異形②
結婚前、母はアイルランドの田舎町に住んでいた。彼女は20代の頃車で15分ほどのところにある郵便局に勤めていたのだが、その途中舗装されていない細い道路を中年の男性が馬を引いて歩く姿をよく見かけていた。その馬はいつも背中に重そうな荷物を背負っていた。動物をこよなく愛する母はそんな馬の姿を不憫に思い、ちゃんとご飯はもらっているのだろうか、怪我などしなければ良いがなどと案じていたのだという。
だがあるときからその馬の姿をピタリと見かけなくなった。どうしたのだろうと思いながらも、その馬の記憶は母の中で徐々に薄れていった。
数年経ったある夜母は残業で帰りが遅くなり、眠気を必死に噛み殺しながら車を走らせていた。いつもの未舗装道路にさしかかったとき、その馬がいた。いや、正しくは、上半身だけの馬の霊とすれ違ったのだ。はっとして車を止めサイドミラーから背後を確認するも既に馬の姿は無く、ただ果てしない暗闇だけが広がっていた。
私の話にじっと耳を傾けていたウミは静かに口を開いた。
「あなたのお母さんの馬を思いやる気持ちと馬の魂が共鳴して、霊を見せたのかもしれないね」
「私もそう思うんだよね」
母は全く霊感の類はないし、自分が目にするまでは霊の存在など信じてはいなかったそうだ。だがあの上半身だけの馬の霊を見てからというもの、普段目には見えないものの存在について以前よりも意識するようになったという。
「子供の頃、よくそういうの見えてたんだ」
ウミはさらりと言った。
彼女の実家はウェールズにあった。近所には幽霊屋敷と呼ばれる大きな古い建物があって、子どもたちや若い男女がしょっちゅう肝試しに来ていた。ウミは見るからに邪気を放つ気味の悪い建物に自分から近づくことは決してなかったのだが、ある日弟と一緒にその建物に入らざるをえなくなった。弟は学校の友達数人と肝試しをしたときに、大切にしていたキーホルダーを落としたのだという。1人で行くのは怖いからついてきて一緒に探してほしいと懇願されたウミは、次の日の夕方弟と二人で幽霊屋敷に入った。
建物の中は薄暗くあちこちに蜘蛛の巣がはっていて、足元にはガラスや木の破片が転がっていた。廊下は足を踏み出すたびに軋んだ。壁にはスプレーで下品な言葉や絵の落書きがされ、侵入した若い客たちに荒らされていることが一目で分かった。入口を入った先はホテルのロビーのようになっていて、その奥に回廊式の階段があった。
幸いキーホルダーは長い階段を上がった先の客間のような部屋の入り口に落ちていた。部屋の中には埃をかぶった古いライティング机があり、悪戯をされたのかベッドやソファは破られて綿が飛び出し、大きな鏡台の鏡はまるでハンマーか何かで殴られたかのように蜘蛛の巣状にひびがはいっていた。
「早く帰ろう」
ウミは弟に声をかけた。屋敷に入った時からずっと得体の知れない悪寒を感じていた。誰かに見られているような不気味な視線も。
ウミの言葉に弟は頷いた。
一階に戻ると入口の大きな扉の前で、幼い女の子の声で声をかけられた。振り向いても誰もいない。隣にいた弟に尋ねるも何も聞こえなかったと言う。扉に手をかけたとき、今度は先ほどよりもはっきりとこう聞こえた。
「遊ぼう」
振り向くとそこに5歳くらいの少女が立っていた。アンティークな薄桃色のドレスを着てこちらに微笑みかけている。不思議と怖いとは感じなかった。
「あなたは誰?」
尋ねると少女は答えた。
「私はシャロンよ」
「どうしてここにいるの?」
「それは秘密。ねぇ、隠れんぼをしましょう」
少女に誘われた弟はすぐに了承した。
弟は気づかない様子だったがウミは気づいていた。少女が既にこの世のものではないことに。本当はここで断って帰るべきだったのになぜそれをしなかったかというと、少女の笑顔がどこか寂しげに見えたからだ。シャロンが醸し出す空気に邪悪さは微塵もなく、むしろ澱みのない純粋な子どもの放つものと全く変わりなかった。
3人はその屋敷の中で少しのあいだ隠れんぼをして遊んだ。ウミはその最中にも謎の悪寒と突き刺すような視線を四方八方から感じ続けていた。不穏な感覚は時間が経つごとに強くなっていき、最後には無数の視線に見張られているような圧倒的な恐怖に襲われた。弟はまだ遊んでいたいと言ったが遂にウミは耐えられなくなり、シャロンに帰ると告げた。
少女は玄関で2人を見送りながら言った。
「もう来ないほうがいいわ」
「どうして?」
弟が尋ねると少女は一瞬口籠もったあとで答えた。
「みんながあなたたちを帰したくないって言ってるから」
ウミと弟は逃げるようにして屋敷を出た。
下手な怪談話より恐ろしい実話を聞いて全身に悪寒が走った。淡々としたウミの話し方が余計に恐怖心を煽った。
「こーわ、洒落になんないくらい怖いわ」
「それ以降あの屋敷の前は通らなくなった」
「だけど不思議ね。何でその女の子はその屋敷にいたのかな。ほかのモノたちも……」
「大人になってから知ったことなんだけど、どうやらあの屋敷では昔殺人事件が起きたらしい。大人たちが私たちにそのことを教えなかったのは、その事件があまりに惨たらしくて、子どもに聞かせられるような内容ではなかったからなんだと」
「よくそんな屋敷の近くに住んでられたよね。呪われそう」
「だよね。今思うとよくあんなところに住んでたなって思うよ」
「今でも見えるの? 幽霊」
ウミは苦笑いで首を振った。
「子供の頃は見えたけど、高校生くらいから見えなくなった」
「人に見えないものが見えるってどんな感覚?」
「時々怖い。だけど嫌なことばかりじゃない。死んだペットの姿が私にだけ見えるのは嬉しかった」
「そっか」
「恋みたいなものだよ」
突拍子もない台詞に驚いてウミの顔を見る。彼女の口からそのような台詞が出るのは意外だった。幻聴かと疑ったほどだ。
ウミは目を細め前を向いたまま続けた。
「私が好きな寺山修司っていう人の詩の中にこんな言葉がある。恋は匂いもしない形もない、おばけみたいなものだって」
「素敵な言葉だね」
「うん」
ウミの細められた目から温かな視線が送られていることに気づく。彼女は知っているのだろうか、私が知らないその感覚を。てっきり彼女は私も同じで誰かに恋をしたことなどないと思っていた。仲間だと思い込んでいた分、置いて行かれたみたいでほんの少し寂しい気がする。
「あなたの心の中にもお化けがいるの?」
ふざけてわざと暗号めかした問いを投げかけてみた。ウミは頷くことも首を振ることもしない。ただ試すように私に問いかけた。
「いたとしたらどうする? 逃げる?」
ウミの不可思議な台詞と意味深な目の輝きに一瞬返事に躊躇ってしまう。彼女の真意が全く読めない。
「どうかな」
あまり深く考えずにはぐらかしたあと私は立ち上がった。
「そろそろ帰るわ。今日は楽しかった」
ウミは一瞬寂しげな表情を浮かべたあと、いつものように優しく微笑んだ。
「うん、良かったらまた遊びにおいで」
ウミの家を出て路肩に停めた車に乗り込みエンジンをかける。あの口ぶりからして彼女が誰かに恋をしているのは確かだ。彼女だって人間だから恋くらいするだろうから全く何の問題ないのだが、気になるのは彼女が発した「逃げる?」という台詞だ。何故彼女は私にあんなことを聞いたんだろう。彼女が誰かに恋をしていたとして、何故私が逃げなければいけないのか。
考えていてもキリのないことだ。意味深ワード製造マシーンのウミを相手にするのは容易いことじゃない。シンガーソングライターの彼女は歌手であると同時に詩人でもあるのだ。その言葉にどんな意味があるのかは受け取り手の解釈に委ねられる。文学者でもない私にウミの言葉の真意など分かるはずもない。
経験上、相手の言動を深読みをすればするほど友人関係というのは上手くいかなくなる。ウミとは面倒な関係にはなりたくない。こんな風に気が向いた時にどちらからともなく連絡を取り合って、ゲームや取り止めのない話をしていたい。
アクセルを踏む。車が走り出す。うるさい思考を振り払うように大声で歌を歌った。