1823.三文について
一瞬前までの黒ゴマ団子っぽい質感から、あっと言う間に人間本来の肌色に戻ったレイブの横には、ゴリゴリに分厚かった鱗を嘘みたいに消し去ったギレスラが真紅の鱗を輝かし、長尺な演技のせいで脂肪燃焼をいつもより過度に進めてしまい過ぎたペトラはほっそりとした姿を表して、兄達とお揃いの笑い顔を浮かべていたのである。
まあ、ここまでのスリーマンセルの観察にお付き合い頂いたオーディエンスの方々にとっては当たり前、幼少期からモンスターを捕食してはグルグルやり続けてきた結果なのだから彼等にとっては息を吸う、そして吐く、そんな感じなのは余裕でご理解頂けるだろう。
寧ろ急速な治療を要する緊急事態の証、『ふっ!』が出ていない事が彼等にとっての日常、通常運転さを表している、つまり文字通りの三文芝居に過ぎないのだ。
余談に余談を重ねてしまうがこの三文、二束三文なんて言葉でもお馴染みだがどれ位の価値だかご存知だろうか?
聞いて驚いて頂きたい、なんと九十円前後だったと言うのだ! ※あくまでも皆さんに判り易く令和七年五月初旬での換算レートです
文なんだから当然江戸時代とか昔の通貨である。
にしても二束、つまり二足で三文? えっ、九十円? である。
当時は一般的だった履物、外履きや道中履きのキングオブキング、草鞋が二足、まあ一揃えなのだが、それでたった三文だったのだ、ビックリ価格、デフレの極みでは無かろうか?
庶民なんかの夜の楽しみ、立ち食い蕎麦とかが十六文、着席できる一膳屋でも数十文から数百文で商売出来ていた時代でだ。
一汁一菜のちょっと饐えた匂い漂う激安店でも三十文位していた事を鑑みれば、蕎麦の安さ、延いては草鞋の馬鹿みたいな安さが際立って感じられるのでは無いだろうか? 皆さんの時代の靴とは全然違うのである。
それ位の極端なディスカウントで表現される素人芝居は演者の諦めで唐突に終焉を迎えた、勝手さも素人故の雑さが理由なのだろう、仕方が無い。
三文ぽっちの芝居、それは、観てくれて時間を使ってくれて本当に本当にありがとうっ! そんな気持ちで演じなければならない、そもそもその前提で名付けられているのである。
しかし、然しだっ、この一座にはそこら辺の謙譲心、自分達がまだまだ、お金を貰える程ではないっ! そんな謙虚さ、転じて成長力が決定的に足りていなかった、過去の獣人達が与えた成功体験がそう思わせていたのである。
誰が彼等の勘違い、適度なレベルの天狗現象を責める事が出来るだろうか? 人とは総じてか弱き存在なのだ…… まあ、豚とトカゲも弱いんだろう、そう思おう。
お読みいただきありがとうございます。
感謝! 感激! 感動! です(*'v'*)
まだまだ文章、構成力共に拙い作品ですが、
皆様のご意見、お力をお借りすることでいつか上手に書けるようになりたいと願っています。
これからもよろしくお願い致します。
拙作に目を通して頂き誠にありがとうございました。
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