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妖異譚 あれが過ぎると申します

あれが過ぎると申します 彌

掲載日:2024/05/30

 何でも祠《ほこら》の御前《みまへ》に膝を突いて拜《をろがん》んでゐた。旁《かたは》らには、引立烏帽子《ひつたてえぼし》も高〻(たかだか)に、直埀(ひたゝれ)みたやうな白衣《びやくえ》を著込《きこ》んだ男が控へてゐる。自分と同じ位の年恰好《としかつかう》か或《ある》いは幾《いく》らか若いやうで、神妙(しんめう)な神主顏(かんぬしづら)に納《をさま》つてゐる。どうやら禮拜《らいはい》の指南役《しなんやく》でゞもあるらしい。

 作法《さはう》は再拜二拍手一拜《さいはいにはくしゆいつぱい》。

 邊《あた》りには櫻《さくら》の花瓣《はなびら》が降散《ふりち》つてゐる。實《じつ》に好《この》もしい。さうだ、柏手《かしはで》の際《さい》に其一片《そのひとひら》にぽつと火でも點《とぼ》つたら、どうだらう。然樣《さやう》なる奇蹟《きせき》があらば、何だか幸先《さいさき》が佳《よ》いやうな氣がした。

 橫の白衣《びやくえ》にちらと目を遣《や》つた所《ところ》、向《むか》うでも仔細《しさい》らしく點頭《うなづ》いてゐる。

 成程《なるほど》、矢張《やは》り然《しか》るべし。

 其所《そこ》で此方《こちら》としても、鷹揚《おうやう》に深〻(ふかぶか)と二回《にくわい》叩頭《こうとう》して、二つ柏手《かしはで》を拍《う》つた。其一拍目《そのいつぱくめ》と二拍目との閒《あひだ》は、殊更《ことさら》儀式張つてやゝ閒合《まあひ》を開《ひら》くべく工夫して、剩《あまつさ》へ「高祀《たかまつり》彌祀《いやまつり》」と勿體振《もつたいぶ》つて高吟《かうぎん》してみた。

 すると果たして二拍手目の餘韻《よゐん》嫋嫋《でうでう》たる際《きは》、恰度《ちゃうど》目の前に舞來《まひきた》つた花瓣《はなびら》に芽出度《めでた》くもぽつと火が這入《はひ》つた。

 其仄《そのほの》かな燈《あかり》が、黃昏《たそがれ》を過ぎた闇昧《あんまい》さの中で、鮮明に兩眼《りやうがん》を射た。

 得《え》たり畏《かしこ》し。もう一度試みるべし。

 隣の引立烏帽子《ひつたてえぼし》を見ると薄笑ひを嚙潰《かみつぶ》したやうな表情《へうじやう》で目配《めくば》せを返してきたのが、すつかり冥《くら》くなつた中でも判然《はつきり》と認められた。

 矢張《やは》りさうだらう。さうに違ひない。

 再度拍手をして、

「高祀《たかまつり》彌祀《いやまつり》」――

 しかし、何《ど》うした事だらうか。今度は花瓣《はなびら》に火が點《とぼ》らない。否《いや》、正確には一部にさつと火が這入掛《はひりか》けるものゝすぐに立消《たちぎ》えになる體《てい》である。

 緣起《えんぎ》でもない。

 周章《あわ》てゝ再度「彌祀《いやまつり》」と唱へようとした。而《しか》るに、どうした事だか舌が縺《もつ》れ、がくがくと顎迄《あぎとまで》もが戰慄(わなゝ)いて始末に負へない。

「彌《いや》…、彌《イヤ》…、イヤ、イヤ、イヤイヤイヤイヤ……」

 言葉にならぬ、何とも云《い》へぬ獸《けもの》じみた厭《イヤ》な聲《こゑ》が、喉《のど》の奧から絞出《しぼりで》るやうに込擧《こみあ》げて來て、止めようにも止まらない。

 其儘(そのまゝ)呻《うな》るやうに叫んでゐたら、

「あなた、あなた!」

 甲走《かんばし》つた銳《するど》い聲《こゑ》―― 妻《さい》の聲らしい。

「あなた!」

 搖起《ゆりお》こされてはつと目が醒《さ》めた。

 隨分《ずいぶん》魘《うな》されてゐたらしい。

「一體《いつたい》どうなすつたのです?」

 隣を見ると、布團《ふとん》の上に半身を起こすやうにした、妻《さい》であらう姿が、有明行燈《ありあけあんどん》の赤い光を脊に、黑黑《くろぐろ》と影になつて此方《こちら》を向いてゐる。

 其闇昧《そのあんまい》たる、黑黑《くろぐろ》としたものを凝《じつ》と見据《みす》ゑた。

 どういふ事だか、體《からだ》の芯から、止處無《とめどな》い震《ふる》へが込上《こみあ》げて來る。がたがた搖《ゆ》すれる頭に何《ど》うにも纏《まとま》らぬ思案を巡《めぐ》らせた。


 扨《さ》て、茲(こゝ)に夢の話を打明《うちあ》けたものか否《いな》か?



                         <了>






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