28. 勲章
そんなパウロに転機が訪れたのは、彼が30歳の時だった。彼とセシルの間には既に娘と息子が1人ずついて、毎日幼い子どもたちの子育てと仕事に追われていた。パン屋は連日常連客が出入りしていたが繁盛とまではいかず、経営がギリギリの状態だった。このままでは店が潰れる。生活が立ち行かなくなり、大切な家族と友人までもが路頭に迷うことになったらーー。いつも楽観的で生命力に満ちたパウロも、自分と愛する人たちの将来を悲観せざるをえなくなった。
そんな時のこと。パウロの運命を揺るがす大きな出来事が起こった。
セシルの父のジェームズが病に倒れたのだ。
ジェームズはそれまで、愛娘を奪った憎き男であるパウロと積極的に関わろうとしないどころか、親族の集まりなどで彼の顔を見るたびに世界中の悪口と雑言をかき集めたかのような悪態をつき、陰湿な嫌味を言ってきていた。孫たちのこと、特にセシルにそっくりな娘のことは気味が悪いくらい可愛がったが、娘婿であるパウロの存在は終生認めないであろうと誰もが思うほどの冷淡な態度であった。
ジェームズの家に見舞いに行った際、パウロはベッドに横たわる彼の姿を見て驚いた。この世のあらゆる蜜という蜜を吸い尽くしたかのように肥えて傲慢で、ふてぶてしいジェームズの姿はそこにはなかった。少し見ぬ間に彼の身体は半分ほどの大きさになり、その痩せ痩けた顔にかつての尊大さと威厳はなかった。
寝室に設られた介護用ベッドの上、彼はパウロに向かって消え入りそうな弱々しい声で語りかけた。
「私はこれまでお前やお前のような人間たちを見下し、酷くぞんざいに扱ってきた。あの大きな椅子に座っている間は、世の中や家族のために汗水垂らして必死に働くお前たちの存在があって、社会が回っているなどと考えたこともなかったよ。私は本当に馬鹿だった……。どうか許してほしい」
ジェームズの声は震え、その目には涙が滲んでいた。パウロの中にあった、かつての敵に対する憎しみの感情は影を潜めた。代わりにあるのは、死を待つ老人に対する同情と哀れみの念のみだった。
「お義父さん、あなたは私が大切な娘さんと結婚することを許してくれました。お陰で、私のような人間でも幸せを掴むことができるのだと知ることができました。本当に、感謝しています」
パウロの言葉にジェームズは大きく頷いた。
「最初、セシルがお前を好きになった理由が全く分からなかった。可愛い娘を最も簡単に奪ったお前に頭に来て、散々酷いことを言ってしまって悪かった……。今なら娘がお前を愛した理由がよく分かる」
ジェームズは半身を起こすと、パジャマの上着の胸ポケットから金色に輝くバッジを取り出して、震える手でパウロに渡した。それはホテルの最高責任者のみが身につけることを許される、いわば勲章のようなものだった。
「これは……。こんな大切なものを、僕がいただいてもいいんですか?」
パウロには俄に信じられなかった。移民としてこの国にやってきた自分が、このような栄誉のある贈り物を貰うことなど考えてもみなかったのだ。
「お前のような勇気と信念のある人間がホテルには必要だ。どうか受け取ってほしい」
ジェームズは半ば懇願するように言った。それもそのはず、彼は何年も前から考えていた。長男であるジョージは女の尻を追いかけることしか頭にない飲んだくれで、後先考えずに自分本位に行動する。金遣いも荒く計画性も無いため、自分の跡を継ぐには適さない。友のためとあらば目上の人間にも立ち向かう勇気と、困難が立ちはだかろうと一つのことを成し遂げる強い意志、そして仲間思いの優しさを持つパウロこそが、自分の後継者に最もふさわしいと。
パウロは掌の中にある金色の勲章を見つめた。自分が辿ってきた道は間違いではなかった。自分が手にした輝かしい栄誉と、これまでの辛苦に満ちた道のりを思い胸が熱くなった。
そのとき2人のやりとりをこっそり部屋の外で見ていたセシルは1人涙を拭った。パウロの頬を伝う涙は、彼の1番の勲章であるかのように美しく輝いていた。
その後ブランドンホテルの最高責任者として跡を継いだパウロは、ペドロをホテルのベーカリーのシェフとして雇った。また、銀行で働いた経験もあり事務仕事の得意なカトレアを会計係として起用した。
彼は移民や黒人、LGBTや障がいをもつ人々を分け隔てることなく、むしろその能力に応じて積極的に雇用し一人一人の活躍を促すという革新的なやり方で、経営の傾きかけていたホテルを繁栄に導いた。
ホテルのマネージャーとなった妻のセシルは天性のセンスを生かし、ホテルの部屋にアロマを炊いたりくつろげるようなスパや岩盤浴を作る、レストランの数を増やして多国籍にしベジタリアン向けのメニューを取り入れるなど、女性の視点からサービスや設備などについて次々と活気的なアイデアを出し、パウロはそれを進んで取り入れた。
そんな歴史を持つブランドンホテルは現代ーー父の代まで繁栄している。
そういうわけで、私の中で祖父は永遠のヒーローであり、1番の誇りなのだ。