挨拶をするようにと指示した。私はチャドとの関係とゲームが好きということ、精一杯頑張るのでよろしくといった内容のことを喋った。
次に自己紹介をした伯爵役のケイレブは消え入りそうな声で5分ほど話していたが、何を言っているのか半分以上聞き取れなかった。ボソボソ喋り周囲に挙動不審な眼差しを向けているこの男が伯爵役って大丈夫か? と多くの人は思うかも知れないが、脚本中のバーナード伯爵は超臆病で内気という設定なので、彼の配役は当たりかもしれない。
伯爵の奥さんのフランチェスカ役はキャロルという舞台役者でチャドの長年来の親友らしい。役者の他に詩人もやっていて、どちらかというと詩の方で成功し数々の詩集を出版しているとか。フレンドリーで気さくな女性だった。
もう一人、この映画のキーパーソンといえる庭師のゴンゾウという人間がいるのだが、彼の役は日本人の40代のタケオという男性が演じる。因みにタケオは演技経験なしの全くの素人なのだが、庭師の仕事をしたことがあるという理由だけで応募したらしい。ある意味強者といえる。
この映画が上手く行くわけがない。きっとこの部屋の誰もがそう思っている。だが私は絶対に成功されなければならないと思っていた。その理由は人によってはかなりしょうもないと思われるかもしれないので、他のメンバーには話さないでいるのだが。
チャドはこの映画を自らの出身地であるスペインのロマンドールという街で開催される、大規模な国際映画祭に出展する予定であると言っていた。祖父の故郷であるスペインで入賞したいという理由ももちろんあるが、1番の理由はトロフィーだ。入賞した作品や俳優には猫のトロフィーが配られることになっている。中でも「金猫賞」に輝いた作品と「最優秀主演女優(男優)賞」に輝いた俳優には金色の猫のトロフィーが授与されるのだ。ロマンドールという街が「猫の街」と呼ばれるほど猫が多い場所であるという由来から生まれた慣習らしい。私はアカデミー賞やトニー賞のトロフィーよりも、ロマンドールの猫トロフィーがずっと欲しいと思っていた。そういうわけで今回の私はいつになく本気なのである。
撮影は主にチャドが祖母から譲り受けたという別宅で行われた。赤煉瓦でできた2階建ての古めかしい建物は舞台としては最適だ。
楽屋として1人1部屋を与えられる。
コメディというジャンルは演じるのが特に難しいと言われる。実際にやってみて実感した。間の取り方だったり独特の台詞の言い回しだったり、笑いを取ることを意識して演じなくてはならないというのは経験と技術を要する。どうにか観ている人に面白く観せようと監督や演出家と議論と試行錯誤を重ね頭を悩ませる一方で、楽しんでもいた。スタッフや他のキャストが私の芝居で吹き出してくれることがモチベーションをさらに高めた。今まで自覚していなかったが、笑いをとればとるほど私は伸びるタイプのようだ。
撮影が始まってもう一つ気づいたことがある。これまで心の奥底で氷柱のように固まっていた感情が、少しずつ溶け出してきたかもしれないということだ。
撮影が中盤まで進んだある日、ルーシーは出番を一旦終え廊下で水を飲んでいた私に向かって「前より表情が柔らかくなったわね」と言った。
「そう?」
「演じてる時のあなた凄くいい顔してる」
ルーシーは微笑んだ。
自分では意識していなかったが、そういわれてみれば最近以前よりも喜怒哀楽の表現が自然にできるようになってきた気がする。撮影時においても日常生活においてもそうだ。何か胸につかえていたものが抜け落ちたみたいに、演じているときのちぐはぐな感覚がなくなった。何より不安や恐怖がなくなっていた。
ウミが言ってくれたように、固まっていた心がゆっくり溶けて動き出す感じが時間をかけてようやく分かった。
その日猫好きのチャドが映画に猫を出演させようと言い出した。以前猫に噛みつかれ猫嫌いとなったチャドの旦那ルーカスは大反対で、一度は現場で夫夫喧嘩が勃発し険悪なムードが漂ったものの、最終的にルーカスがチャドの熱意に押され折れる形となった。
肝心の猫役はというと、サルサの子どもであるグリが演じることになった。まだ3ヶ月のグリはお転婆で現場に連れて行ってもあちこち走り回るため、カメラで撮るのも一苦労だ。何より常に脱走に気を配っていなければならず神経を酷使する。だがいくらグリが悪戯をしても脱走を試みても、猫にめっぽう甘いチャドは躾けるどころか頬を緩めるばかりだ。
ニコルは人目を忍んで何度かグリに接近を試みては引っ掻かれたり「ぴゃー!」と叫ばれて猫パンチをくらったりしていたが、痛いと叫ぶくらいで怒りはしない。私のサルサTシャツを笑った割に猫は嫌いではないらしい。かなり意外だ。
大雑把な性格のチャドに比べルーカスは神経質で完璧主義者だ。脚本家兼演出家の彼は役者の演技に対する注文も細かく非常に厳しい。普段そのような指摘に慣れている私にとっては大したことではなかったが、ルーカスとニコルはよく対立していた。
繊細すぎるケイレブはルーカスの叱責や細かすぎる注文に耐えきれず楽屋から出てこないこともしばしばだが、大体30分〜1時間すると落ち着くのかまた撮影に参加する。
一方で日本人のタケオはかなりユニークな性格だ。彼はある日の休憩時間私に、パエリアは一般的に週何回くらいの頻度で作るのかと尋ねた。
「その家にもよると思うけど……。私の家ではパパが月1くらいで作る」
ちなみに父の作るパエリアは、魚介類の他に野菜や鶏肉も使われていてかなり絶品だ。
「ふーん。あれって日本で作る炊き込みご飯みたいなもんだよな。炊き込みご飯は半年に1回作るか作んないかくらいだけど……。未だに水の加減がよく分かんないんだよな」
タケオは首を傾げて腕組みをした。
「タケオはよく料理するの?」
「たまにな」
「得意料理は何? 寿司?」
「日本人がみんな寿司を作れると思ったら大間違い。作れない奴の方が多いぞ」
「マジ? 家庭料理じゃないん?」
「ちょっと違うな。高級料理だから正月とか特別なときに食べるかな。あと給料日後で金に余裕があるとき」
「あとで作ってよ、寿司」
「話聞いてたか?」
そこにジョーダンがやってきて話に加わった。
「寿司は私の大好物よ! 特にエンガワとアナゴ」
「なかなか渋いとこついてくるな」
タケオが表情を変えずに言った。
「私はステーキの切れ端とかハンバーグが乗ったやつが好き」
私の台詞に腕組みを続けるタケオの頭と首がさらに傾いた。
「ああゆう奴らは厳密に言って寿司なのかどうかってとこだな」
「イカゲソも酒の肴にいいわね」とジョーダンがヨダレを啜ると、「それはもはや寿司じゃねぇ」とタケオがツッコミを入れる。そこでルーカスが向こうから私とタケオの名前を呼んだ。休憩が終わり出番が来たみたいだと知り、私たちは2人撮影場所の中庭に走った。