あれが過ぎると申します 彌
何でも祠の御前に膝を突いて拜んでゐた。旁らには、引立烏帽子も高〻に、直埀みたやうな白衣を著込んだ男が控へてゐる。自分と同じ位の年恰好か或いは幾らか若いやうで、神妙な神主顏に納つてゐる。どうやら禮拜の指南役でゞもあるらしい。
作法は再拜二拍手一拜。
邊りには櫻の花瓣が降散つてゐる。實に好もしい。さうだ、柏手の際に其一片にぽつと火でも點つたら、どうだらう。然樣なる奇蹟があらば、何だか幸先が佳いやうな氣がした。
橫の白衣にちらと目を遣つた所、向うでも仔細らしく點頭いてゐる。
成程、矢張り然るべし。
其所で此方としても、鷹揚に深〻と二回叩頭して、二つ柏手を拍つた。其一拍目と二拍目との閒は、殊更儀式張つてやゝ閒合を開くべく工夫して、剩へ「高祀彌祀」と勿體振つて高吟してみた。
すると果たして二拍手目の餘韻嫋嫋たる際、恰度目の前に舞來つた花瓣に芽出度くもぽつと火が這入つた。
其仄かな燈が、黃昏を過ぎた闇昧さの中で、鮮明に兩眼を射た。
得たり畏し。もう一度試みるべし。
隣の引立烏帽子を見ると薄笑ひを嚙潰したやうな表情で目配せを返してきたのが、すつかり冥くなつた中でも判然と認められた。
矢張りさうだらう。さうに違ひない。
再度拍手をして、
「高祀彌祀」――
しかし、何うした事だらうか。今度は花瓣に火が點らない。否、正確には一部にさつと火が這入掛けるものゝすぐに立消えになる體である。
緣起でもない。
周章てゝ再度「彌祀」と唱へようとした。而るに、どうした事だか舌が縺れ、がくがくと顎迄もが戰慄いて始末に負へない。
「彌…、彌…、イヤ、イヤ、イヤイヤイヤイヤ……」
言葉にならぬ、何とも云へぬ獸じみた厭な聲が、喉の奧から絞出るやうに込擧げて來て、止めようにも止まらない。
其儘呻るやうに叫んでゐたら、
「あなた、あなた!」
甲走つた銳い聲―― 妻の聲らしい。
「あなた!」
搖起こされてはつと目が醒めた。
隨分魘されてゐたらしい。
「一體どうなすつたのです?」
隣を見ると、布團の上に半身を起こすやうにした、妻であらう姿が、有明行燈の赤い光を脊に、黑黑と影になつて此方を向いてゐる。
其闇昧たる、黑黑としたものを凝と見据ゑた。
どういふ事だか、體の芯から、止處無い震へが込上げて來る。がたがた搖すれる頭に何うにも纏らぬ思案を巡らせた。
扨て、茲に夢の話を打明けたものか否か?
<了>